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「タージャーハオ、羽生結弦です」。「ピンポン外交」から51年、スポーツ外交で拓く新たな可能性

野口美恵スポーツライター
日中国交正常化50周年記念式典で挨拶する羽生(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

今年7月にプロ転向した羽生結弦(27)が、9月29日に都内で行われた「日中国交正常化50周年記念式典」に特別出演した。記念の演奏会に先立ち、ゲストとして祝辞を述べるという位置づけ。ほんの10分ほどの登壇だったが、スポーツ外交としての大きな力と、羽生自身にとってもプロとしての新たな使命を感じさせる時間となった。(敬称略)

中国語で「みなさんこんにちは」

羽生はマイクを握ると、メモなどを一切持たずに、こう話し始めた。

「みなさん、こんにちは。タージャーハオ、羽生結弦です。今日9月29日は、日本と中国の国交が正常化した記念すべき日です。僕も仙台から、このような式典に参加できて本当に嬉しく思っています」

タージャーハオ(大家好)とは、中国語の「みなさんこんにちは」の意味。冒頭から、中国側の招待客の心をつかんだ。

これは羽生にとって、大きな決断だったはずだ。競技に出場するアスリート時代であれば、あくまでも「日本代表」。海外で行われる世界選手権や五輪でも、あえて特定の国へのリップサービスで、英語以外の外国語を使うことはなかった。コーチがカナダ人であり英語は流暢に話せるとしても、会見では「自分の気持ちを正確に伝えるため」と、冒頭の短い感想以外は日本語で受け答えしていたくらいだ。それが冒頭の挨拶から中国語である。プロのアスリートとして、国境の壁をすべて取っ払った新しい立場にいることを感じさせた。

北京五輪のエキシビションで、中国のスケーター達とハイタッチ
北京五輪のエキシビションで、中国のスケーター達とハイタッチ写真:長田洋平/アフロスポーツ

北京五輪では2万通のファンレターも

中国のファンの温かさに感動

「今年の2月、僕は北京オリンピックに出場するために北京に行きました。そして、中国の方々の親しみやすさと温かさに触れてきました。とても感動しましたし、みなさんの応援を力に背中を押していただきました。日本と中国は隣り合っているからこそ、もっともっと良い関係でありたいですよね。僕も役に立ちたいと思いました」

しっかりと「役に立ちたい」と明言化する。これまで試合に挑んできた羽生は、必ず有言実行の男だった。昔から「自分が言葉にして発したら、それは言霊じゃないですけれど、責任を持ってその言葉にむかって食らいついていく」と言ってきた羽生だ。中国への特別な思いは、北京五輪で中国のファンから背中を押されたことの影響を物語っていた。

確かに中国で行われた2022年北京五輪では、現地での羽生の人気は熱狂的だった。書店では羽生に関連する書籍が平積みされ、テレビでも羽生の特集が組まれる。五輪特番のスタジオセットにも羽生の特大全身パネルが置かれるなど、まるで自国のトップスターの扱いだった。五輪組織委員会には、2万通を超える手紙が中国各地から届いた。

少女から花束を渡され、指ハートポーズにも応じた
少女から花束を渡され、指ハートポーズにも応じた写真:YUTAKA/アフロスポーツ

新たに覚えた中国語を披露

中国少女からのサプライズにも笑顔

挨拶の途中で羽生は、次に話す内容を忘れ、通訳のチャンヒナに耳打ちされるシーンも。照れ笑いで、会場の拍手を誘った。また「ちょっとだけ覚えたので、中国語でしゃべります」といい、「私は今年で27歳です。チャンヒナさんは24歳です。足すと51です」といった中国語を披露。続けて日本語で「これからあと5時間ほどで日中国交正常化51年目の初日を迎えます。これからの50年も共に力を合わせて頑張っていきましょう。ジャーヨー(加油)」と締めくくった。

また、招待客だった女の子から花束と手紙を渡され、一緒に写真に収まる。あまりにも羽生がスムースに対応したので予定演出なのかと思ったが、大会側が想定していなかったサプライズとのこと。羽生は「もらっちゃいました」と笑顔を見せていた。

後から聞くと、この女の子は7歳で、父親の仕事の関係で来日している中国人。羽生のことをテレビで見て憧れ、ひょうご西宮アイスアリーナでスケートを習っているという。羽生が出演するアイスショーを見たことはあるが、間近で会うチャンスは初めてで、思いが抑えきれず花束と手紙を用意してきた。

「羽生くんばっかり応援してます。かっこいいです。私もオリンピックに出たいです」

羽生に憧れている日本の若いスケーターは多いが、こうやって中国人の少女にも影響を与え、実際にスケート界の振興にも繋がっている。羽生の影響力は、すでに「日本のアスリート」の域を超えていることを、改めて痛感させられた。プロに転向したことで、所属国にとらわれずに「スポーツ外交」としての役割を担うことは、羽生の存在の可能性をさらに広げていくことになるだろう。

2009年には、中米国交樹立30周年を記念した友好卓球試合が北京で行われた
2009年には、中米国交樹立30周年を記念した友好卓球試合が北京で行われた写真:ロイター/アフロ

「ピンポン外交」が日中国交正常化の始まり

羽生を象徴とする、新たなスポーツ外交の姿へ

そして忘れてはならないのは、「日中国交正常化50周年」におけるスポーツ外交の重要性だ。50年前、歴史的なスポーツ外交である「ピンポン外交」がきっかけで日中共同声明の署名に至ったことを、関係者は強く記憶している。文化大革命以降、中国は世界から分断されていたが、1971年に愛知県で行われた卓球の世界選手権に、日本が中国を招聘。そのときに、中国の選手が米国選手へ友好を示したことで、中国の外交姿勢が世界に示された。その後、毛沢東主席は米国卓球チームを北京に招待し、それが、1972年のニクソン大統領による中国公式訪問へと繋がった。さらに同年9月29日、日本も中国との国交正常化を図り、田中角栄、周恩来の両国首相が日中共同声明に署名したのだ。

このピンポン外交が、日中、米中の関係を大きく前進させた歴史的な一歩だったことを考えると、50周年記念式典で再び「スポーツ外交」を意識し、その象徴として、フィギュアスケート界から羽生結弦が呼ばれたことの意味は、大きい。単なるイベントのゲストというものではなく、長い日中の歴史の一端に羽生が加わったということになる。

同イベントの蒋暁松・実行委員長は、羽生をゲストとして招いた経緯について「お若い方で中国でも日本でもたくさんの人に愛されている。本人がいろんな困難にチャレンジし、若い人たちの一つの模範として愛されている」と説明。ピンポン外交からスケート外交へ。羽生のプロとしての新たな道のりのひとつに、重要な使命がまたひとつ加わったように感じた。

スポーツライター

元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯同。ソチ、平昌オリンピックを取材した。主な著書に『羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝、20年冬季マスターゲームズ・シルバー部門11位。

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