父はアウシュヴィッツ強制収容所の所長でした それでも父を愛している!独女性衝撃の告白 (その2)

ベルリン・ユダヤ人大虐殺を戒める記念碑 (c)norikospitznagel

「父は強制収容所の所長でした。アウシュヴィッツの名を聞くと、頭痛に襲われます」と、語るのは米国在住のインゲブリギット・へスさん(81歳)。衝撃の過去を告白した前回に続き、その2(完)をお届けします。

家族が背負った負の歴史 

 父の死後、母と5人の子供たちは生活に窮した。父ルドルフがナチスに深く関与していたことから、人々は家族を避けた。

 「庭師、コック、乳母もいたアウシュヴィッツでの恵まれた生活とは一変し、履く靴もないほど惨めな生活でした」と悲しそうな顔をするインゲブリギットさんだ。

 インゲブリギットさんは、50年代にドイツを離れスペインに渡った。魅力的なブロンド髪の麗しい女性に成人した彼女は、モデルとして働き、後にマドリッドで米国人男性と知り合い結婚した。

 1972年にワシントンへ渡り、夫の国で生活を始め、二人の子供にも恵まれた。インゲブリギットさんは、帽子製造を学び、ファッションサロンで仕事を得て35年間勤務した。米国籍も取得した。

 1989年、娘インゲブリギットさんを訪ねてきた母が娘の家で他界した。埋葬はインゲブリギットさんの住むアーリントンで行われたが、墓石には名前を刻むことはしなかった。インゲブリギットさんは、その理由をこう語った。

 「何を考えているのか理解できない人がたくさんいますからね。このあたりにはユダヤ人もたくさん住んでいるので、母の名前を見て、何をするかわかりませんもの」

 「実は勤務先のファッションサロンだけには、私の出生についてお話したんですよ。サロンのオーナーはドイツから逃避したユダヤ人なのに、『あなたには何の罪もないから、お店で働いてほしい』と、私を受け入れてくれたのです。本当にありがたかった」

 「最初の夫と離婚後、知り合ったパートナーもユダヤ人だったけど、私を理解してくれたわ。でも、寛大で勇気ある人たちはめったにいないのよ。父の事を聞かれると、いつも戦死したと言ってたの」

 「サロンのオーナーに『何があったとしても、どうしょうもないじゃない。あなたは子供だったんだから。でも過去に起きたことから逃げていては駄目。受け入れなければいけないのよ』と言葉をかけてもらった時、私はアウシュヴィッツのことを自分の中で否定することはやめたわ。それ以来、なんだか吹っ切ることができたの」

 「父ルドルフ・へスはアウシュヴィッツの所長だった」・・・自分の出生を受け入れられなかったのはインゲブリギットさんだけではない。

 兄クラウスはシュトッツトガルトに移り、母と兄弟を引き取った。しかしクラウスは、「ルドルフ・ヘスの息子」という理由で職につくことができなかった。長男として責任を感じたクラウスは家族を助けたいと思うものの、収入を得ることが出来ず苦しんだ。その後クラウスは、オーストラリアへ移住したが、アルコールに溺れ、若くして死んでしまった。 

 

 姉のハイデトラウトは、母と共にシュトッツトガルトで生活していた。今、その姉は死の病床に伏している。

 弟ハンス・ユルゲンは、どこにいるか不明のままだ。家族との連絡を一切絶ってしまった彼は、エホバの証人組織に加入して活動中という。

 「なかでも一番かわいそうなのは、1943年生まれの末っ子アンネグレットよ。彼女のパスポートを見れば、すべてがわかるのですから。出生地はアウシュヴィッツと記載されているのです」

 「家族で、アウシュヴィッツのことを話すことはめったになかったわ。間接的に聞いたハインリッヒ・ヒムラーやナチス親衛隊の人たちが話題にあがることがあっても、父が話に登場することはほとんどなかった」 

 インゲブリギットさんは兄妹のなかでも一番陽気だった。その彼女は今ガンに侵され、放射線治療で腸壁が傷んでしまった。そしてうつ病に苦しんでいる。

家族を守るために行った任務?父は一体どんな人物だったのか?

 「時々父の様子がおかしかったのを覚えています。1人になりたいと家族から距離を置くこともよくありました。母は『父は気分が悪いからとか、頭痛がするから邪魔をしないように』と説明しただけでした」

 10歳の頃インゲブリギットさんは睡眠時遊行症で意識がないまま夜中によく起きたという。自宅の1階(日本式では2階)バルコニーからは、目前にアウシュヴィッツ火葬場の煙がもくもくと上がっているのが見えた。有刺鉄線やまぶしいばかりの監視ランプや監視塔がくっきりとわかった。

 「無意識のうちに、そんな光景を目にした後は、またベットに戻り、眠りについたのです」

 「昔のいやな思い出を忘れようと思うたびに、かえってそれが明確によみがえってくるのです。そして偏頭痛がひどくなるのよ」

 「ユダヤ人を殺害することは間違いだった。大きな間違いだった。大量虐殺でドイツは世界中から嫌われてしまった」と、父ルドルフは語っている。そして、私はごく普通の人間。愛する妻も、子ども達もいる。普通の人間のように感情もあると。

 また、「自分の手でユダヤ人を虐待したこともなければ、殺害もしていない」と明かしている。

「アウシュヴィッツや他の強制収容所での凄まじい行為は正気の沙汰ではなかった」

出典:Kommanndant in Auschwitz 231ページより

そして、父ルドルフは最後の手紙にこう書いた。「ヒムラーに会って、『自分の任務は自分に適していない、遂行できない』と訴えるべきだった」

 非人間的な命令も完璧にこなせねばならなかったと振り返るルドルフが、最も気にしていたのは家族のことだった。

 自分はさておき、家族はこれからどうなるのだろうか。子ども達はどう過ごしていくのだろうか。そう思うと、とても胸が痛む。

出典:Kommanndant in Auschwitz 234ページ

 世間の人たちは私を大量殺人を手がけた冷酷で残忍なサディスト、血に飢えた獣と見なすだろう。アウシュヴィッツの所長と聞いて、そう想像するのも仕方がないことだ。だが、彼らは私が1人の人間として心(感情)を持ち、悪人ではなかったということは決して理解できないだろう。

出典:Kommandant in Auschwitz 235ページより

 「父は家族を守るために命令を遂行したのです。『国家命令・ヒトラーの命令に背けば、家族や親族全員が殺害される』。そんなしがらみの中で父は一体どう対応したらよかったのだというのでしょう」

 ドイツ、ましてやアウシュヴィッツからは程遠い米国の地で生活するインゲブリギットさんがどんな家庭で育ったか誰も知らない。

 「過去を明るみに出しても誰も私のことを非難することはもうないでしょう」と、すべて告白したインゲブリギットさん。たとえそれがこの世のこととは思えない残忍なことであっても・・・。

 現在インゲブリギットさんは、息子ベンと二人暮らし。

 ミュージシャンの息子が演奏旅行で家を空けると、インゲブリギットさんは1人で日夜ジャズを聞き続ける。

 「音楽は私の悲しみを癒してくれるから。息子が帰宅するまで音楽をかけっぱなしにするんです」

 インゲブリギットさんは、粘土、木製、ぬいぐるみとありとあらゆる種類のカエルに囲まれて過ごしている。カエルが楽しかった少女時代の象徴であるかのように。そして、ベットの上の壁に飾った「両親の結婚写真」は宝物という。

 病状が思わしくないインゲブリギットさんの将来はどのくらい残されているのかわからない。

 ベンはこう言う。「母はまもなく死んでしまうでしょう。死を迎えれば、母も落ち着くはずです。もう過去に縛られることもなく苦しみから解放されますから・・・」

 

 戦争の深い傷跡は人々の心から消え去るどころか、時間が経過しても拭い去ることはできない。一生痛みを背負いながら生活する人々の心の中には今も戦争が存在し続けている。

参考文献

独Stern誌 「Mein Vater, der Auschwitz-Kommandant」

Martin Broszat 著「Kommandant in Auschwitz von Rudolf Hoess」