モバイルヘルスは科学になりうるか?

(写真:ロイター/アフロ)

現役最後の10年は、神戸CDBで研究を進める一方、当時理事長だった井村元京大総長を補佐して、神戸市先端医療財団の運営にも深く関わった。この時の目標は、多能性幹細胞を用いた再生医療の可能性を世界に先駆けて示すことだったが、先週The New England Journal of Medicineに高橋政代さんチームによるiPSを用いた黄斑変性症の細胞治療の論文が発表され、目標が達成できたと喜んでいる。当時、CellやNatureに論文は必要ない。The New England Journal of MedicineかThe Lancetに症例の報告を発表してもらうことがこのプロジェクトの目的だと檄を飛ばしていたが、高橋さんがこの檄を尊重してくれたと自己満足している。もちろん、橋渡し研究拠点を目指して努力された井村先生も気持ちは同じだろう。

再生医療と並行して、井村先生が推進しようとされていたのが先制医療だ。個人の疾患リスクをいち早くキャッチして、病気を発症させない、一種の予防医学と言える。しかし、リスク予想のためにゲノムを始めとするバイオマーカーを集め、リスクをキャッチできても、実際には余程深刻なリスクでないと人間の行動パターンを変化させることが簡単でないという大きな壁を感じることになった。

このことに気づいた米国NIHは、健康のための意識変革には、行動学と社会学の研究が必須であると考え、今年から行動学分野の研究プロジェクトを立ち上げている。中でも、スマートフォンなどを用いたモバイルヘルスの重要性を認識し、2011年から始めていたMobile Health(mHealth) Training Instituteを増強し、研究者にモバイルツールを使った研究法のトレーニングを行うという念の入れようだ。モバイルツールから科学的なデータを得るためには、まず使ってみるしかない。

人間の行動を科学とモバイルで管理するなど、マインドコントロールと紙一重という批判があるのは承知だが、私はこの議論を繰り返すことは、かって「人間に自由意志があるのか」について行われた終わりのない哲学論議と同じにに思える。結局やるか、やらないか決めた上で、やるとなれば、マインドコントロールとどう違うのかを明確にできるように努力するしかない。もちろん私は推進すべきだと思っている。

事実モバイルツールから得られる医学的データは科学的信頼性がないという批判を克服しようと、現在様々な試みが進んでおり、今日はその一つニューヨーク・マウントサイナイ病院のグループが喘息患者さん向けのiPhoneアプリを使うことで、喘息の実態調査が可能であることを示した論文を紹介しようと思っている(Chan et al, The asthma mobile health study, a large-scale clinical observational study using ResearhKit(喘息のモバイルヘルス研究、ResearchKitを使った大規模臨床観察研究), Nature Biotechnology, doi:10.1038/nbt.3826)。

この論文を読んで初めて知ったのだが、アップルは。1)インフォームドコンセントの確認、2)アンケート調査、3)健康や疾患情報の収集、4)対象への呼びかけ、5)中央での情報処理、を可能にする、ResearchKitと呼ばれるモバイルヘルスを想定したアプリ制作のためのオープンソースのフレームワークを提供している。

このフレームワークを用いて、喘息のアプリを作成し、iPhoneユーザーに提供して始まったのがこの研究だ(残念ながら私はアンドロイドのスマートフォンなのでその内容を確かめていないことを断っておく)。

このアプリをダンウンロードした(おそらく)喘息患者さんかその家族を対象に、

1)実際にこのアプリを喘息の実態調査に使う可能性、

2)このアプリで可能なコホート研究の長所と短所、

3)参加者の熱心さや、長期的関心、

4)データ共有についての意識

などについて調べるのがこの研究の目的だ。

論文は2015年3月アプリが提供された日から続けられている調査の現時点でのまとめと言える。

モバイルの力を感じるのは、最初の6ヶ月で4万以上のダウンロードがあり、この中でなんと8千人近くがプロジェクトに同意し、調査参加に同意している点だ。アプリ一つで、これだけの人たちの協力が得られることは、これまでの疫学調査では考えられない。

結果をまとめてしまうと、

1)予想以上に多くの人が熱心に参加し、喘息の季節別、地域別の情報がリアルタイムで得られる。

2)モバイルデータから算出される発作の頻度、薬剤の使用などについても、これまでの厳密な疫学研究とほとんど同じ結果が得られる。

になる。

これに加えて、私が面白いと感じた結果もリストしておこう。

1) 参加者の88%は、匿名化したデータの共有、66%は研究者へのデータ提供、さらに21%は研究のスポンサー企業への提供を同意している。すなわち、研究への参加意欲が高い。

2) モバイルヘルスの場合、参加者は圧倒的に白人で、若者が多く、また男性が多い。

3) 症状が重い人ほど熱心に参加する。

4) 一般メディアでの宣伝があると、ダウンロード数が格段に増加する。

5) 呼吸機能を調べるピークフローなどのデータと、吸入器の使用率などを集めることも可能。

6) 患者さんに様々なデータを提供することで、発作のコントロールがかなりの割合で可能になったという、医学的効果も表れている

などが挙げられる。

これまで、疫学というと厳密な医療統計学に基づき様々な調査が行われてきた。それと比べるとモバイルヘルスは問題が多いことは確かだ。現に、対象の学歴、年齢、性別、人種など多くのバイアスがかかる。しかし、これを拒否するのではなく、患者さんたちと一緒になって、この問題を克服し、科学性を獲得するための新しい推計学を確立することが正しい道だと思う。

このようなフレームワークがあるなら、我が国の研究者ももっと気軽に利用すればいいと思う。21世紀の医学にコレクティブインテリジェンスは欠かせない。