21世紀の「匂い」がする面白い研究

(ペイレスイメージズ/アフロ)

今私たちはバーチャルメディアが当たり前の世界に生きており、空間や時間を超えて映像や音を体験することができる。さらにSNSは私たちが体験できる世界を急拡大させた。

バーチャルメディアとSNSの信頼性は、大手メディアを中心とする批判にさらされてきた。しかし「大手メディアは偽ニュース」という「トランプのツィート」は、皮肉にもこの関係を逆転させて、「SNS=真実、メディア=偽」とまで主張している。

理屈抜きで私がトランプを好きになることはないだろうが、SNSと既存メディアの境がどうあるべきか再考を促す反面教師として彼は評価できそうだ。

これはおそらく、言葉が持つ嘘と真実の二面性の問題にもかかわる。バーチャルメディアのない時代は、空間や時間を超えた世界の体験は言葉を通してしか可能でなかった。そして、言葉に真実と嘘の2面性があることをだれもがしっかり認識していた。

少しノスタルジックになったが、今も言葉を通してしか体験できない感覚がある。嗅覚だ。

継時的に空気をカプセルに閉じ込めるような技術があれば可能になるかもしれないが、刻々かわる匂いを記録するのはまだ言葉を通してしかできない。

今日紹介する米国を中心とした国際チームの論文は、匂いを惹起する分子と、その感覚に対する言葉の表現を結びつけようとした面白い研究で、「匂い」の文化人類学ともいえる21世紀の「匂い」を感じた。

論文は2月20日号のScienceに掲載された(Keller et al, Predicting human olfactory perception from chemical features of odor molecules(ニオイ分子の科学的特徴から人間の匂い感覚を予想する), Science, 10.1126/science.aal2014 (2017))。

研究自体は人工知能の話で、私に完全に理解できない点は多い。しかし目的は明快で、匂い分子の構造から、その分子の匂いを人間がどう感じ、表現するか予測するモデルを作成することだ。

空気中に拡散する匂い物質を鼻粘膜の嗅覚神経の興奮として感じた後、その刺激を様々な経験と照らし合わせ、最後に言葉で表現するまでの過程の研究は論理的に攻めると極めて複雑だ。代わりに、間をすっ飛ばして分子と言葉の表現を結びつけようとする大胆な試みだ。

もう一つ未来的なのは、22のチームが独自にモデリングを作成し競い合って、最終的にどれが優れているのか決める手法を取っている点だ。これは、コレクティブ・インテリジェンスと呼ばれる手法で、私もその重要性を特に医師を目指す学生さんに講義している。

具体的には、数多くの構造のわかった単一の匂い分子を嗅がせ、その感覚を19種類の言葉から選んでもらうという実験を49人の被験者に行ってもらう。もちろん人によって感覚は異なるため、最終的に全員一致の表現はないが、分子の構造と言葉で表現された結果をそれぞれのチームに提供して、表現と分子構造との相関を高い確率で予測できるモデルを各チームに開発してもらい、その中で成績のいいモデルを検討して次の段階へ進むという戦略だ。

誰もが一致できる匂いの表現についての分析も示されているが、「ニンニク臭」、「強い匂い」、「心地良い匂い」、「甘い匂い」、などは多くの人が同じ表現を使うが、「木の匂」いなど複雑な匂いになると個人差が大きいのも納得する。

さて結果だが、このような研究は一つの「結論」に到達するのではなく、これまでより優れたモデルを作ることが目的になる。素人なので評価は難しいが、参加者のモデルの中から予測成績の良かったモデルを組み合わせると、心地よさや、強い匂いといった感覚だけでなく、もう少し複雑な19種類の表現のうち8種類について人間の感覚を言い当てることが可能になったとまとめていいだろう。

今後は、さらにモデルを進化させる必要があるが、もともと個人差の大きい匂い感覚についての表現を予測するプロジェクトは、脳科学、心理学、文化人類学、言語学まで巻き込む可能性のある面白い分野だと思える。

最近、医師を目指す学生さんに対する講義を頼まれると、「人工知能」「ゲノム」「コホート:人間の記録」「コレクティブインテリジェンス」をキーワードにして話をしている。今日紹介した論文は、ゲノムを除くすべての要素が混じったプロジェクトだ。また脳科学研究としてみれば、ゲノムも当然含まれており、上記の4要素がすべて揃った研究と言えるだろう。次の講義にはこの論文もぜひ使いたいと思っている。

少し深読みかもしれないが、この研究の裾野は広い。各匂い分子に対応する受容体と、感覚の脳内マッピングが完成してくると、今回のようなAIによる匂いの表現予測は脳科学と直結する。さらには言語研究や文化人類学まで拡大するのではないかと。未来が「匂ってくる」論文だった。