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なぜ台湾は五輪で「チャイニーズ・タイペイ」なのか

野嶋剛ジャーナリスト/作家/大東文化大学教授
東京五輪開会式の「チャイニーズ・タイペイ」選手団(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

中華台北、それとも、中国台北?

スポーツと政治は切り離すことはできない。特に国家の威信をかけて勝敗を争う場面では、なおさら「政治」が前面に出やすくなる。その最たるものが皮肉なことに「平和の祭典」をうたう五輪であり、五輪において中台対立が絡む台湾の名称問題はしばしばトラブルの種になってきた。

4日夜に開かれる冬季北京五輪の開会式での隠れた注目ポイントは、台湾選手団の名称がどのようにアナウンスされるかだ。今回、台湾は15人の代表団を送り込むが、すでに中国との間で名称問題をめぐって一悶着起きている。

発端は、中国・国務院台湾事務弁公室の報道官が1月26日の記者会見で台湾のことを「中国台北」と呼んだことだった。IOCの取り決めで台湾の呼称は「チャイニーズ・タイペイ(中華台北)」とされてきた。台湾の民進党政権は反発し、コロナ対策を理由に開閉会式への不参加を表明した。もし開閉会式で「中国台北」と呼ばれれば、台湾としては受け入れられないとの判断があったと見られる。

ところが1日、台湾側は、開閉会式に参加をすると態度を翻した。その理由は明らかにされていない。IOCを通して中国が「中国台北」を使わないと内諾した可能性があるが、蓋を開けてみるまで4日の開会式で何が起きるかわからない。

「一つの中国」とロス方式

五輪などの国際スポーツ大会で、台湾は「チャイニーズ・タイペイ」を名乗り、国旗ではなく、梅をモチーフにした専用の旗を使う。誰が正統な「中国政府」なのかという「一つの中国」問題をめぐり、中国(中華人民共和国)と台湾(中華民国)との間で繰り広げられた外交戦の結果考え出された措置である。

「チャイニーズ・タイペイ」という奇妙な名称の由来は日本とも多少関係がある。1979年に名古屋で開催されたIOCの理事会で、中国代表として「中華人民共和国」の参加を認め、台湾を「チャイニーズ・タイペイ」と呼ぶ決議が採択された。

台湾は当初決議を拒否し、中国も台湾の完全排除を求めたが、最終的には1981年にロサンゼルスで行われたIOCの討議で「チャイニーズ・タイペイ」を台湾が受け入れたので、「名古屋決議」「ロス方式」などと呼ばれてきた。

その後、中国と台湾との話し合いで「チャイニーズ・タイペイ」の中国語訳は「中華台北」になった。中華台北には中華民国という台湾の国名の2文字も入っている。かろうじて台湾側も容認できる解決策だった。IOCコードは「TPE」である。

以後、世界の大半のスポーツ大会でこの「ロス方式」が適用されてきた。およそ40年間にわたって守られてきた台湾の呼称が、この北京五輪で改めて脚光を浴びている伏線には、2021年東京五輪でのNHK中継がある。

東京五輪で選手団を送り出す台湾の蔡英文総統
東京五輪で選手団を送り出す台湾の蔡英文総統写真:ロイター/アフロ

開会式中継でNHKは「台湾」と呼ぶか?

昨年の東京五輪の開会式中継で、NHKの和久田麻由子アナウンサーが「チャイニーズ・タイペイ」の入場の際、「台湾です!」と呼び直したのだ。

台湾メディアが速報で流し、台湾が歓喜の声で包まれた。台湾の人々はNHKを国際放送でよく見ている。「NHKありがとう」「よく言ってくれた」「感謝日本」の声を、SNSなどで続々と上げた。

うかがえるのは「チャイニーズ・タイペイ」という名称について、完全には納得できない気持ちを抱えながら、国際社会の現実の前に、仕方なく受け入れてきた台湾の人々の心情である。

彼らが求めているのは、「台湾」でも「中華民国」でもいいから、少なくとも、いまの台湾と実体的な関わりのある名前なのである。中華台北はスポーツ以外の場で使われることはない。

その鬱屈した台湾人の心に、和久田アナの「台湾です」は深く刺さったと考えることができるだろう。NHKが公式方針として「台湾」と呼んだのか、和久田アナのとっさの判断なのかはわからない。4日の開会式の中継担当は和久田アナではなく、廣瀬智美アナと一橋忠之アナ。「台湾」と呼ぶかどうか注目したい。

中国では政府系メディアも「中国台北」

香港メディアによると、東京五輪でNHKの「台湾です」の放送部分が中国で流れたとき、番組が一時的に中断されたという。中国では今回の北京五輪前、新華社などの公式メディアは「中国台北」を使った。「中国台北」には台湾が中国の一部であるというニュアンスが込められている。中華台北でも我慢しているのに・・という風に、台湾の人々は「ボトムラインを超えている」と感じてしまう。

台湾代表団の北京到着を「中国台北」と伝える新華社の報道(新華網から)
台湾代表団の北京到着を「中国台北」と伝える新華社の報道(新華網から)

2008年の夏季北京五輪でも、中国のメディア は「中国台北」を使ったが、台湾側の抗議で撤回した経緯がある。ただ、当時の台湾は、中国との関係が非常に良好だった国民党の馬英九政権だった。

現在の民進党政権の台湾と中国は「冷対抗」と呼ばれるほど、冷え込んだ状態に陥っている。「一つの中国」を受け入れない民進党・蔡英文総統との対話を中国は拒否し、中国軍機による台湾への異常接近が日常的に行われている。

中国もIOCのメンバーとして「ロス方式」を認めてきた立場だ。今回あえて「中国台北」を使っているのは、習近平政権の対台湾強硬路線に加えて、愛国主義が強まって反台湾の愛国感情があふれる中国世論への配慮という要素もあるだろう。

昨年の東京五輪のとき、中国選手と台湾選手の対決で中国のネット民は盛り上がり、台湾選手への厳しい批判も広がった。2008年の北京五輪開会式で、台湾代表団の入場に対して、ひときわ大きな歓声がスタジアムに鳴り響いたが、そうした心温まる場面の再現は期待できそうにない。

東京五輪で活躍した台湾選手
東京五輪で活躍した台湾選手写真:ロイター/アフロ

正しい名前で呼ばれる「権利」

台湾に絡んでこうした政治問題が起きるたびに脳裏に浮かぶのは、スポーツに政治を持ち込んでいるのは誰かという問題だ。今回の北京五輪で、中国は各国の外交ボイコットに対して「五輪の政治利用だ」と反論しているが、こと台湾に関わる問題では、政治的トラブルを起こすのは客観的にみて中国の方が多い。

「台湾」「中華民国」「チャイニーズ・タイペイ」など、複数の名称がくるくると入れ替わる迷路のような台湾の名称問題を我々はどう考えるべきか。

台湾社会の意識は「自分たちは台湾人であり、中国人ではない」と考える人々は人口の6割を超えており、台湾アイデンティティが完全に主流化している。そのなかで、台湾の代表団を「中華台北」という名前で呼び続けることが妥当かどうかも、公の場で議論するタイミングかもしれない。

人権問題としても正しい名前で他者から呼ばれる権利は保護されるべきである。

パレスチナなど国連未加盟のところも五輪には正式な国名で参加している。中国だけが特別扱いでいいのか、という疑問は当然誰もが感じるはずだ。

中国自身も台湾のことを「台湾当局」や「台湾地区」と呼んでいる。ならばスポーツ大会でも「台湾」名義の参加でいいではないか。それが台湾独立と直接結びつくとは思えない。「大人」の対応を見せれば台湾の世論も中国を見直すだろう。

4日夜の開会式で台湾がどのように呼ばれるにせよ、今回の呼称をめぐる騒動は「チャイニーズ・タイペイ」という空疎な名称を台湾に押し付け続けることの問題点を、世界に少しでも認識させたことは確かだだろう。

ジャーナリスト/作家/大東文化大学教授

ジャーナリスト、作家、大東文化大学社会学部教授。1968年生まれ。朝日新聞入社後、政治部、シンガポール支局長、台北支局長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港や東南アジアの問題を中心に、各メディアで活発な執筆、言論活動を行っている。著書に『ふたつの故宮博物院』『台湾とは何か』『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』『香港とは何か』『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』。最新刊は12月13日発売の『台湾の本音 台湾を”基礎”から理解する』(平凡社新書)』。

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