バウハウス創立100周年 ワイマール・デッサウ・ツェレ現地レポート

ヴァルター・グロピウスのデザインによるバウハウス・デッサウ校(筆者撮影)

モダンデザインの源流となった芸術・デザイン学校「バウハウス」誕生から今年で100周年を迎えた。同校の存続は、1933年までのわずか14年間。だがその革新的な教育理念とデザインは、教授や学生たちにより世界に波及していき、バウハウスの精神は、多様な形で国内外に継承されている。

バウハウス誕生の街ワイマール、その後、建築科が創設された「市立バウハウス」のある街デッサウ、そしてワイマール共和国時代、戦後の住宅難解決に向けて建築されたジードルング(集合住宅)やバウハウス様式の遺構の宝庫と称される街ツェレを巡った。 (画像はすべて筆者撮影)。

バウハウスとは

ワイマール校入口にて・グロピウス胸像(c)norikospitznagel
ワイマール校入口にて・グロピウス胸像(c)norikospitznagel

バウハウスは、絵画や彫刻、工芸品や建築などの芸術分野における総合的造形教育を行う機関として誕生した専門学校。閉鎖されていたワイマールの「大公立工芸学校」とワイマール美術学校を合併して1919年、近代建築の巨匠ヴァルター・グロピウスにより創立されたのが同校のはじまりだ。

その後バウハウスは、1925 年からデッサウ、1932年からベルリンへと移転した。同校で学んだ学生は計1250名、そのうち女学生は500名ほどに上る。ドイツをはじめ、29か国からやってきた若者が同校で青春の一時を過ごした。

バウハウスの入学は面接で決まった。新入生は予備課程で学び、その後、各工房で勉学した。工房は織物、家具、金属(プラスチック)、壁画、陶器など11のコースがあり、企業と連携して製品開発や販売にも注力した。マイスターと呼ばれる教授が各工房で指導にあたった。

デッサウ・カール・フィーガー(バウハウス建築教師)が設計したエルベ川沿いのモダンなレストラン「コルンハウス」外観(c)norikospitznagel
デッサウ・カール・フィーガー(バウハウス建築教師)が設計したエルベ川沿いのモダンなレストラン「コルンハウス」外観(c)norikospitznagel
デッサウ・「コルンハウス」突き出たガラス張りの半円欄内部からエルベ川を眺める。目を見張る美しさに息をのむ(c)norikospitznagel
デッサウ・「コルンハウス」突き出たガラス張りの半円欄内部からエルベ川を眺める。目を見張る美しさに息をのむ(c)norikospitznagel

おりしも、第1次大戦に負けて帝政が崩壊したドイツは、1919年にワイマール共和国が発足し、国民主権や女性参政権など、民主的な憲法も制定された。

こうして18世紀から19世紀初頭にかけて文豪ゲーテやシラーを代表とするドイツ古典主義の中心地だったドイツ東部の街ワイマールは、さらなる注目を浴びるようになった。

芸術と職業を両輪にしたバウハウスの教育は、学生たちの才能を最大限に発揮させる場となった。機能的な建築や芸術は、国外へ移住した教師や学生たちにより世界に波及し多くの遺構が残されており、世紀を超えた現代にいたるまであらゆる工業デザインに大きな影響を与えている。バウハウス様式の建造物や作品が今もって後世に大きな影響力を持っているポイントは三つある。

一つは初代学長の建築家グロピウス(ドイツ)をはじめ、画家パウル・クレー(スイス)や画家ヴァシリー・カンディンスキー(旧ソ連)、美術教育家ラスロー・モホリ=ナジ(ハンガリー)など卓越した教師たちの存在だ。

ワイマール校内に再現された学長グロピウスの部屋 バウハウス様式の基本色、赤、ブルー、黄色、白が用いられている(c)norikospitznagel
ワイマール校内に再現された学長グロピウスの部屋 バウハウス様式の基本色、赤、ブルー、黄色、白が用いられている(c)norikospitznagel

それぞれの分野で優れた才能を持ち合わせた国際的な教授たちはお互いに刺激を受け影響しあった。そして教授たちのもとにはリベラルな芸術家の卵が集まり、奔放な創作に勤しんだ。

二つ目は、芸術と職業技術を融合したデザイン理念の斬新さだ。なかでもデッサウ校では、建築科が創設され、グロピウス設計の校舎や建物、そして女学生の活躍により、機能的かつモダンなデザインの作品が誕生した。

デッサウ校の講堂の天井照明は、ワイマール校とデッサウ校で学んだマックス・クライエフスキーがデザインした(c)norikospitznagel
デッサウ校の講堂の天井照明は、ワイマール校とデッサウ校で学んだマックス・クライエフスキーがデザインした(c)norikospitznagel

そして三つ目。ナチスの芸術活動に対する弾圧で、わずか14年後(1933年)に閉校に追い込まれてしまったにもかかわらず、当時の教育理念とバウハウス建築様式は、活動の場を国外へ移した教授陣や有能な学生たちの活動により、世界へ浸透していった点だ。

またワイマール共和国の誕生で女性は参政権を得たものの、男女同権とは程遠い扱いを受けていたバウハウスの女学生たちについてはあまり知られていない。封建的だった当時、学生として同校で学ぶには大きな犠牲を伴う決断を迫られた数多くの女性がいた。入学後も、女性というだけで、足かせも多く、希望工房の選択は難しかった。 そんな中で活躍した女性については、後述したい。

州立バウハウス・ワイマール校

バウハウス・ワイマール校本館と関連建造物は、1996年世界遺産に登録された(c)norikospitznagel
バウハウス・ワイマール校本館と関連建造物は、1996年世界遺産に登録された(c)norikospitznagel

バウハウス・ワイマール校を創立したグロピウスは、同校で生活に密着した職人技と芸術を統合させた教育法を中心に教鞭をとった。

ちなみにバウハウスの歴代校長は、19年から28年までグロピウスが就き、28年からハンネス・マイヤー、30年からルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエだった。教授陣は、国際色豊かな顔ぶれが集まり、そのもとで学生たちも自由奔放な創作に勤しんでいた。

同校の方針としてグロピウスは、「才能や基礎知識が十分あれば、性別や年齢に関係なく入学できる」と表明した。だが、1919年夏季セメスターの入学手続きを行った女性は84名と、男性79名よりも多かった。これを受けて同学長は、学校の評判が落ちてしまうのではと懸念し、後には女性に門戸を開くことは渋っていたようだ。

こうして翌20年から、画家や建築家を目指して入学した女学生たちは、工房選択が難しくなり織物工房に回されることが多くなっていった。

グロピウスは「女性には手工業はむいていない」と強調した。1922年から教授を務めたカンディンスキーも女学生には悲観的な見解を述べていたようだ。さらにクレーも同じく、「芸術は才能だ。女性には才能が見られない」と非難したと言われている。

女学生たちはそれでもひるむことなく、創作に励み、新たな世界を開拓していった。なかにはグロピウス学長に「男性と同じく学びたい、空席があるのになぜ女性だからという理由で、希望工房で学ぶことができないのか」と、抗議する女学生もいた。有能な女性の影響力は大きかったにもかかわらず、残念ながら脚光を浴びることは少なかった。

ワイマール校・バウハウス基本計の正方形・三角形・円、そして赤・青・白・黄色の基本色を用いたデザインが校内の各所に見られる(c)norikospitznagel
ワイマール校・バウハウス基本計の正方形・三角形・円、そして赤・青・白・黄色の基本色を用いたデザインが校内の各所に見られる(c)norikospitznagel
ワイマール校工房棟・階段沿いの壁に見られるのは1923年オスカー・シュレーマン(ワイマール校教師)の作品(c)norikospitznagel
ワイマール校工房棟・階段沿いの壁に見られるのは1923年オスカー・シュレーマン(ワイマール校教師)の作品(c)norikospitznagel

1919年は、ドイツで女性が初めて選挙権を得ただけでなく、学問の自由が与えられた記念すべき年でもある。そのため、バウハウス創立100周年と合わせて、当時の世相やバウハウスの教師たち、そして女学生の活躍ぶりに焦点を当てた報道番組も多く、大変興味深いものだった。

ワイマールに今年4月、「バウハウスミュージアム・ワイマール」がオープンした。バウハウス関連の作品1万3千点が1.874平方メートルの空間に展示されている。ワイマール観光局に電話で問い合わせたところ、ここ3か月で10万人以上の来客があったといい、バウハウスに興味を持つ見学者が連日押し寄せているそうだ。

市立バウハウス・デッサウ校

1925年、バウハウスはデッサウへ移転した。学長グロピウスは1926年、ここで建築科を創設し翌1927年には建築工房として世界に名を馳せるほどの成功を収めた。

デッサウで注目したい建造物は、デッサウ校校舎と教授の居住したマイスターハウス、そしてテルテンジードルングだ。

バウハウス・デッサウ校はグロピウスの設計により建てられた(c)norikospitznagel
バウハウス・デッサウ校はグロピウスの設計により建てられた(c)norikospitznagel

校舎とマイスターハウスは、デッサウ市の経済援助と敷地提供を受け、建築計画はグロピウスの事務所が担当した。同事務所で指導的な立場にあった建築家カール・フィーガーやエルンスト・ノイファートも設計に参加した。

デッサウ校とブリッジでつながっている右側の建物は学生寮。デッサウ校舎とマイスターハウスは1996年世界遺産に登録された(c)norikospitznagel
デッサウ校とブリッジでつながっている右側の建物は学生寮。デッサウ校舎とマイスターハウスは1996年世界遺産に登録された(c)norikospitznagel

今やバウハウスといえば、この校舎が最初に頭に浮かぶほど高い人気を誇り、訪問したことのない人でもこのバウハウスのロゴはきっと目にしたことがあるに違いないだろう。

デッサウ校・講堂にあるスチールパイプ製のいすはバウハウス若手マイスターのマルセル・ブロイヤーが手掛けた(c)norikospitznagel
デッサウ校・講堂にあるスチールパイプ製のいすはバウハウス若手マイスターのマルセル・ブロイヤーが手掛けた(c)norikospitznagel

だが、当時のデッサウ校はあまり環境が整っていなかったという。学生はコンクリートの床に座り、授業を受けていた。教材もほとんどなく、食料も充分でなかった。

グロピウスは学食も新設したが、食材の少なかった当時、学生は学食の食事だけでは空腹を満たすことが出来なかった。育ち盛りの若者たちは食堂のイスやテーブルを部屋の隅に移動し、その空間で空腹を忘れるために踊って過ごしたいう。

デッサウ校学生寮・突き出たバルコニーが特徴的だ(c)norikospitznagel
デッサウ校学生寮・突き出たバルコニーが特徴的だ(c)norikospitznagel

またデッサウ校では学生寮(アトリエハウス)も増築された。ガラス窓と突き出た小さなテラスが目印のこの建物では、米国や日本出身の学生達も生活した。ここで一緒に料理をつくり、寝食を共にしながら、創作に励んだ。

学生寮内部・こぢんまりしているが居心地はよさそうだ(c)norikospitznagel
学生寮内部・こぢんまりしているが居心地はよさそうだ(c)norikospitznagel

うれしいことに、現在この学生寮は宿泊施設として一般に開放されている。100年前の学生たちの生活を肌で感じてみるのはいかがか。

マイスターハウスは、デッサウ校校舎の建築と並行してグロピウスの手がけたバウハウス教授用の住居だ。ちなみにマイスターとは親方の意味。親方の家といわれるが、ここではバウハウスにおける親方、つまり教授の家を指す。

マイスターハウス・グロピウス宅(c)norikospitznagel
マイスターハウス・グロピウス宅(c)norikospitznagel

さてこのマイスターハウスは、デッサウ校からゆっくり歩いて10分ほどのエベルトアレー通りに沿って4棟ある。グロピウスの家以外は、1棟に2世帯のあるタウンハウス形式となっており、カンディンスキーやクレーもここで生活した。マイスターハウスの内部は、1時間ほどのガイドツアーで見学も可能だ。 

テルテンジードルングにて(c)norikospitznagel
テルテンジードルングにて(c)norikospitznagel

ジードルングとは、都市周辺部に新たに開発された集団住宅の意。第一次大戦後、住宅不足解消のためにグロピウスが取り組んだプロジェクト「テルテンジードルング」では、1926年から28年にかけて2階建て連棟式住宅300戸ほどを建てた。低所得者層でも入居できるよう建築コストを抑えたシンプルで画一的な造りが話題となった。現在も存在し、かつそこで生活している人がいる。

デッサウでは今年9月上旬に「ブラックボックス」と呼ばれるバウハウス博物館オープンを控え、耳目を集めている。

バウハウス遺構の宝庫ツェレ

木組みの家が連なる美しいツェレ市内(c)norikospitznagel
木組みの家が連なる美しいツェレ市内(c)norikospitznagel

ニーダーザクセン州のツェレは、日本ではあまり聞きなれない街かもしれない。どちらかというとドイツの観光街道のひとつ「木組みの家街道」沿いにある街として知名度が高いだろう。

第2次世界大戦の被害を受けなかったツェレは、人口約7万人の比較的小さな街だが、バウハウス様式の修復された建造物や記念保護群が約500もあり、遺構の宝庫でもある。

7月上旬の独ニュース番組によると、ツェレはバウハウス校舎のあったワイマールやデッサウにもひけをとらないほど当時の建築遺産が豊富にあり、(建築に興味がない人にも)一見の価値がある街だと推奨している。

ツェレでバウハウスといえば、1906年から33年まで同市で活躍した建築家オットー・ヘスラー(1880-1962)だ。この街の平行配置型のジードルングを数多く手がけたヘスラーは、バウハウス学長だったグロピウスやハンネス・マイヤー、そしてブルノ・タウトなどと肩を並べるほど有能な人物だった。実はグロピウスからデッサウ校の次期校長の座を提案されたが、それを断ってまでツェレに残ったという。

バウハウスとは全くつながりのない人物にも関わらず、バウハウス様式の遺構を残したヘスラーは、100周年記念の今年、再び注目を集めている。

1923年に竣工、1924年から25年に完成したイタリアの庭と呼ばれるジードルング群はモダニズム建築の代表として注目された(c)norikospitznagel
1923年に竣工、1924年から25年に完成したイタリアの庭と呼ばれるジードルング群はモダニズム建築の代表として注目された(c)norikospitznagel
ツェレ・現在も学校として使われている建物。平屋根と大きなガラス窓が特徴で、通称「ガラスの学校」と呼ばれた。20年代にはこの建物を見学するため、全世界からファンがやってきたという(c)norikospitznagel
ツェレ・現在も学校として使われている建物。平屋根と大きなガラス窓が特徴で、通称「ガラスの学校」と呼ばれた。20年代にはこの建物を見学するため、全世界からファンがやってきたという(c)norikospitznagel

1920年代、戦後の住宅難でツェレでも3000戸不足していたという。そんな中、ヘスラーによるジードルング構想は当時のツェレ市長にとってもまたとないありがたい計画だった。

ミュンヘン生まれのヘスラーが建築に興味を持つきっかけは、子供の頃の体験がきっかけだったようだ。教会の装飾・修復専門家だった父の仕事の関係で、ヘスラー家は何度も引っ越しを余儀なくされた。移転先での狭い住居での生活は決して楽しいものではなかった。

家族は多いし、収入は少ない、そんな中でヘスラーは、「限られた空間で合理的に過ごすには」と、住居作りに興味を持ち始めた。のちにアウグスブルクで建築学を学び、建築マイスターとなった。ぞして1906年、ツェレの大型専門店の改築建設を担当することになり、現場監督としてツェレにやってきた。その後、実績と名声を得ていたヘスラーは、バウハウス・デッサウ校学長の話を断った訳だ。

ツェレにあるオットー・ヘスラー博物館は一見の価値あり(c)norikospitznagel
ツェレにあるオットー・ヘスラー博物館は一見の価値あり(c)norikospitznagel

ヘスラーの偉業を知るには、市内の史跡を巡るガイドツワーをお薦めしたい。そうすればツェレの魅力は、木組みの家だけではないことがわかるに違いない。

バウハウスで活躍した女性たち

女学生はバウハウスという自由奔放な空気の中で、男子学生と共に、青春を謳歌した。だが、男女同権とは程遠い対応をされていたようだ。それでも自分の才能を信じ、批判に耳を貸さず、勇敢なまでに作品を創作し続けた女学生もいた。

100年前といえば、まだまだ封建的な考えが社会に浸透していた。女性がバウハウスで学びたいというと、男性達は猛反対した。家を出るという娘に対して、「女の立場で何を考えているのか。一人で決断できないことだ、家を離れるなら絶縁だ」と断言する父親もいたほど。

バウハウス入学に胸を膨らませていた女性たちは才能だけでなく、すべてを捨てて勉学する勇気も必要だったようだ。だが念願の合格通知を手にした女性たちは、「自分の夢を実現する新世代が来た」と狂喜し、実家を出ていった。ここではバウハウスで活躍した女性4人を紹介したい。

1)グンタ・シュテルツェル  22歳でワイマール校に入学したグンタは、1919年から1925年までワイマール校で学んだ。織物工房に所属していたが、自分の希望で選択した工房ではなかったため、当初はあまり興味を示さなかった。だが、工房で過ごす中で次第にテキスタイルデザインにのめりこんでいったという。

そして1925年から31年、デッサウ校でテキスタイルデザイナーとして初の女性マイスターとなり教鞭をとった。グンタの率いた織物工房は、学生と共に制作した作品を販売し、校内で一番高い収益を収め成功を果たした。

グンタの娘モニカ・シュタットラーさんは、「母はバウハウスで女性として自由を謳歌し、幸せで充実した時を過ごした。『自分の意見を主張し、活動することが難しかった当時、男性と同じく多くのことを体験でき、視野も広がった』と語った」と明かしている。

それでも男女差別はあった。グンタは「男女所得の違い、女性は年金もない上、短期契約で正職員ではない」と、学長グロピウスに2通の手紙を送り抗議した。この手紙を書いてから1年後、グンタの所得は改善されたが、契約職員の立ち位置は変わることはなかったそうだ。

さらに、グンタはユダヤ人男性との結婚で、いやな思いをした。自宅のドアにナチスのハーケンクロイツを記されたのだ。こうしてバウハウスにも時世にも明るい未来はないと見切りをつけたグンタはスイスへ移住した。その後、スイスで自身の織物工房を構えたグンタは、テキスタイルデザイナーとして活躍した。  

2)フリードル・ディッカー  ウィーン生まれの彼女は幼い頃から絵が好きだったことから、後にヨハネス・イッテン(スイス)が設立したウィーン美術工芸学校で建築を学んだ。その後、フリードルは師事していたイッテンがグロピウスに教授として招聘されると、追うように1919年、ワイマールへやってきた。

フリードルは、バウハウスで絵画の他、彫刻や舞台美術、舞台衣装、グラフィック・デザインなど幅広い総合芸術を学んだ。パウル・クレーのファンだった彼女は、毎日同氏の講義に聞き入っていたという。

彼女は卒業後、活動の場をベルリンに移し、故郷ウィーンではアトリエも開いた。プラハに移住し、子供達に絵を描く楽しみを教え続けた。ユダヤ系だった彼女は、後にアウシュヴィッツ収容所で命を失った。

妥協をしない作品を創作した彼女は、家具デザインで大成功を収めたマルチタレントの女性だ。最初は彼女の才能を認めなかった(認めたくなかった)グロピウスも、「イラスト、デザインなどで突出した最優秀学生」だと讃えたという。

3)アルマ・ブッシャー  1922年から27年までバウハウスに在学したアルマは、家具工房で活躍した女学生。入学後、木工を学び、1923年に開催されたバウハウス展示会で子供の家具やおもちゃなどのデザインを発表し注目を集めた。そして木製の子供用遊具と家具を創作し、ヒット商品となったが、グロピウスは彼女にアトリエ工房を与えることはなかった。さらにグロピウスは、まさか子供用の作品でバウハウスが注目されるとは想像外だったと批判的で、アルマの成功を讃えることはなかった。

アルマは、子育てをしながら創作に没頭し、成功を収めていたが、当時は女性が結婚した場合は、職場を離れるのが当然という風潮だった。アルマは1927年、バウハウスを離れた。その後はデザインの仕事をすることはなかったが、彼女が考案したおもちゃは今も制作され続けている。 

4)マリアンネ・ブランド  1925年から28年までバウハウスで学んだマリアンネは、金属工房に属したが、女性のいる場所ではないと非難されていた。しかし彼女の才能を信じたマイスター・モホリ=ナジの支援を得て、金属デザイナーとして活躍した。のちにデッサウ校金属工房所長代理を務めるまで上り詰めた。

さらにマリアンネは、画家、彫刻家、写真家(フォトモンタージュ)と、活躍の場を広めていった。

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バウハウス最後の拠点となったベルリンにも多くのコレクションやジードルングが見られる。8月から9月にかけて「バウハウスウィーク・ベルリン」や「オリジナルバウハウス・周年記念展示会」などのイベントが開催される。機会があれば、是非訪問したい。

画像はすべて関係機関に許可を得て撮影しています