初のブラジル移民船「笠戸丸」の数奇な運命と神戸コレクションに残された海上気象観測

神戸港移民乗船記念碑(写真:アフロ)

昭和50年に北原ミレイが歌ってヒットした「石狩挽歌(作詞・なかにし礼、作曲・浜圭介)」に、「沖を通るは笠戸丸」という一節があります。

残されている海上気象記録から、この一節は、昭和6年から7年にイワシ工船に改造され、北海道周辺で活路を見いだそうとしていた頃の「笠戸丸」と推測でき、数奇な人生を歩んだ主人公がオーバーラップしています。

ロシア義勇艦隊協会

「笠戸丸」は、元々は「ポトシ」といい、明治33年(1900年)にイギリスで、イギリスとチリ間の航路用に建造されました。このため、多くの乗客を遠くまで運ぶことを意識した船で、航続距離が1万7000キロメートルもありました。

しかし、航路の需要が激減していたため、できたばかりの「ポトシ」は、ロシア義勇艦隊協会に売却され「カザン」と名前を変え、黒海に面したウクライナのオデッサと極東のウラジオストクを結ぶ航路に就航しています。

ロシア義勇艦隊協会は、国民から義援金を集めて船を買い、通常は商業航海、有事には1000人以上を収容する病院船として国に提供することを考えていました。

明治37年2月に日露戦争が始まると、「ポトシ」は病院船としてロシア艦隊とともに旅順港に入り、日本陸軍の攻撃で被弾・沈没し、病院船の任務を解かれています。

「カザン」の音をとって「笠戸丸」

旅順陥落後に引き上げられた「カザン」は、発音から「笠戸丸」と名付けられ、日本海軍の船となり、民間に有料で貸し出されます。

第一回ブラジル移民船

東洋汽船では、明治39年7月に海軍から使用料を払って借り、極東と南米を結ぶ航路に使っています。

そして、明治41年4月28日夕方、ブラジルへの最初の移民781名を載せて神戸港からブラジルのサントスに向けて出港しています(図1)。

ブラジルの日系人約80万人の草分けです。

ただ、東洋汽船がブラジル移民を運んだのは、この時だけです。

「笠戸丸」は、5月9日にシンガポール、6月3日にケープタウンの2港だけに寄港し、6月19日サントスに到着しています。

1日6回(2時、6時、10時、14時、18時、22時)の海上気象観測によると、東シナ海を南下していた5月1日が風力7であった以外は、ほとんどが弱い風の中の航海であること、南シナ海を航行中の5月4日からインド洋のマダガスカル島近海に達する5月25日までは気温が一日中30度を超え、風の弱い暑さでかなり難渋したと思われます。

図1 第一回ブラジル移民船「笠戸丸」の航路(実線:往路、点線:復路)
図1 第一回ブラジル移民船「笠戸丸」の航路(実線:往路、点線:復路)

インド洋と大西洋を横切ってブラジル移民を運んだ「笠戸丸」は、その前年にもハワイやペルーへと、太平洋をとんぼ返りで移民を運んでいますので、かなり荒い使われ方でした。

花形の台湾直行便

明治42年12月に、こんどは大阪商船が海軍から借用し、大改装をして台湾直行便となっています。

神戸から門司を経由し、台湾の基隆を結ぶ花形の豪華客船になったのです。

図2は、「笠戸丸」に華やかなスポットライトがあたっていたときの海上気象観測表です。

特記欄(図の右側)には、前年12月に神戸測候所で行った気圧計の検定による補正値が記されていますので、常に正確な気象観測を心がけていたと思われます。

図2 明治42年(1911年)2月の「笠戸丸」による海上気象報告
図2 明治42年(1911年)2月の「笠戸丸」による海上気象報告

いわし工船からカニ工船

昭和5年(1930年)になると、「笠戸丸」も老朽化したため転売され、イワシ工船に改造されています。

朝鮮半島沿岸でイワシを獲り、船内で油や肥料を作ってアメリカのオレンジ農園に輸出するもくろみは、肝心のイワシがとれないので失敗に終わっています。

その後は、北海道周辺に活路をもとめ、昭和8年にはカニ工船に改造されて北洋に活躍の場を求めています。

冒頭に書いた石狩挽歌の「笠戸丸」が、昭和6年から7年という推定したのは、その年以外では、石狩湾を通る可能性が非常に少ないからです。

昭和20年8月9日、ロシアから変わっていたソビエトが太平洋戦争に参戦し、満州国や日本領樺太に侵入を開始しています。カムチャッカ半島西海岸にいた「笠戸丸」は、ソビエト空軍の爆撃で沈没、日本の近代史とからんだ45年の一生を終えています。

日本の近代史を研究している人にとって、「神戸コレクション」にある「笠戸丸」の海上気象観測は、乗り組んだ人々の日記や新聞記事を裏付ける資料、あるいは、新発見の資料として注目されています。

「笠戸丸」の海上気象観測から、これまで不明だった笠戸丸の帰国の航路の特定や、赤道を横切った時に行う赤道祭りが 1週間後だった理由が赤道通過時にうねりが高かったのではないかという推定が出来ています。

気象の観測データという枠を越えた価値があるのです。

ファッションショーではない「神戸コレクション」

「神戸コレクション」と呼ばれるものに、神戸開催の日本最大級のファッションショーがありますが、ここでいう「神戸コレクション」は、それではありません。

今から120年以上前の明治23年(1890)から昭和35年(1960)までの日本の商船等で観測報告された海上気象観測表約680万通からなる資料群のことで、神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)で保管されていました。

「神戸コレクション」にある「笠戸丸の海上気象観測表」は、第一回ブラジル移民船となった航海を含む東洋汽船時代が4年分、日台航路の大阪商船時代が12年分、漁業工船時代が2年分含まれています。

昭和35~36年には気象庁とアメリカ海洋大気庁(NOAA)の共同事業によって、昭和8年以降の270万通について、計算機で使えるように海上気象観測表の観測要素等を数値化するデジタル化が行われましたが、それ以前については、観測方法や記入方式が変わっていることなどからデジタル化には費用がかかりすぎるとして見送られてきました。

しかし、平成7年1月17日に阪神・淡路大震災が発生すると、この地震では無事でしたが、人類の貴重な財産をこのまま眠らせて良いのかという議論がでました。

このため、日本気象協会が日本財団補助事業として、気象庁の支援を受けて昭和7年以前の海上気象観測資料の観測資料のデジタル化が行われました。

「神戸コレクション」の地球温暖化の研究への貢献は多大なものがあります。現在の状況が現在でしか観測できません。あとで必要になっても入手できません。

「神戸コレクション」は、現在すぐに役に立たたなくても、現在の状況を正確に記録して後世に残すことの重要性を示す一つの例となっています。

ブラジル移民と気象台の関係

ブラジル移民と気象台との関係は、神戸海洋気象台で保管されていた「神戸コレクション」に、第1回ブラジル移民を運んだ笠戸丸の海上気象観測資料が含まれているだけの関係ではありません。

全国のブラジル移民希望者は、手続き等ため神戸市にある国立移民収容所に集まっています(図3)。

図3 神戸市にあった国立移民収容所の建物
図3 神戸市にあった国立移民収容所の建物

この国立移民収容所の建物が、後に神戸市医師会准看護学校として使われ、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災の時は空き家でした。

そこの二階の一部に、地震で建物が壊れた神戸市中央区中山手通りの神戸海洋気象台の総務課と海洋課が移転し、仮庁舎としています。

このため、神戸海洋気象台仮庁舎の前庭には「ブラジル移民発祥の地」の石碑があったことになります(図4)。

図4 「ブラジル移民発祥の地」の石碑
図4 「ブラジル移民発祥の地」の石碑

そして、平成11年9月1日に神戸市中央区脇浜海岸通りの神戸市防災合同庁舎に、中山手通りに残った予報課などの3つの課と仮庁舎の2つ課が集まり、新天地で再出発をしています。

図の出典:饒村曜(2010)、海洋気象台と神戸コレクション 歴史を生き抜いた海洋観測資料、成山堂書店。