新生児期の母親とのコミュニケーション

(写真:ペイレスイメージズ/アフロ)

個人的な話だが、東大と東京芸大の学生さんが中心になって、学生レベルで芸術と科学の対話を深めようと取り組んでいる活動に触れるのを許してほしい(AMS for Students HP参照:http://ams-stu.com/)。シニアメンバーも手伝ってはいるが、原則学生さんたちが企画運営にあたる活動で、21世紀を作る若者たちの活動として全面的に応援したいと思っている。

私がこのような活動を積極的に支援したいと思うのは、これまでの哲学や心理学の課題の多くが、現代脳科学についての知識が少しあれば、はるかに容易に理解できると考えているからだ。脳科学の論文を読むたびに、この感触は強くなっている。例えばプラトンの「イデア:形相」にしても、脳の認識や記憶の仕方を少し頭にいれて考えると、「形相が先か個別の経験が先か」などと、けんけんがくがく哲学論議を続ける必要はなくなる。

同じことは、プラトンまでさかのぼらなくとも、まだ脳科学が発達していなかった20世紀初頭のフロイトの著作でも言える。実際フロイトは現代の脳科学の目で読むとますますおもしろいし、彼の考えにも納得できる。しかし、彼が最も重視していた幼児期の発達過程の脳科学は、対象が対象だけに簡単ではない。

今日紹介するエール大学からの論文はそんな例で、まさにフロイトが母親へのBesetzungと呼んだ(Besetzung は「備給」などと訳されているが、本当はもっとわかりやすい訳に変えるべきだと思う)過程を、マウス新生児の脳で調べた研究で6月27日号のCell に掲載されている (Zimmer et al, Functional Ontogeny of Hypothalamic Agrp Neurons in Neonatal Mouse Behaviors (マウス新生児の下垂体Argp神経の機能的発達), Cell 178, in press, 2019: https://doi.org/10.1016/j.cell.2019.04.026)。

以前は専門外としてほとんど読んだことがなかった脳科学論文も、現役を退いてからは読むようになり、読むたびにこの分野の進展に目を見張っている、それでも振り返ってみると、新生児の脳の研究はあまり読んだ記憶が無い。実際マウスを飼育した経験があると、あの時期の脳の活動を記録するのが難しいのはよくわかる。しかし、外界のイメージが私達の脳に形成されるのはまさにこの過程を通してで、フロイトが最も興味を持って調べた過程でもある。

この過程の理解にとって最も重要なのは、対象に対して注意を向け、情報を得ようとするモチベーション、誤解を恐れず単純化すると、私たちの行動を支配する快楽への欲望が脳のどこで調節されているかについての理解だ。幸い行動を長時間追跡しながらその時の脳活動を記録する方法が開発され、行動を突き動かす欲望の出所についてはかなりのことがわかっている。例えばマウスの食欲を行動へと導くのはアグーチ関連ペプチドと呼ばれる摂食を促すホルモンを分泌するAgrp神経だ。

おそらくこの研究の最初は、食欲を調節する下垂体のAgrp神経が新生児の行動にどう関わるかを研究していたのではないかと思う。新生児にとって食欲は母親のお乳によって満たされるので、まず母親から新生児を90分離してAgrp神経の反応を見ると、Agrpが強く興奮する。通常なら、母親のミルクを求める食欲がAgrp神経を興奮させているのだと納得してしまうのだが、著者らは本当に食欲なのかどうか調べなおした。すなわち、母親から離したままミルクを胃に直接注入することでArgpの反応が収まるか調べてみたところ、Agrp神経の興奮は収まらず、興奮が食欲とは関係ないことを発見する。

では幼児期のAgrp神経の興奮を誘導する刺激は何なのか?様々な実験の結果、ついにそれが温度、すなわち母親のぬくもりであることを発見する。例えば、環境を母親の体温と同じ温度にすると、母親から離してもAgrp神経は興奮しない。これを確認するため、Agrp神経の興奮を新生児脳に挿入したファイバースコープで持続的に記録し、母親から離れた途端に興奮がはじまり、母親のもとに戻されるとすぐに興奮がおさまることを確認している。

次にAgrp神経の神経伝達物質GABAを欠損させたマウスを作成し、Agrp神経の興奮が伝わらないようにして、この興奮がどのような行動変化を誘導するのか調べると、幼児の一種の声と言える、ピッチが上がってから下がる超音波の発生が消えることを突き止める。逆にAgrp神経を化学的に刺激する実験を行い、この声の発生が高まることも確認している。

以上の結果は、Agrp神経の興奮が、幼児が特殊なパターンの超音波の声を発する行動を促すことを示している。そして、この声を聞いた母親は子供を近くに寄せて乳を含ませる行動を示すことも明らかにしている。また、母親から離されても温度変化が感じられない条件にすると、声の発生がなくなり、従って母親も抱き寄せて乳を含ませる行動を示さない。

以上をまとめると次のようになる。

1)母親から離れたことによる温度変化はAgrp神経の興奮を誘導する。

2)Agrp神経の興奮はGABA分泌を介して最終的に決まったパターンの声を発生させる。

3)これを聞いた母親は、子供を近くに寄せて乳を与える行動をとる。

少なくとも幼児期のマウスをつきうごかす快楽について言えば、満腹感より母親のぬくもりが大事ということになる。

さらに面白いのは、幼児期にはこのように温度に反応しても、食べ物には反応しなかったAgrp神経が、生後15日目には温度ではなく食べ物に反応するようになる点だ。すなわち快感につながる感覚が年齢とともにプログラムされ直される。

振り返って人間を考えると、様々な欲望に支配されてはいるが、最も強い欲望は年とともに新しくプログラムされる。特にこのことは幼児の発達を見ていると実感できる。そう考えると、私たち人間にも通用する面白い実験結果だ。もちろんこの実験結果をフロイトにそのまま当てはめるのは邪道だが、フロイトなら大喝采をしたのではと私は確信している。