川中島の戦いと放射霧の予報
長野県北部の信濃川上流の千曲川と犀川の合流付近で、今から452年前の1561年10月28日(永禄4年9月10日)に、戦国時代屈指の激戦、第4次川中島の戦いが起きています。
武田信玄と上杉謙信
甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信は、信濃(長野県)北部をめぐり、12年にわたって「川中島の戦い」をおこなってきましたが、その中でも最大の戦いが永禄4年の第4次川中島の戦いです。
武田信玄が引き入る2万人は、茶臼山のち海津城に陣をはり、上杉謙信が引き入る1万3000人は妻女山に陣をはって、にらみ合いを続けていました。
そして、お互いに、地元の霧予報の名人と呼ばれた古老をあつめています。少しでも有利な状況で戦いを挑むためです。
両雄の直接対決
10月27日、翌日朝方の霧の予報を得た武田信玄は、1万2000人もの別働隊を作って妻女山の背後に向かわせ、自身は8000の兵を率いて千曲川をわたり、八幡原に本陣を移します。
一方、上杉謙信も翌日朝方の霧の予報を得たとき、武田信玄も霧の予報を知っているはずで、海津城をでて千曲川をわたり、八幡原に出てくると察知します。そこで、夜間に、自ら大軍を率いて妻女山をおり、馬の鞭音を忍ばせながら静かに千曲川を渡って武田信玄の本陣に接近します。
武田信玄にとって、上杉軍の出現は予想外であり、戦いは上杉軍優勢で始まっています。上杉謙信が武田信玄に馬上から斬りつけるもののうち漏らした(流星光底逸長蛇)という話を生むほどの激しい戦いとなっています。
しかし、武田信玄の別働隊が戻ってくると形成が逆転、上杉軍は3000人、武田軍は4000人とも言われる多数の死者を出し、引き分けとなっています。
霧がはれ上がったのが8時頃で引き分けに
第4次川中島の戦いでは、両軍とも霧の予報を利用して闘いましたが、この霧は放射霧で、夜明けとなって地面が暖められると消える霧です。
戦場で霧が晴れ上がったのが8時頃と言われていますが、この時刻より早く霧が晴れれば、武田信玄は、もう少し早く上杉謙信の接近を知ることができたと考えられますので、予定通りの挟み撃ちで勝ったかもしれません。
逆に、霧の晴れるのが遅ければ、上杉謙信がもっと武田信玄軍に接近してからの戦闘開始となって別働隊の救援が間に合わないと考えられますので、上杉謙信が武田信玄を討ち取って勝ったかもしれません。
霧が晴れた時間が、戦いを引き分けにしたのかもしれません。
霧の種類
霧は大気中の水蒸気が小さな水滴となって大気中に浮遊した状態をいいます。
気象庁の定義では、大気中に浮遊した水滴によって視程が1km未満のものをいいます。視程が1km以上、10km未満のものは靄(もや)です。
霧は、その出来かたによって放射霧、蒸発霧、移流霧、滑昇霧、前線霧に分類され(図)、霧の規模や晴れ上がる時間が違います。
川中島の戦いの時の霧は、主に放射霧です。
放射霧は、風が弱くて晴れた夜に、地面からの熱がどんどん大気中に逃げてゆくため、地表面の温度が下がり、空気中の水蒸気が小さな水滴になってできるものです。
このため、地表面付近の現象で、日の出後、1~3時間くらいで消えて晴れる性質の霧です。
図の出典:饒村曜(2012)、大気現象と災害、近代消防社。