ガン死の経済政策(不況に対する医学の視点)

(写真:ロイター/アフロ)

安倍首相が消費税導入再延期を決断したことがマスメディアを賑わせている。経済学者ではないので、そもそも日本経済をよくする処方箋など考えたことはないが、報道を通して今回の安倍首相の決断に至るまでの過程を見ていると、政治だけでなく政府を含めた我が国の中枢の使命感と責任が欠落しているように受け取らざるを得ない。

例えば、内外の経済学者を招いて「お勉強」というのも、これまで確固たる政策がなかったのではと心配になるうえに総理周辺のブレーンは何をしていたのかと訝しく思ってしまう。

本来なら、勉強は自腹でこっそりするものだ。「お勉強」を公にして、権威を笠に着るのはコンプレッスの表れでしかたない。しかも、報道によると「お勉強」した成果を、よせばいいのにサミットに提出してG7首脳の失笑を買ったようだ。挙句に、「お勉強」の結果ですと、「予定通り行う」と明言した消費増税を再延期し、財政出動で需給ギャップを埋めるという対応も、その場しのぎの対症療法的な策としか私には見えない。しかも、失敗の原因は「中国を初めとする他国経済の下振れ」とはっきりと言われてしまうと、現在の経済がボーダレスで各国の意向とは関係なく変動することは理解できるが、我が国はただの独立国ではなく先進国、それもG7の一員であるにもかかわらず、この状況を指をくわえてみていたのかとかと疑いたくなってしまう。政策を動員して、表面的な課題だけでなくその奥にある根源的な課題も思慮を巡らしつつ、あらゆる事態に備えるのが政治ではないのか? 思うようにいかないことも当然ある。その場合、失敗の原因を分析し、対策を示すのが政治だ。中国経済の下振れは随分前から予想できていたのではなかったのか?なぜ、このタイミングでの判断でなければならなかったのかを国民に理解できる内容で説明が必要なのではないか。

挙句に財政出動とは、需給ギャップを埋めることを名目に政府が借金を気にせずお金を使う「政策?」だ。しかもこの政策は政権が変わろうとも延々と続けられてきた。それでもデフレ防止に失敗していることについて、金の使い方が足りなかったと本当に総括していいのか、素人でも心配になる。消費財増税延期の判断の理由と共に、財政出動という対応策を取るに至った根拠の国民への提示が必要ではないだろうか。

安倍首相はサミットで、不況の前兆として「エネルギー価格」「新興国の生産や貿易の伸び率」を指摘したが、もともと政策介入が難しい原因というのであれば、それを前提とした政策転換を早急に行うべきであったのではないだろうか? 既得権益の壁が厚いことは理解できないでもないが、このようなやり方では、私たち国民は、恣意的に認めざるを得ない指標を選んで「お勉強」の成果を披瀝しているのではと勘繰りたくなる。

昨年ベストセラーになった「21世紀の資本論」を書いたトマ・ピケは、欧米社会において限界税率が下がってお金持ちが富を独占している貧富の差がピークに至ることが恐慌の兆候だと述べている。すなわち、一部の人に最大の富が集中し、それを政府の政策が結果的であっても後押ししている状況に至っているときこそ不況を憂うる必要がある。もしこれが我が国においても欧米と同様に正しいとするなら、税制改革こそ不況阻止につながる政策と言える。そして、富が一部に集中した時不況に襲われて最も困るのは、余力のない一般庶民で、これを守る政策が政治家の腕の見せどころではないのだろうか。

前置きが長くなったが、不況で国民を守るために何が必要か教えてくれるロンドン大学からの論文を今日は紹介したい。タイトルは「Economic downturns, universal health coverage, and cancer mortality in high-income and middle-income countries 1990-2010: a longitudinal analysis (1990~2010年の高所得国、中所得国での経済悪化、国民皆保険、そしてガン死亡率)」で、5月25日号のThe Lancetに掲載された(http://dx.doi.org/10.1016/S0140-6736(16)00577-8)。

研究は、高所得国、中所得国の経済や健康について公表されているデータを世界銀行及びWHOから得て、年度ごとの各ガンによる死亡率と、失業率、医療費の公的支出額など、様々な経済指標との相関を、多変量回帰分析した単純な研究だ。しかし、不況から国民を守る政策とは何かを改めて教えられる論文で、是非紹介したいと思った。

結果だが、2008年リーマンショック後の経済不況で失業が増えると、肺がんを除く全てのガンで死亡率が上昇している。特に、乳がんや直腸癌のような治療可能なガンで死亡率上昇が明瞭に認められる。一方、膵臓癌のような治療の難しいガンでは、不況による影響はあまり認められない。この傾向は高所得国も、低所得国も同じで、リーマンショックが世界規模に広がる不況だったことがよくわかる。著者らの計算では、リーマンショックにより約26万人のガン患者さんが、命を失ったことになる。

では政策介入余地はないのか?著者らはこの相関が統計的に認められなくなる条件を探し、国民皆保険制度を持った国ではリーマンショックによるガン死の上昇率が低いことを発見した。個別のデータがないので推測だが、この結果は国民皆保険制度を持つ我が国では、リーマンショックによる経済的影響を国民皆保険制度がバッファーとして受け止めることでガン死の上昇を食い止めていたことを物語る。一方、リーマンショックの震源地アメリカでは、不況で多くの人が民間医療保険から締め出され、ガン死が上昇したことになる。

誰もが予想でき、誰もが納得できる結果と言えるが、改めて示されると、他国経済に影響されず国民を守るとは何かがよくわかる。国民の基本的権利の格差解消を図ることこそが、不況時を乗り切る重要な政策になる。とすると、今後もどう国民皆保険を守るのか、不況の再燃を恐れるなら、この点についての政策も明確に語るのが政治家だ。21世紀を迎えたあと公的債務残高は倍増している。このままだと不況から私たちを守る年金や国民皆保険は維持できなくなるのではと心配している。ぜひ空虚な言葉と約束でない、わかりやすい政策を語ってほしい。