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静岡県清水港を発展させたお茶と神奈川丸

饒村曜気象予報士
日本茶(写真:アフロ)

夏も近づく八十八夜(5月1日)が過ぎ、各地で茶摘みが行われています。静岡の民謡「ちゃっきり節」には「きゃあるが鳴くんて雨ずらよ(カエルが鳴くので雨が降るという意味の方言)」という蛙の天気予報の囃子詞が入っていますが、梅雨時までの晴天の利用しての作業です。

日本のお茶の増産、特に静岡県の増産は、アメリカによってもたらされています。

徳川家康と海野本定

天下を取った徳川家康は、駿府(現在の静岡市)に住み、西の豊臣方の諸侯に睨みを利かしていますが、お茶を愛飲し、大井川上流と安倍川上流を結ぶ大日峠にお茶壷屋敷を造って、海野本定らに管理をさせています。標高1000mにあるお茶壷屋敷は、自然の冷蔵庫の役割をし、駿府付近の良質なお茶(足久保茶)を保存していましたので、徳川家康は一年中香ばしいお茶を飲んでいました。

江戸時代初期まで、主に大名や豪商などが中心のごく限られた人が嗜んでいたお茶ですが江戸時代後期には庶民の生活が豊かになって、煎茶や玉露などの緑茶が人気となっています。しかし、お茶は嗜好品であり、生活が多少豊かになった程度では、爆発的な生産量の増加はありませんでした。

アメリカのお茶の需要に価格と品質で応えた日本

日本のお茶の爆発的な生産増は、アメリカによってもたらされました。

1783年にイギリスから独立を勝ち取ったアメリカは、1848年にメキシコとの戦争に勝って太平洋に面したカリフォルニアなどを併合して太平洋に進出し、急速に豊かになってゆきました。この頃のアメリカでは、優良なお茶の需要も大きくなっており、アジア各地からお茶を求めました。

多くの国がアメリカヘお茶を輸出しましたが、日本は他国のように売れるからといって粗悪品を混ぜることをしませんでした。また、技術的な改良のため継続的に試験研究を行って、安定した価格で一定量の良質な製品を輸出していました。

このため、アメリカへのお茶の輸出では日本が確固たる地位を確立しています。

日本茶の輸出

日本茶の輸出は、安政6年6月2日(1859年7月1日)に、長崎、箱館(現在の函館)、横浜の3港の開港と同時に始まっており、絹に次いで日本の重要な輸出品となっています。

静岡茶が横浜に出荷されて、アメリカに輸出されたのは文久3年(1863年)のことです。

慶応元年(1865年)の3港からの主要輸出品を見ると、1位が生糸、3位が蚕卵紙(養蚕業で使う蚕の卵が張り付いている紙)と生糸関係で8割を越えていますが、残りの半分は日本茶です(表1)。

表1 慶応元年の主要輸出人品の割合
表1 慶応元年の主要輸出人品の割合

輸出される日本茶の多くは、静岡県での増産で賄われています。明治10年(1877年)には、これまでの日本茶の大口生産地である山城(現在の京都府)、伊勢(現在の三重県の一部)を抜いて駿河が第1位となっています(表2)。静岡県は駿河と遠江からできていますので、これを合わせると全国の15%を占めています。そして、明治38年(1905年)には全国の29%が静岡県の日本茶となっています。

静岡県の日本茶は、清水港から横浜港まで、1日半かけて船で運ばれました。

表2 明治10年の茶産地(静岡県史などをもとに作成)
表2 明治10年の茶産地(静岡県史などをもとに作成)

日本茶の恩恵を静岡にとの思い

横浜港からアメリカへの日本茶の輸出が増えても、静岡の生産者や流通業者達は、その恩恵を受けていません。これは、取引に店番料や倉番料などの余分の費用負担を強いられる弱い立場にあったからです。明治22年には茶業の有力者をもって静岡市茶業組合を作って交渉しましたが、なかなか改善されませんでした。

東海道線の開通と清水港の危機

明治22年(1889年)4月16日には静岡と浜松間が開通し、これにより、滋賀県の長

浜と大津間は琵琶湖を利用した鉄道連絡船を用いていたものの、関東と関西を結ぶ大動脈である東海道線が完成しています。

東海道線の開通は静岡産の日本茶の流通と生産に革命を起こしています。

鉄道により、北海道の魚粉などを肥料として購入することで、日本茶が質量ともに向上し、生産された製品を消費者のもとへ安価で届けることが出来るようになったからです。

その反面、日本茶を鉄道で直接横浜まで運ぶことが出来るようになったことで、清水港から横浜港への取り扱いが急速に減っています。

江戸時代に外国と貿易できる港(開港場)は全国で5港でしたが、明治元年にはこのうち日本茶を収り扱えるのは、函館と新潟を除く3港(横浜、神戸、長崎)と決めていました。

静岡の地方政界・財界人の働きかけで、明治32(1899)年7月12日には、全国22港の一つとして外国貿易の開港場に指定されています。

しかし港湾施設は貧弱で、大型船の出入りがなかったことから輸出入額は少なく、「2年毎に見直して開港場の指定を取り消す」という規程におびえるような状況でした。

そこで、清水港で積んで横浜港で積み替えるという方法で、アメリカのシアトル港向けの日本茶輸出が始まっています。変則的であっても、清水港の輸出量として数えるためです。

清水港は、日本茶の輸出によって発展していたのですが、東海道線の開通で港の利用が減り、その打開策として、製茶業界が悲願としている日本茶の恩恵を静岡にもたらす直輸出が考えられました。

世界にお茶を売った男・海野孝三郎

明治38年に静岡市茶業組合の海野孝三郎は、静岡市に静岡製茶再製所を創設しています。刈り取った茶葉を日本茶という製品にするにが製茶再生所です。

その後、静岡県内各地に製茶再製所が作られ、静岡県で産するお茶だけでなく、他県の茶葉も集まり、静岡県で産する日本茶の量は急激に増えています。

後に「世界にお茶を売った男」と呼ばれた海野孝三郎は、徳川家康に仕えた海野本定から数えて10代目の海野家の当主ですが、10年にも及ぶという日本郵船と長い交渉の末、日本茶の直輸出のため、明治39年5月13日に日本郵船の神奈川丸が清水港に入港することが決まっています。

神奈川丸が清水港に寄港

神奈川丸の清水入港は5月13日9時で、沖合10町(約1キロメートル)のところに停泊しました。清水町民は歓迎ムード一色で、歓迎のための飾りつけが行われ、花火が連発する中、大勢の人が埠頭に詰めかけています。午後には小学生数千名による運動会などの余興等が準備されていましたが、来賓が到着した昼頃から雨足は強まり、風も強くなって、せっかくの飾りや花火が台無しとなっています。

図1 地上天気図(明治39年5月13日6時)
図1 地上天気図(明治39年5月13日6時)

運搬用の小舟を使って行われた積み込み作業は、強風のために予定の13日中には終わらず、出航目の14日まで続けられましたが、最終的には3472箱と予定を大きく上回る量の日本茶が積れました。そして、予定より1時間早い11時に清水港を出航、横浜港経由でアメリカのシアトルに向かっています。

神奈川丸船長の挨拶と清水港の発展

13日の13時から神奈川丸の船内で開催された饗宴では、日本郵船横浜支店長の「海外直輸出の事業今日より開始されんとす」との挨拶と万歳三唱、来賓代表挨拶などがあり、最後に、神奈川丸のカルノー船長が、如才なく日清戦争の勝利に触れた挨拶をしています。

「日本は戦争により偉大なる勝利を得たり。今後は更に事業に向かって同様の優勝を占めざるべからず。神奈川丸は今製茶を積み取らんが為めに来れり。而して航路はアメリカに向はんとてなり。然れども諸卿よ、諸卿は須らく之れに甘んずるべからず、ユクユクは製茶のみならず其他幾多の国産の販路を海外に拡かせざるべからず。その航路も独りアメリカのみならず、ヨーロッパ諸国への寄港船も亦当港に回航すべく繁盛に向はしめよ(「静岡民友」新聞より)」

そして、6月1日には旅順丸、6月10日に加賀丸、6月24日に丹後丸と、ほば月2回のペース

で日本茶の清水直輸出が行われています。

そして、清水港からの製茶の輸出量は、3年で横浜港を抜き、あっという間に独占体制を築いています。

図2 主要港の製茶輸出量の推移
図2 主要港の製茶輸出量の推移

これには、清水港という地の利に加えて、静岡の製茶業界や政界が団結して高品質の製品提供に心がけたこと、港や鉄道に関わる業者が団結して輸送に当たったことなどが大きかったと言われています。

鉄道によって衰退するかに見えた清水港は、鉄道と直結することでさらなる飛躍をとげたのです。

神戸コレクションにある神奈川丸の海上気象報告

気候変動が人類にとって重大な問題になり、長期間の観測資料、特に海の観測資料が求め

られるようになり、注目されたのが「神戸コレクション」です。

ファッションの世界での神戸コレクションとは全く違います。神戸にあった海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が収集した明治23年(1890)から昭和35年(1960)までの日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通と軍艦等からの海上気象観測表のことです。

船舶での気象観測は、航海が終われば必要がなくなることから、使い捨てのものですし、長い問に災害や戦争などで失われています。神戸コレクションのように、まとまって保管されている資料は世界に類をみません。

この中に、神奈川丸の海上気象報告も残されています(図3)。

図3 明治39(1906)年5月の神奈川丸の海上気象報告
図3 明治39(1906)年5月の神奈川丸の海上気象報告

神奈川丸の海上気象報告

カルノー船長のサインがある神奈川丸の海上気象報告によると、5月1日に香港を出航して4日に上海着、6日に上海を出航して8日に門司着、10日に門司を出航して11日に神戸に入港している。そして、12日12時に神戸港を出航し、13日8時に静岡県御前崎沖を通過して清水港のある折戸湾に入っています。

清水港入港中の観測記録はありませんが、出航5時間後の14日16時には伊豆半島南端にある神子元烏沖に達しています。そして、東の風、風力4、気圧29.78インチ(換算1008癖とパスカル)、気温69華氏度(セッシ20.6度)、天気晴れ(雲量3)という観測をしています。

神戸コレクションは、神奈川丸のような観測資料が沢山含まれており、それらの観測資料は数値化され、コンピュータ処理がしやすいようになっています。

そして、現在の人類が抱えている大きな問題である気候変動問題、今後の気候がどう変わるか、それに対して私達は何をすべきかといったことを解明するための貴重な資料と各国で使われています。

図表の出典:饒村曜(2008)、清水港の発展に寄与した次郎長と神奈川丸、海の気象、海洋気象学会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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