英国で大きな問題になった捏造事件、Wakefield事件と比較することで、小保方晴子氏による論文捏造事件(以下、「小保方氏事件」という。)を振り返っている。前回は、両者ともに、論文内容を脚色した派手なプレス発表を行い、メディアも、そのプレス発表の内容を鵜呑みにして1面トップの扱いで報道したことで、大きな社会的反響を呼んだところまで話をした。今回は、捏造発覚前に、この論文報道に誘発されて発生した社会的影響について比べてみたい。

雑誌編集部はどこまで反響を予測していたか?

「The Lancet」も「Nature」も英国の雑誌で、科学雑誌としてだけでなく、一定の一般層をも対象にする情報雑誌の要素も持つハイブリッドな雑誌だ。このため、一般人からの反響も大きく得られる論文を掲載しようと努力している。一方、論議を呼び反響や社会的影響が大きいと判断した場合、編集部からのコメントを掲載したり異なる意見の論文を同時掲載したりして、編集部がその反響や影響について十分把握していることを示す努力が払われている。ただし、扱いに注意が必要な論文は、幸いほんの一握りしかない。

Wakefield論文の場合、「The Lancet」編集部は大きな反響を最初から予測していたようだ(実際にはワクチンと自閉症の因果性について表現を弱めるように指導している)。「The Lancet」の同じ号に、Wakefieldの結論、すなわち新3種混合ワクチン(MMRワクチン)が自閉症を誘発するという結論に疑念を提出し、感染症対策に対するワクチン接種の重要性を述べた「ワクチンの副作用:因果性があるのか偶然か?」と題する依頼論文(Chen & DeStefano The Lancet 351, 611, 1998)を掲載して、反ワクチン運動に火をつけることのないよう、用心している。しかし、この努力は実を結ぶことはなく、社会的な大騒ぎに発展する。

一方、小保方氏論文が掲載された「Neture」の同じ号には、私もよく存知っている日本在住の「Nature」ニュースの記者であるDavid Cyranoski氏の、「酸浴は幹細胞への簡単な道」と題する解説記事をコレスポンデンスとして掲載しているだけだった(Cyranoski Nature 505, 596, 2014)。依頼した解説記事を論文とともに掲載すること自体は、なんら特別なことではなく、「Nature」では、毎週掲載される論文の中から幾つか選んで解説が行われている。例えば2007年に私の研究室のIgor Samokhvalov君が「Nature」に論文を掲載した時も、同じ号に解説記事が掲載されている。この普通の扱いから見て、「Nature」編集部もおそらく、あれほどのセンセーショナルな反響を巻き起すとは予想していなかったのではないだろうか。

しかし毎日新聞社記者の須田 桃子さんから聞いたところでは、記者発表前に「Nature」から大きく扱う価値がある論文だと連絡があったそうだ。「Nature」がどの程度の反響を期待していたのか、いつかDavid Cyranoski氏に聞いてみたいと思っている。私の印象を述べると、あれほどの反響が日本で起こるとは予想していなかったのではないだろうか。

市民の反響

Wakefield事件

Wakefield論文の報道に対する市民からの反響については、私自身が経験したわけではなく、様々な文献や資料から推し量る以外に術がないが、今回は、文献、資料からレトルスペクティブ(懐古的)に分析してみよう。例えば2003年に英国の経済社会研究委員会から出された科学、社会、メディアの関係についての調査(Hargreaves et al, Towards a better map: Science, the public and the media)では、Wakefield論文に対するメディアや市民の反応が調査されており、論文発表後、4年を経ても、新3種混合ワクチンと自閉症を伴う腸炎の関連について7割の人が知っており、そのうち4分の1(25%)の人がこれをWakefield氏と結びつけられることを報告している。この長く続く市民の関心には、2001年のブレア首相の子供が誕生した時、Wakefield氏の支持者から首相に対して、「子供に新3種混合ワクチン接種を受けさせるか?」と突然問われて、首相は。「受けていない」と表明したことが大きく報道されたことも寄与している。とはいえ、1998年の論文とその報道はかなりの反響を呼んだことは間違いない。

Hargreavesレポートでは、メディアの報道が市民のワクチン接種に対する信頼を損なう原因の一つだったと分析している。ただ、このような調査より何よりも、Wakefield論文の報道は、それまで上昇していた新3種混合ワクチン接種率の急激な低下を招くこととなる。この影響で、英国、アイルランド、米国ではそれまで減少傾向にあった「麻疹(はしか)」の流行が、しばしば増加傾向に転ずる事態が見られるようになり、2011年の「The New England Journal of Medicine」に掲載されたワクチン反対運動に対する医学・医療の戦いを紹介した論文では(Poland & Jacobson, The New England Journal of Medicine, 364, 97, 2011)、論文発表後2年目の2000年には、ダブリン(アイルランドの首都)で300人の「麻疹(はしか)」患者が発生し、100人が入院、3人が死亡したことを紹介している。このように、Wakefield論文が新3種混合ワクチン接種率の低下を招き、その結果としての「麻疹(はしか)」の流行と死亡例の発生という、市民社会に対する実体的影響があったことは間違いない。

小保方氏事件

小保方氏事件を、市民の行動を変化させ、「麻疹(はしか)」の流行という実被害を招いたWakefield論文と比べた時、捏造が発覚する前の小保方氏のSTAP論文に対する「世の中」の大騒ぎはなんだったのか今でも不思議に思う。

STAP細胞について、笹井 芳樹(理化学研究所 元副センター長)さんや若山 照彦(山梨大学生命環境学部教授)さんから私に送付されたメールの内容から判断すると、彼らが細胞のリプログラミング(DNAのメチル化など、エピジェネティックな標識の消去・再構成)の新しい方法として物理的刺激(今回はpH)を使うSTAP細胞の未来を信じていたことは間違いない。特に笹井さんは、ヒトに応用できるのも直ぐだというメールを私に送ってきている。また、若山さんが小保方さんの仕事にアドバイスを私に求めてきた最初のメールには、彼の素直な興奮が文面からはっきりと伺えた。もちろん、この時、若山さんからSTAP細胞の説明を聞いた私も面白い現象だと思った。

当時、小保方氏論文だけでなく、例えばエジンバラ大学(University of Edinburgh:英国スコットランド エジンバラに1583年に設立された大学)とロックフェラー大学(Rockefeller University:アメリカ合衆国ニューヨークに1901年に設立された私立大学)から、らい菌(Mycobacterium leprae:ハンセン病(Hansen's disease)の原因菌で抗酸菌の一種)がシュワン細胞(Schwann cell:末梢神経細胞の軸索を取り囲む神経膠細胞)に感染するとリプログラミングが起ることを示す論文(Masaki T et al, Cell 152, 51, 2013)が発表されていた。また、物理刺激によってリプログラミングが起こったことを発見したので論文を見て欲しいと知り合いの研究者に頼まれたりしていた。ただ、小保方さんの論文は、物理的刺激で全能性を有する多能性幹細胞までリプログラミングが進むことを示している点で、他の論文よりずっと先に進んでいた。話を聞いて、リプログラミングのメカニズム研究に、新しい方向性が生まれたと思った。

とはいえ、研究の内容は、作用のメカニズムがはっきりしない不思議なリプログラミング現象があるというだけのことだった(論文の分析は後に行う)。ヒトにもすぐ応用できるというのは、笹井さんの期待でしかなかったはずだ。事実、小保方さんが最初に公式の場に登場したのは、私が引退する前の年、2012年の5月の理化学研究所 多細胞システム形成研究センター(以下「CDB」という。)研究倫理委員会だった。もちろん今も資料が残っているはずだが、STAP細胞(当時は、「カルス細胞」と呼んでいた。)をヒト臍帯血から誘導したいという申請内容だった。ヒト臍帯血をリプログラミングする研究は許可されたが、関係者から話を聞くと、この研究にそれほど力を入れている気配はなかった。この点も、小保方さんや笹井さんが臍帯血バンクに注文した臍帯血の数を調べればすぐわかることだ。

David Cyranoski氏の紹介記事でも、ヒト細胞のリプログラミンの可能性は最後の方で一言触れられているだけだった。David Cyranoski氏はは山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長)にも論文を見せてインタビューを行っている。この記事で紹介されている山中さんのコメントは、「リプログラミングを理解するための重要な結果」で「臨床応用に向けての一つの方法になるだろう」というものだった。前もって論文を見たほとんどの研究者は、研究すべき新しいリプログラミング過程が発見されたとしか評価できなかったはずだ。山中さんがどこまで臨床応用に近いと考え、このコメントを出したのか聞いてみたいが、記者会見後に山中さんからもらったメールでは、なぜSTAP細胞がiPSを凌ぐ再生医学の切り札として宣伝され報道されるのか理解できない、という戸惑いをうかがうことができた。おそらく、臨床など考えるより基礎的な理論を詰め、基礎実験結果の蓄積を行うべき課題だと思っていたはずだ。それにもかかわらず、マスコミは、笹井さんが描いた夢「再生医学にイノベーションをもたらす切り札STAP細胞」を言い値のまま買ってしまう。

若い小保方さんを再生医学のエースに仕立て上げた派手なプレス発表は意図した以上の反響を呼ぶ。プレス発表の内容は、そのままチェックなしに各紙一面トップで報道され、メディアは若い女性の成功物語、将来のノーベル賞候補と囃し立てた。繰り返すが、科学的には、メカニズムのはっきりしないリプログラミングの一つの方法という以外に内実はなかったにも拘わらずである。

当時、私はこの仕事でノーベル賞などと口にするのは恥ずかしいことだと感じ、メディアの見識を疑った。私は山中さんのiPSの最初の研究発表をキーストン シンポジアの座長として初めて聞いた時の驚きは忘れられない。若山さんから小保方さんの発見を説明してもらった時も、重要な発見だと確信し、彼らを祝福したが、それでもiPSの話を聞いた時の驚きには到底かなわなかった。体細胞を核移植以外の方法でリプログラムできることがわかってしまうと、あとで発見された方法は結局2番手でしかない。

つまるところ、この騒ぎは、市民生活にとっては毒にも薬にもならない、有名人のスキャンダルとあまり変わらない騒ぎでしかなかった。当時、マスコミが、STAP細胞が誘導されるメカニズムについてどれほど解説記事を書いたのか、一度調べてみたいと思っている。

国の反応

Wakefield論文は、「麻疹(はしか)」単独ワクチンから3種混合ワクチンに移行を推進していた英国の政策に真っ向から反対するものだった。この政策への影響を憂慮した英国政府は、急遽、医学研究委員会(MRC)の専門委員会を開き論文の調査を始めている。2月にWakefield論文が発表され、3月23日には、Wakefield論文で用いられた方法が抱える問題を指摘するレポートが出るという迅速な対応だった。このレポートがおそらく後の捏造発覚の引き金になる(これについては次の「発覚」の項で議論する)。

一方、アベノミックスの第三の矢に具体性がないと批判されていた状況であったことから、誰が決めたともなく小保方氏論文を積極的に利用しようとする流れが作られてしまったのではないかと思う。私はすでにCDBを去っていたので、内部のことは、又聞きでしか知ることはできなかったが、マスコミの後押しを得た笹井さんが、CDBの将来計画を一人で担い、国との交渉を進めていたことは想像できる。この点については、当時CDBから出された中長期の計画書を丹念に調べれば、CDB、理化学研究書、関係機関の3者が具体的第三の矢として何を描いていたかが明らかになるはずだ。

捏造が発覚してから、毎日新聞本社で須田さんや青野さんと意見交換をしたことがある。その時、取材ルートを持つ大手メディアのジャーナリストとして、描かれた夢がどのような助成金とつながっているのか具体的に取材してもらえるのではないかと期待した。この時、作成された計画(もしかすると、準公式な文書としてはまだ作成されていなかったかもしれない可能性はある。)はおそらく捏造発覚で既に破棄されなにも残っていないだろう。これまで述べてきたように、捏造には必ず「権力」と「利権(カネ)」が結びつくケースが多くある。捏造発覚前に描かれた夢と利権(カネ)の関係の解明なしに、小保方氏事件の教訓を、将来の科学技術政策、すなわち予算配分についての提言に生かすことはできない。残念ながら、この点に関して私の手元に資料が集まるめどはなく、心あるジャーナリストが解明してくれることを期待している。

次回は、捏造の発覚について両者を比べるが、Wakefield事件では執念のジャーナリストが登場する。