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北朝鮮住民が金正恩総書記の「顔」を曲げたり洗ったりできるのか

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

 北朝鮮の国営朝鮮中央テレビが放映した国防発展展覧会「自衛2021」開幕式の映像に、金正恩(キム・ジョンウン)総書記の顔が描かれたTシャツが映し出され、論議を呼んでいる。北朝鮮では最高指導者の顔が描かれたものはすべて保護の対象であり、粗末に扱えば処罰の対象になる。このTシャツを一般住民が着用できるのかはっきりしないが、形式主義に批判的な金総書記の意向を受けて、宣伝扇動当局が肖像の取り扱いを巡り試行錯誤しているのは間違いなさそうだ。

◇「神聖不可侵な存在」

 北朝鮮では、最高指導者の顔が描かれた写真や印刷物は「神聖不可侵な存在」であり、細心の注意を払って扱われる。

 紙幣の中央に金日成(キム・イルソン)氏=金総書記の祖父=の肖像が描かれている場合、そこを折り曲げないように配慮する。労働新聞でも金日成氏や金正日(キム・ジョンイル)氏=金総書記の父=、金総書記の写真が掲載されている面は、その部分に折れ目が入らないようにして折りたたみ、封筒に入れて郵送しなければならない。

 北朝鮮の職場や各家庭に掲げられている肖像画には特に注意が払われる。いかなる状況においても最初に保護しなければならず、火災や水害が起きた際に肖像画を守るために命を落とした住民の話があれば、国営メディアはそれを美談として大々的に伝えている。

 このように丁重に扱われるべき最高指導者の肖像がTシャツに描かれた、ということだ。

 朝鮮労働党創建日(今月10日)の翌日に開かれた「自衛2021」開幕式で国歌が演奏された。その時の映像に、国務委員会演奏団とみられるオーケストラが映し出され、リ・ミョンイル氏とみられる指揮者が着ていた白いTシャツに、黒色で金総書記の顔が描かれていた。9秒弱の短い映像だったが、Tシャツが瞬間的に波打ち、ほっぺたのあたりが歪む場面もあった。指揮者は神経を使いながら体を動かしているようにもみえる。オーケストラの全員が同じTシャツを着ていたようだ。

◇開幕式限定か

 こうしたTシャツの公開は、人民大衆第一主義を掲げる金総書記の親しみやすさ、身近な指導者であるというイメージを強調するための宣伝扇動活動の一環と考えられる。キューバ革命の指導者として知られるチェ・ゲバラ(1928~67)の顔がプリントされたTシャツが広く流行していることを意識している可能性もある。

 ただ、北朝鮮住民にはこのTシャツの公開は衝撃を持って受け止められているはずだ。神聖不可侵な金総書記の顔の描かれたTシャツを、一般住民が日常生活で着用したり折りたたんだり、洗ったりするような状況を、現時点では考えにくいからだ。ましてや顔の部分が汚れたり破れたりすれば、処罰を受けるのは必至だ。したがって、今回の異例のTシャツは「自衛2021」開幕式用に、特別に製作されたものとみるのが自然ではないか。

 ただ、金総書記や宣伝扇動当局が試行錯誤しているのは、はっきりしている。

 金総書記は、祖父や父の時代に頻繁に報じられた「最高指導者の超人的能力」「神秘現象」などを否定的に受け止め、最高指導者の過度な神聖化を抑制しているようにみえる。肖像画を守るために命を落とすようなことを「美談」ととらえるこれまでの方針を、転換するよう求めている可能性もある。

 ただ、金総書記が現実直視の統治を目指すとはいえ、急激な変化を促せば住民の動揺を誘発する恐れがあるため、慎重を期しているのは間違いない。金総書記はかつて、自身が指導した女性音楽グループ「モランボン楽団」の試験公演の際、西側の音楽を演奏させたり、米ディズニーのキャラクターを登場させたりした。西側文化の一部受け入れを容認するかのような姿勢を示しつつも、その後、こうした措置を封印した経緯もある。

 今回のTシャツ公開には、変化に向けた試行錯誤という意味合いもありそうだ。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

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