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流氷観測のために作られた女満別空港

饒村曜気象予報士
夕暮れの女満別空港(写真:アフロ)

北海道網走市の海岸に流氷が接岸し、沿岸のほとんどが流氷で覆われたため、網走地方気象台では、2月22日午前に「流氷接岸初日」を発表しました。

平年より20日、昨年より34日遅い接岸です。

沖合いに流氷が観測された「流氷初日」が1月28日と平年より7日遅かったので、そこから更に遅れたのです。

凍る海のほとんどは南極や北極に近い極地方であり、オホーツク海南部は、北半球で最も南(網走の緯度は約北緯44度)の凍る海です。

日本は流氷によって大きな影響を受ける最も南にある国ということができ、流氷災害を防ぐなど防災のために昭和10年から飛行機による流氷観測が行われていました。

北海道の代表的な空港の一つである女満別空港は、流氷観測のために作られた気象台空港が発展したものです。

オホーツク海が凍る理由

オホーツク海が凍るのは、アムール川から流れ込む大量の淡水がオホーツク海の塩分を減少させ、濃い塩分の海水の上に塩分の薄い層を作るからです。水温が下がってくるとその上の薄い層が真水に近いためにすぐに凍るからです。

海面が流氷に覆われていると気温が低くなります。海面が凍っていなければ、海水温は少なくともマイナス2度以上あり、寒気がきて海の表面を冷やしても、表面の冷たくなった海水は密度が高くなって沈み、相対的に暖かい海水が上昇してくるからです。

このため、氷に覆われていない海の沿岸付近の気温は、内陸ほど低くはなりません。

しかし、流氷が接岸すると事態は一変します。海水の熱が大気に伝わらなくなり、海が大陸と同じ状態になるため、寒気がくればそのまま地表面が冷やされます。また、氷に覆われると、太陽光をより多く反射し、太陽エネルギーを吸収しにくいために暖まりにくくなります。

北海道沿岸への流氷の襲来は、ほぼ1月の中旬です。2月の初めには流氷は千島列島の南端に達して、その一部は太平洋に流出を始めます。3月の初めか中旬には、流氷域が最大となって、オホーツク海の80%を覆います。

そして、4月中旬には流氷は、オホーツク沿岸から去っていき、5月下旬にはオホーツク海から完全に氷がなくなります。

目視による流氷の観測

気象庁では、明治25年(1892年) から、目視による流氷の観測を続けています。視界外の海域から漂流してきた流氷が、視界内の海面で始めて見られた日が流氷初日です。

流氷終日は、この逆で、視界外に去った最後の日が流氷終日です。一旦、視界外に消えても、再び戻ってきた場合は流氷終日にはなりません。

同じ北海道のオホーツク海沿岸といっても、北部の稚内は東部の網走などと比べて、流氷初日が遅く、流氷終日が早いと、流氷期間が短くなっています。

飛行機による流氷観測のために作られた空港

大正末期から昭和初期にかけて、航空機の民間利用が実用化のきざしをみせはじめてきました。そこで、中央気象台の岡田武松台長は、航空気象業務の整備をめざし、大正12年3月には早くも中央気象台の業務に航空気象を加えています。

大正14年に東京~大阪~福岡間に郵便飛行が開始され、昭和4年3月に日本航空機輸送株式会社が開業していますが、それよりも前の話です。

中央気象台技師の関口鯉吉は、実兄で静岡市の写真家であった加藤周蔵に国際的な大規模な気象観測(国際極年)のため、日本では誕生したばかりの飛行機を使って高層気象観測をしたいと相談します。

加藤周蔵は静岡中学の同級生でともに野球部だった鈴木興平(鈴与)が支援している根岸錦蔵を紹介しています。

根岸錦蔵は、鈴木興平の援助で、静岡県三保で飛行場を経営、昭和3年4月から静岡県の委託で魚群探査事業をしていました。

予算がないが頼むと言う関口の依頼に対し、根岸は、岡田武松台長などと話をし、役人離れしていて気が合いそうだと快諾します。中央気象台三保臨時出張所の誕生です。

昭和9年の夏にいろいろな気象災害が一度に起きます。関西室戸を襲った室戸台風による風水害、九州を中心とした西日本の干ばつ被害、そして、北日本の大冷害です。

北日本は、夏になっても気温が上らず、東北地方の水稲の作況指数は61と大凶作となってます。

当時、オホーツク海及び千島近海の結氷は凶冷の原因ではないかということがいわれ、農林省の委託事業として、オホーツク海及び千島の結氷状態を実用化しはじめた飛行機で観測することになりました。

このため、昭和10年1月に関口と根岸は、飛行場探しに北海道に出張します。

女満別の広広とした雪原を見た2人が女満別村役場で相談すると、森谷新作村長をはじめ村会議員は協力を快諾、村有競馬場の10年間の無償貸与が決まっています。当時は、飛行機を見たことがない人がほとんどで、トラックをぐるぐる回って加速して飛行機が飛び立つと考えていた人もいたくらいでしたが、国のためになるならとのことでの快諾です。

昭和10年3月11日に流氷観測のため、三保出張所の全員(根岸以下5名)が、三保出張所の2台の飛行機(10式艦上偵察機)を持ち込んでいます。雪解けの競馬場は大木の切り株が顔を出しており、とても飛行機が飛べる状態ではありませんでしたが、村民総動員の協力による突貫工事で、1週間あまりで女満別気象台空港の滑走路(長さ300メートル、幅50メートル)を作っています。

そして、3月23日に初の流氷観測のために飛行機が女満別村始まって以来の人出のなか、大歓声におくられて飛び立っています。

これが最初の飛行機による流氷観測で、本格的な観測は、翌年からです。

しかし、女満別気象台空港を使った流氷観測の記録は、米相場に影響を与えるなどの理由で秘密資料となって、ごくわずかしか作られていなかったことに加え、中央気象台の火災や戦災があり、ほとんど残されていません

この女満別気象台空港は、太平洋戦争中の昭和18年に海軍美幌航空隊第2基地となり、戦後はアメリカ軍に接収されています。

昭和33年7月に接収が解除、38年4月15日からは新しい女満別空港として出発し、北海道の代表的な空港に成長しています。

現在は自衛隊と海上保安庁が飛行機で観測

戦後は、昭和32年から陸上自衛隊と海上保安庁で、35年からは海上自衛隊で飛行機による流氷観測が始まり、その観測データは、気象庁などに提供されています。

人工衛星による観測は、搭載されているセンサーによっては雲の影響を大きく受けます。

飛行機による観測は、雲の影響を受けない低い高度の観測であり、極めて精度の高い情報が得られています。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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