一般向きではない科学の話:生物誕生以前にアデノシンはどう合成されていたのか?

サーマルベント(写真:ロイター/アフロ)

現役を退いた後、死ぬまでに是非理解したいと思ったのが、無生物から生物が誕生する過程だ。しかし、論文を漁って考え始めた時、生命誕生までの過程について自分が納得できる説明に到達できるか半信半疑だった。というより、ほとんど諦めていた。しかし、少しずつ読んだ文献の数が増え、三年経ってみると、自分で納得できる、しかも実験可能で具体的な生命誕生のシナリオを描くことはそう難しいことでないと思うようになってきた

この私自身の理解が進化してきた過程を、顧問を勤めているJT生命誌研究館のホームページに「進化研究を覗く」として書き綴っている。特に2015年10月15日の「ゲノムの発生学I」を書いて以降は生命誕生過程に焦点を当て、それに関わる研究論文や自分の考えを紹介しているので、生命誕生に興味のある方は是非読んでほしい。

また「生命誕生を説明するのは難しくない」という確信が芽生えてきたので、出張講義を頼まれている医学部学生への講義でもこの課題を取り上げ始めた。昨日、講義を聞いてくれた学生さんからのレポートが送られてきたので、どんな反応が得られたのか読むのが楽しみだ。

さて本題に戻ろう。

生命誕生研究分野には、例えば分子生物学といった中核は存在せず、物理学、有機化学、情報理論、地球学など広い分野にわたっている。これが、この分野を研究したいという若者の気持ちを萎えさせる一つの原因だ。しかし、ほとんどカオスの状態から、長い時間をかけて生命が誕生したことを考えると、当然の話だ。それでも、論文を読んでいると、まだまだ報いられることの少ないこの分野で、大きな問題に挑戦している研究者が増えてきているのではないかという印象を持っている。

今日はその裾野で生体分子の化学合成に取り組むミュンヘン大学からの論文を紹介したい。この研究では、生命誕生前にATP,DNA,RNAの原料となるアデノシンが一回の反応で合成できる条件を探っている。タイトルは「A high yielding, strictly regionselective prebiotic purine nucleoside formation pathway (高収量で部位選択的な生命誕生前のプリンヌクレオシド合成経路)」で、5月13日号のScienceに掲載された。

私たちの学生時代、生命誕生に興味があるとオパーリンの「地球上の生命の起源」や、カルビンの「化学進化」を読んだものだが、当時は思いもよらなかったのが、海底でアルカリ性の熱水を噴出しているサーマルベントだろう(写真参照)。サーマルベントの発見は、生命に必要な有機化合物合成についての考え方を大きく変化させ、炭酸ガス、水素、アンモニアなどから、アセトンやメタンといった単純な有機物ができることは難しくなく、今も続いているという確信につながった。このおかげで現在の研究の焦点は、より複雑な有機化合物が合成される過程を説明し、それが実現可能であることを示す実験的研究に移っている。

例えば生命の情報とエネルギーに必須の分子、アデノシンは塩基と糖が結合したヌクレオシドにだが、生体では何段階にもわたる代謝経路に従って合成される。しかしこのような多段階の代謝経路は生命にしか存在せず、生命誕生以前には単純な反応で合成できたはずだ。

塩基の中でもアデノシンやグアノシンの骨格になるプリン塩基はより構造が複雑で、これまでOrgelグループによりアデノシンを合成する一つの反応経路が示されていただけだった。しかし、この方法で実際合成を行うと、様々な有機物ができてしまい、目的のアデノシンの収率は極端に悪かった。

今日、紹介する研究では、合成回路をじっと眺めて考えた結果(と私が想像している)、シアン化アンモニウムから簡単に合成されるフォルミルアミノピリミジン(FaPy)を原料とすることでアデノシンの高収量の合成が可能ではないかと着想した(有機化学の専門家は経路を眺めているだけで頭の中で反応が進むようだが、悲しいかな素人にはこれを体験するのは難しい)。基本的にはFaPyから始めるという着想が全てで、後は様々な条件で(熱したり、結晶化させたり、pHを変えたり)反応させてアデノシンの収率を調べている。

結論としては、FaPyからスタートすることで、生体のように他段階の反応経路を通らなくとも、一回の反応でアデノシンを少なくとも20%以上の収量で合成できることを示している。しかも、利用した材料や条件は当時の地球に存在したと十分考えられる条件だ。これをリン酸化してATP(アデノシン三リン酸)や核酸を合成するのはそう難しくない。生命誕生以前の地球にとって、ATPも核酸も現実であることを実感させてくれる論文だった。

生命誕生研究の裾野は広いが、それぞれの裾野での研究は着実に進歩している。まだまだ研究人口は少ないが、これから野心的な若者の参加が期待できるように思える。この分なら、生きているうちに、生命合成の瞬間に出会えるかもしれない。

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