古代人ゲノム研究の先駆者ペーボさんの著書に見る、不倫に対するドイツの寛容。

オペラ「バラの騎士」の元帥夫人とオクタヴィアンの不倫場面(写真:Shutterstock/アフロ)

先日ドイツ科学の卓越性についてのNature記事を紹介したが、お叱りから激励まで、反応の大きさに驚いている(と言ってもNatureの記事を紹介しただけだが)。

ただ、記事の内容だけでは、本当にドイツの科学技術行政が、わが国より優れているのか納得できないという人も多いだろう。これまでドイツの科学技術行政(もちろん詳細な数字ではない)が、ザクッとわかる本がないかと問われると、いつもドイツライプチッヒに設立されたマックスプランク進化人類学研究所の前所長、スバンテ・ペーボさんが2014年に出版した「Neanderthal Man」を読む様に勧めてきた。

この本は日本語にも訳され「ネアンデルタール人は私たちと交配した」という、少し品のないタイトルがついている。ただ、交配する(mate)というのはどうしてもブリーダーを思い起こさせる。こんな奥歯に物の挟まった表現をしなくても、「・・・セックスした」としたほうがずっといいように思っている。

読んでみればわかるが、この本はネアンデルタール人の科学について説明することを目的としているわけではなく、ペーボさんが科学者を志してからの自伝の様なものだ。すなわち、「ネアンデルタール人は私たちとセックスした」という知識より、古代人ゲノム研究発展へのペーボさんの貢献、ペーボさんがマックスプランク進化人類学研究所所長を請われるいきさつ、計画から設立までの苦労話、そしてもちろんこの研究所で完成した古代人のゲノム解読、などが生き生きと描かれている。まさに、この記述の中にドイツ科学の強さを見ることができるのだ。私も、京大の再生医学研究所や、小保方問題で跡形もなく再編されてしまった理研発生再生科学総合研究センターの設立に関わったが、Neanderthal Manを読むと、分野は異なっても、ペーボさんたちの思想が遥か先に進んでいたことを思い知った。

進化人類学研究所の設立についての記述を読んで私が素晴らしいと感じた点を挙げると、

1)設立プランの段階からドイツ人ではない(スウェーデン人)ペーボさんを所長に決め、全権を任せて自由に研究所を設立した。

2)新しい21世紀に向け政府が集中投資を決めた領域が、進化人類学で、はっきり言ってすぐに役立つような研究対象でない。(ナチス時代の反省で自粛していた人類学を活性化させるという意味もあった)。

3)スタートした研究所は、ゲノム、人類学、サル学、言語学、心理学などの文字通り多分野の集まる、21世紀を先取りする研究所だった。

4)ネアンデルタール人のゲノムが解読できそうになると、リクエストに応じて必要な支援がマックスプランク財団を通じて行われ、支援に柔軟性があった。

などが「Neanderthal Man」によく書かれており、ドイツ科学の卓越性の秘密の一端はこの本で十分知ることができる。その意味で、我が国の政策担当者には「ネアンデルタール人は私たちと交配した」という知識を仕入れる目的より、ライプチッヒ研究所の成功がどう計画され、成し遂げられて行ったのかを学んで欲しいと思っている。

そしてもう一つ、私がこの本を読んで最も驚いたのが、ドイツと我が国の不倫に対する寛容さの大きな違いだ。科学技術政策から急に話が不倫に飛んで驚かれたと思うが、私はこれもドイツという国のシステムを知るには重要なことだと思っている。

Neanderthal Manを読んで私が最も感心したのが、ドイツ科学を代表するペーボさんが自分の不倫や性的好みについて率直に語っている点だ。

長くなるがペーボさんが奥さん、Lindaさんと初めて出会った一節を私の拙い訳で引用する。

「 ・・・バークレーで興奮の毎日を送っているとき、毎日ラボにバイクで通ってくるLindaのボーイッシュなルックスと彼女の頭の良さに強い印象を受けていた。それでも当時私(筆者注:ペーボさんは男性)にはボーイフレンドがおり、エイズの支援活動で忙しくしていたので、MarkとLindaが付き合ったと知っても特に打ちのめされることはなかった。MarkとLindaはその後ペンシルバニア大学に移り、結婚、二人の子供を授かることになる。しかし、私とLindaの関係はこれでは終わらなかった。」

出典:Neanderthal Man(Basic Books出版)

これに続いて、Mark/Linda夫婦がドイツを訪れたのを機会に、映画館にLindaさんと二人きりで出かけ不倫まで進む。そして、不倫にかられた自分を冷静に分析して以下のように率直に述べている。

私はこれまで自分がゲイだと思ってきた。道を歩いていても、常にイケメンに目が向いていた。それでも、付き合ってみたいという気持ちを隠さない積極的な女性にも惹かれていた。

出典:Neanderthal Man(Basic Books出版)

結局、Lindaさんはペーボさんと結婚するが、経緯については是非「Neanderthal Man」を読んで欲しい。

ドイツを代表する研究所の所長が、自らの不倫と性的傾向を赤裸々に述べている。そして、ドイツではこのことを問題にしてペーボさんに辞任を迫る人はいない(本当はいたかもしれないが、彼は定年まで所長職を全うし、今も同じ研究を続け、多くの研究者から尊敬を集めている)。

ドイツに留学したとき、私は政治家や科学者の不倫を個人的な問題として騒がない寛容さを実感してきた。それに比べて、最近の我が国の不倫報道とバッシングを見ていると、ドイツと日本の「一般意志」の精神的成熟度の差を感じて暗澹たる気持ちになる。そして、この成熟がドイツの科学の卓越性にも一定の貢献をしていると思っている。

こう感じるのは私だけでない。最後に、熊本大学医学部が科学研究で卓越した機関になるために心を砕かれ、今年4月に亡くなられた元医学部長林秀男先生からいつも聞かされていたエピソードを紹介して終わろう。

残念ながら私が熊本大学に行く前の話だが、ある教授選考の際、業績では他を圧倒していた候補者について、不倫問題を出して反対する意見が出たらしい。そのとき林先生は周りを見ながら、「あやかりたいね!」と一言述べられ、不倫を教授選考に持ち込む愚を諭し、優秀な教授を熊本大学に迎えることができたという話だ。

引退されてから何度か一人暮らしのお部屋を訪れたが、いつもこの話が出てきた。おそらく林先生も、日本を指導する人たちの精神的成熟を願ってこの話を繰り返し、繰り返し話されたのだと思う。