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世界津波の日となった安政南海地震の92年後に生きた教訓と生きなかった教訓

饒村曜気象予報士
国際連合の旗(写真:アフロ)

国連総会では12月23日に、日本が中心となって142カ国が共同提案した「11月5日を世界津波の日に制定する」という決議案を全会一致で採択しました。

これは、国際社会が津波の危険性を共有することで津波被害を減らそうとするもので、「11月5日」というのは、安政南海地震のあった安政元年11月5日(1854年12月24日)にちなみます。

日本での「11月5日」は、東日本大震災後の3ヶ月後にできた「津波対策推進法」によって「津波防災の日」となっています。

安政南海地震は「稲むらの火」として知られている

過去に大きな津波に比べ、安政南海地震の津波が特筆されているのは、このときに、「稲むらの火」という、防災に結びつく話があるからです。

11月5日は単に津波被害を受けた日ではなく、津波に立ち向かってわずかでも成果、大きな被害から見ると極めて小さな成果ですが、将来につながる成果を出した日なのです。

安政南海地震のとき、紀州(和歌山)の浜口儀兵衛が稲むらに火をつけ、多くの人を救ったという話は、教員を養成していた師範学校の英語の教科書に使われた小泉八雲の「A Living God」、や、尋常小学校の国語の授業で使われていた「稲むらの火」にとりあげられています。

その結果、戦前は、地震が起きたら津波がくるのでより高い所へ逃げるという教育が徹底して行われていました。

ただ、「A Living God」や、「稲むらの火」と、実際に起こったことは多少違います。

浜口儀兵衛は、稲むらに火をつけて人々を救っただけでなく、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。

真実は、もっと防災に関する教訓を多く含んでおり、モデルとなった浜口儀兵衛の業績についての再評価が必要です。

浜口儀兵衛(梧陵と称した)は、家業の大規模な醤油業を継承・発展させ、揺監時代の明治政府の郵政大臣(初代)に相当する重要な役職につき、現在の和歌山県知事に相当する和歌山県の初代県会議長(初代)なっています。

家業を守り、国や地方の発展に尽くしたあと、若い時からの念願だった学問を学ぶためにアメリカに向かい、国連のあるニューヨークで客死しています。行年66歳でした。

昭和南海地震の広村の津波被害

安政南海地震のとき、村全体が浸水し、稲むらの火のおかげで多くの人が救われたといっても、36人が亡くなっています。

安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日、昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村(現在は合併して広川町)を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った広村堤防は、村の居住地区の大部分を護っています。

しかし、21人が亡くなっています。

これは、広村堤防にさえぎられた津波は、南西側にエネルギーを集中し、広村堤防の南側にある江上川にそって侵入したからです。

広村堤防の外側(南西側)に建てられた中学校や紡績工場とその社宅(県外からの入居者が多かった)を襲い、広村の津波の死者の多くは、この付近で亡くなっています。

この場所における立地条件の危険性は、昭和初期から南海地震の再来の可能性を指摘し、その予知研究と防災啓蒙に奔走していた地震学者今村明恒によって、地元にも伝えられていましたが、警告は生かされませんでした。

写真 和歌山県湯浅町の深専寺の「大地震津なミ心ぇ之碑」
写真 和歌山県湯浅町の深専寺の「大地震津なミ心ぇ之碑」

広川町と隣接する湯浅町の深専寺の山門入口には「大地震津なミ心ぇ之碑」があります。安政南海地震の2年後に作られたものですが、ここには、次のように書かれています。ここでいう天神山は、寺のすぐ東にある山というというより丘に近いのですが、津波から逃げるための十分な高さがあります。

「地震がおきたら、過去の経験にとらわれず、まず津波がくると考え、火事を出さないように火の始末をして、この門の前を通ってすぐ東にある天神山に逃げよ。けっして浜辺や川筋にゆくな。」

津波の危険性が高い場所は、昔からわかっています。わかっていますが、生活上、建物などをつくらざるを得ないこともあるでしょう。ただ、住む人、利用する人は、津波の危険性が高い場所であるとの認識は必要です。

津波が襲来するときには、危険性が高い場所から一刻も早く逃げることです。

昭和南海地震の体験談

和歌山県広村出身の地震学者で、気象庁地震火山部長などを歴任し、政府の地震調査委員会委員長であった津村建四朗氏は、平成17年に和歌山地方気象台で講演を行っていますが、そのときに、次のような体験談を聞きました。

昭和の南海地震では、広村堤防のはずれにある耐久中学と日東紡績工場で被害が大きかった。紡績工場は各地から働きにきており、過去の事を知らないせいか、逃げ遅れた人が多かった。とはいえ、古くからの住民も逃げ遅れている。私も含めて。地元では、毎年「津波祭」を行い、堤防を作った土をとった山から土を運んで土盛りをし、堤防の補修をしている。小学校の間、だれも1~2回は土を運ぶ訓練をする。しかし、大きい地震のあと呆然として動けなかった。停電して静かな時間があり、海の方からゴ一という音がきこえ、北西側から「津波だ」という叫び声があがり、八幡神社に逃げていった。親兄弟関係なしに逃げた。冬前で暗かったが、月明かりのなか、路面を海水が流れ始めていた。10センチメートルくらいの水を突っ切って逃げた。あと10分遅ければ、私も紡績工場の社宅の人と同じ運命だった。

出典:饒村曜(2006)、「稲むらの火」と明治三陸地震津波とラフカディオハーン、海の気象、海洋気象学会。

大きい地震のあと呆然として動けなかったとはいえ、ふとわれにかえったとき、八幡神社にまっすぐに逃げています。

逃げ遅れてあと少しのところで危なかったといっても助かったのです。あと少しで命を落としたということとの差は、あまりにも大きいことです。

そして、この差を作ったのは防災教育であると、講演を聞いて思いました。

広川町(広村)では、毎年「津波祭り」という形で、津波で犠牲となった人々を慰霊し、津波防災に携わった先人に感謝し、後世のために堤防を補修するということを含めた防災訓練していることが、地震のときに生きたのだと思います。

災害の教訓を忘れないといっても、自然のサイクルは私たちの一生より長いので、その教訓を活かすのは、ほとんどが孫の代、あるいは、さらに孫の代のことです。

各自が出来ることを継続させることが大事だと思います。

写真の出典:饒村曜(2006)、「稲むらの火」と明治三陸地震津波とラフカディオハーン、海の気象、海洋気象学会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。

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