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鍵は機能した予備電源 阪神淡路大震災でも海上を照らし続けた野島断層上の江崎灯台

饒村曜気象予報士
阪神淡路大震災で出た活断層(写真:アフロ)

平成7年(1995年)1月17日、淡路島北部の野島断層付近を震源とする兵庫県南部地震が発生しています。神戸と淡路島に大きな被害が発生し、阪神淡路大震災と名づけられました。

多くのインフラが停止しましたが、地震対応の予備電源を持っていたところは、大地震があっても通常通りの機能を発揮しています。

淡路島北部の野島断層付近にある江崎灯台もその一つです。

図1 江崎灯台のシルエット
図1 江崎灯台のシルエット

野島断層と江崎灯台

図2 明治初期に点灯した大阪湾北部の灯台
図2 明治初期に点灯した大阪湾北部の灯台

淡路島北部の野島断層が陸上から海に入る場所に、明治4年4月27日(1871年6月14日)に初点灯した石造りの江崎灯台があります(図1)。

慶応3年(1867年)に兵庫開港に備えて徳川幕府と英国公使が結んだ大阪条約で建設を約束した灯台の一つで、日本の洋式灯台では8番目のものです(図2)。

明石海峡は流れが早いことに加え、外国航路の大型船が東西に航行し、神戸や淡路島を結ぶ船が南北に航行し、加えて多数の漁船が操業する漁場となっていますので、全国でも有数の海難が起き易い海域です。

このため、早い時期に瀬戸内海の家島で産出した御影石(花崗岩)を使って江崎灯台が作られたのです。

今も残る昔の江崎灯台の観測記録

近代日本の灯台の歴史は、徳川幕府が開国に伴ってアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4か国と結んだ「江戸条約」によって約束した8つの灯台建設、兵庫開港に備えてイギリスと結んだ「大阪条約」によって約束した5つの灯台建設から始まっています。

これらの約束は、徳川幕府を倒した明治新政府に引き継がれています。

続々誕生した灯台では、天気、気圧、風向・風速などを記録した「天候日誌(天候広報、天気広報)」が作られ、各地の灯台を管理していた灯台寮に集められています

図3 明治15年6月の江崎灯台の気象広報の一部
図3 明治15年6月の江崎灯台の気象広報の一部

このうち、気象庁には、明治10年1月以降の灯台の観測記録が残されています。

その中には、江崎灯台の観測記録も含まれています(図3)。

明治初期においては,気象台や測候所の数が少なかったため、気象を調査しようとすると、灯台の観測データが不可欠でした。神子元島灯台のように、測候所と同様の観測通報を行った灯台もあります。

灯台の観測記録の重要性は、今も変わりはありません。明治初期の気象を研究するときには、灯台の観測資料が重要です。

日本の気象業務揺籃期には、灯台は気象台の前にあるからです。

地震でも灯りを絶やさなかった江崎灯台

図4 江崎灯台と野島断層
図4 江崎灯台と野島断層

江崎灯台の場所は、兵庫県南部地震の震源地となった野島断層が陸上から海に入る場所にあります(図4)。ほぼ野島断層の真上です。

野島断層は、地震によって陸上にはっきりとした断層を作っています。「阪神淡路大震災による活断層」として写真にとられているのは、全て野島断層です(図5)。

図5 兵庫県南部地震による断層の出現
図5 兵庫県南部地震による断層の出現

海岸沿いにある江崎公園から江崎灯台へ一直線に延びる石積みの階段の途中を野島断層が通っており、兵庫県南部地震でその石段が壊れています(図6)。

図6 兵庫県南部地震による江崎灯台の登り口付近の被害
図6 兵庫県南部地震による江崎灯台の登り口付近の被害

兵庫県南部地震での江崎灯台付近の震度は「震度6強」と推定されていますが、石造りでガッチリと作られていた江崎灯台の海上を照らすという機能に被害はありませんでした。

地震により停電となりましたが、予備電源にすぐに切り替わったため、灯りを絶やすことがありませんでした。

そして、地震後も、いつも通り、淡路島北部は生きているというメッセージも載せて海上を照らし続けていました。

江崎灯台は、震源地のほぼ真上であっても使命を全うしていますが、これは地震があっても予備電源が動いたからです。

しかし、予備電源が動かない事例が相次いだのが兵庫県南部地震です。

地震での機能停止は直接壊れるよりパワーダウン

兵庫県南部地震が発生したとき、私は神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)の予報課長で、大災害発生時には自動的に神戸海洋気象台の災害対策副本部長になっていました。

地震がおきるとインフラが機能停止しますが、地震で直接壊れるものより、電源が無くなったことによるもの、つまりパワーダウンによるものが多いと言われていますが、阪神淡路大震災のときもそうでした。

阪神淡路大震災のとき、ほとんどの施設は、商用電源の停止に備えて予備電源を持っていましたが、強い揺れによって吹っ飛び、壊れて使えなくなっています。

予備電源がなかったのではなく、地震のときでも使える予備電源がなかったので、被害が拡大したのです。

通信回線についても、地震で直接切断されたものより中継器の電源が無くなったことによる切断のほうが多かったといわれています。

神戸海洋気象台では、予備電源を床にボルト付けしてあったため、強い揺れでも電源が確保され、観測も予報も情報提供も通常通りの業務を遂行することができ、機能停止はおきませんでした。

また、兵庫県の本支部局と県内124の市町局などの他、気象台など10ヶ所の防災関係機関を結ぶ防災ネットワーク(兵庫衛星通信ネットワーク)の予備電源も床にボルト付けしてありましたので、機能停止はおきませんでした。

兵庫県の防災ネットワークシステムは地震で使えなかったという誤解

兵庫県の防災ネットワークシステムは、地震直後に兵庫県知事が「せっかく平成元年から70億円かけて整備してきたのに、今回の地震のときに使えなくて申し訳ない」と陳謝していますので、多くの人は、兵庫県の防災ネットワークが使えなかったと思っています。

しかし、床にボルト付けしてあった予備電源は作動し、建物自体が壊れたごく一部の市町局を除いて通常通り使えたのです。

使えなくなったのは、兵庫県庁にあるメインコンピュータシステムが水冷式であったため、水が循環しない影響が出た1月17日の昼過ぎからです。

地震発生してからしばらくの、一番大事な時間帯は使えたのです。

事実、神戸海洋気象台は兵庫県北部にある豊岡測候所と、このシステムを使って連絡をとっていました。大阪管区気象台と神戸海洋気象台の間がつながりにくくなっていたので、兵庫県北部にある豊岡測候所を中継してのやりとりを併用したからです。

今では、「関西は地震が起きない」という考え方をしている人はいませんが、兵庫県南部地震が発生するまでは、そう考えている人が少なからずおり、私も、何回か真顔で話しているのを聞いたことがあります。

予備発電機を床にボルト付けする費用は、設置時に行えば、ほとんどかかりません。仮に、地震が起きないと思っていても、万万が一に備えて予備電源を床にボルト付けをすると言えば、サービスでタダになるくらいの費用増加です。

でも、万万が一に地震が起こったときの効果は雲泥の差です。

防災といっても、ほんのわずかの上乗せで効果が雲泥の差という例は、いろいろなところにあります。

防災のことを何も考えない、あるいは、防災のためには費用がかかりすぎるので何もしないというより、費用がほとんどかからない減災のための対策を考え、実行することが大切なのではないでしょうか。

そして、私たちの生活のほとんど全てに電気がからんでいますので、'''防災対策の鍵は、予備電源があり、それが地震後にも機能するかどうかです。予備電源があるだけでは意味がありません。

'''

図5の出典:饒村曜(1996)、防災担当者の見た阪神淡路大震災、日本気象協会。

図5以外の出典:能村曜(2002)、明治の気象業務に重要な役割をした燈台での気象観測、雑誌「気象」3月号、日本気象協会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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