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【羽生結弦・単独インタビュー(1)】公開練習で見せた奇跡の4回転アクセル プロ意識が生む新たな光

野口美恵スポーツライター
8月10日、仙台市内で公開練習を行った羽生結弦(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

プロ転向の会見から3週間後となる8月10日、仙台市内のリンクで公開練習「SharePractice」を行った羽生結弦。彼が見せたのは、一瞬で心を奪うような高さの4回転アクセルと、数々の高難度ジャンプ。それは世界最高の技術と断言できるものだった。プロ転向を宣言したいま、自らが思い描く理想の進化について、語った。(敬称略)

「スイートスポットにハマり切る」ウォーミングアップ

プロとして取り組む新たなアプローチ

2022年8月10日、11時30分。リンクに現れた羽生は、淡々とウォーミングアップを始めた。88人の報道陣が約1メートルの近距離で取り囲み、じっと見つめる。鳴り続けるシャッター音がBGMのように天井にこだまする。YouTubeライブ配信の公式カメラがグッと顔に近寄ると、羽生は空間を支配するかのように、1つ1つのウォーミングアップに集中した。

ウォーミングアップとひとことで言うには、内容が濃すぎた。時間としては約30分。一般的にはランニングや縄跳びで身体を温めるが、それとはまったく違う。4回転ジャンプ、そして4回転アクセルを成功させるために、羽生が考え抜いた動作ばかりだった。

そのキーになるのは「軸」だった。いかに空中で細い回転軸を作るか。そのためのアプローチを細かく分解し、1つ1つ丁寧にアップしていくのだ。まず腕を回しながらのランニングで肩甲骨をストレッチし、次は肩甲骨を自在に動かすトレーニング。ちょうど背中側を報道陣に向けていたため、肩甲骨がまるで別の生き物のように上下左右に動く様子がよく見えた。その後は胸筋を1つ1つ、部位に分けてストレッチ。そのあと羽生オリジナルの「軸のイメージトレーニング」に着手した。手と脚をタイトに締めて空中姿勢をとり、目を閉じ、更に体の奥の奥へと回転軸を絞り込んでいくことを想像する。自分の「芯」はどこかを探す、自身との対話の時間だった。

羽生は、このアップには、今取り組んでいる新しいアプローチが込められていることを明かした。

「この空中姿勢の練習は、自分が空中姿勢のときにどこが一番心地よいと思えるかを確認しているんです。その心地よいスイートスポットみたいな所に、ハマり切るのが早ければ早いほど、楽にジャンプが跳べるんです。例えば、演技後半に4回転サルコウや4回転トウループを跳ぶときに、いかに綺麗に回転軸に入れるかで、体力配分が変わってきます。いまはそれを大事にしているところがあります。4回転アクセルにも繋がっていく部分でもありますが、全てのジャンプに対してのアプローチです」

「軸」のイメージを掴みきったあとは、身体を刺激するウォーミングアップに入る。左後方への力強い回旋動作で、回転を始める筋肉にスイッチを入れる。次に、両手を勢いよく開く動作で、着氷する時の身体のキレを意識する。さらに腹式呼吸を使って息を勢いよく吐く動作で、軸に入る時の呼吸を確認する。ここまで準備してから、やっと陸上でのジャンプ。その場跳びで3回転を2度。そのあと陸上でのトリプルアクセルを4度。むやみに回数を跳ぶのではなく、「正しい軸」に重きを置く練習だった。

このウォーミングアップは、プロに転向した羽生の思想が浮き彫りになる、とても斬新なものだった。

回転軸を重視したウォーミングアップをする羽生
回転軸を重視したウォーミングアップをする羽生写真:西村尚己/アフロスポーツ

世界初の「4回転ループ+3回転トウループ」

「ちょっと見せたかった」

氷上練習も、独自のウォーミングアップから始まった。トロントのクリケットクラブでいつも行っていた「クロススケーティングとモホークを組み合わせたアップ」を、自分流にアレンジしたものだ。選手時代は、それなりにスピードを出して滑ることで、体の動きを氷に馴染ませていた。しかしこの日見せた動きは違った。とにかく繊細なのだ。ゆっくりと滑りながら、重心の位置を確認することに集中している。むやみに全身を力いっぱい動かすようなアップは、実際には必要ない筋肉を使うし、繊細な感覚を身体に刻み込むことは出来ない。必要な動きだけを考えながらていねいに行う姿は、4回転アクセルに繋がる細い道を大切に進んでいる、そんな様子に見えた。

感覚を整えた羽生は、次々とジャンプに挑んだ。3回転ループ、3回転ルッツ、3回転フリップを次々と決めたあとは、イーグルからのトリプルアクセル。すぐに「天と地と」のプログラムをかけて「4回転トウループ+3回転トウループ」と「4回転トウループ+オイラー+3回転サルコウ」をクリーンに降りた。これは驚異的なことである。ジャンプの練習といえば、まずは音楽をかけずに自分が楽なタイミングで跳び、そのあと曲かけをする。そんな妥協は一切なく、いきなり曲にピタリと合うタイミングで4回転を跳んだのだ。4回転を成功させることよりも、4回転を曲に溶け込ませることに特化しようという姿勢が、高いプロ意識を感じさせた。

さらに2017年世界選手権で優勝した時のプログラム「Hope & Legacy」を流すと、白いジャージを脱いだ。ここからが本番といった様子。むしろここまではジャージを着たまま4回転を跳んでいたことに気付かされ、改めて身体能力の高さに驚いた。そして跳んでみせたのは4回転ループ。羽生が2016年に世界初成功させて以来、クリーンに成功する選手がほとんど現れない最難度の技だ。

現行ルールでは4回転ルッツやフリップのほうが得点は高いが、実際の成功者は4回転ループが最も少ない。国際スケート連盟はその統計をかんがみて、2020年5月に「4回転ループ・フリップ・ルッツの得点を同点」とする改正を発表した。しかし「コロナ禍のためルール変更での選手負担を避ける」という理由で、7月にはその改正を撤回。あのルール変更がそのまま施行されていれば、という気持ちは未だに消えないが、いずれにしても選手にとって「4回転のなかで最も難しい」として別格視されているのが4回転ループなのだ。

それを、プロ転向した羽生がさらりとやってのける。その感慨に酔っている間もなく、羽生は助走のスピードを上げる。そして「4回転ループ+3回転トウループ」を降りた。思わず自分で拍手をし、うなずく。それもそのはず。公式戦での成功者がいない、つまり試合で降りれば「世界初成功」となるジャンプだ。

「本当は『4回転+3回転トウループ』か『4回転ループ+3回転ループ』か、色々悩んだんですけど、今回はトウループにしておきました。実際は4回転ループからの連続ジャンプもしっかり練習していて、本番で組み込めるほどの確率かどうか、自分がこれからやっていきたい活動のなかでそんな難易度のものをやる必要があるのか、そして『得点的にも美味しくないしな』とか『やる必要ないかもしれない』とも思いますが、ここまでポテンシャルとしてあるぞという所をちょっと見せたかったです」

そんな風に茶目っ気のある笑いを見せる。そこには「世界初」にこだわる様子は一切なかった。プロの羽生にとって、国際スケート連盟が「認定」と意味づけするかどうかは、もはや重要ではない。現役選手よりも高いレベルの技術を、プロとして披露し続けていく。試合や採点にとらわれずに理想のスケートを目指すんだ、という精神が、そこにはっきりと見えた。

氷上でゆったりと美しい動きのスケーティングを見せる
氷上でゆったりと美しい動きのスケーティングを見せる写真:西村尚己/アフロスポーツ

プロとして目指す4回転アクセルの未来

まず「軸」そして「北京で学んだプラスアルファ」へ

すでにこの時点で十分に濃厚な練習だったが、穏やかな笑みを浮かべながら羽生はBGMを『僕のこと』(Mrs.GREEN APPLE)に変え、そしてアミノ酸を飲む。さらにギアを1つ上げる、という合図。最難度の4回転であるループよりも高いレベル、といえば、1つしかない。4回転アクセルだ。リンクの空気が、グッと引きしまる。

7月19日のプロ転向会見では「今現在も、4回転半の練習を常にやっています」と語っていた。北京五輪後のリハビリを考えると、わずか半年で、その練習を披露するには勇気が必要だろう。しかしそんな心配をよそに、美しいトリプルアクセルを、軽やかに1本決めた。音楽の歌詞を口ずさみながら、気持ちを高めていく。

続いて、チェンジエッジの助走から、力強く踏み込む。トリプルアクセルとは異なり、息を一気に吐き出して腹筋に力をこめ、そして両手を思い切り後ろに振って反動をつける。「来る!」と分かる。そして高く宙に跳び出すと、4回転半ちかく回り、両足で着氷した。2021年全日本選手権のフリーで、初挑戦したときに見せたのと同じくらいの完成度だった。

この日の4回転アクセルについて、羽生はこう打ち明けた。

「今日は、全日本選手権に近い跳び方にしていました。足首を痛めてからしばらくは4回転アクセルを練習できていなかったので、まずは軸を作るという感覚を整えないといけない、ということもあって、あえて全日本選手権の降り方にしていました。まずは軸をしっかり作った上で、回転をもっとかけていくというアプローチをしていかないと、捻挫が怖いので。軸の感覚が整った上で、北京五輪で学んできた回転の掛け方をプラスアルファしていこうと思っています。そこが今の伸びしろですね」

まずは全日本選手権のときと同様に、回転軸を重視した跳び方を取り戻し、その上で、新しいアプローチを加えていくというのだ。新たな光が差し込んでいた。この1本を復活させるために、北京五輪から歩んできた半年の道のり振り返ると、奇跡ともいえる一本だった。

しかし、なぜ一度は「満足した」と感じた4回転アクセルに、再び着手したのか。その技術的、精神的な変化とは。羽生はその思いを語り始めた。(第2回に続く)

スポーツライター

元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯同。ソチ、平昌オリンピックを取材した。主な著書に『羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝、20年冬季マスターゲームズ・シルバー部門11位。

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