鳥インフルエンザや豚インフルエンザといった新型インフルエンザの恐怖が世界を襲ったとき、WHOはタミフルやリレンザなどのニューラミナーゼ阻害剤に発症を防ぐ予防効果があるとして、世界に備蓄を呼びかけた。我が国も3000万人の備蓄を厚労省が進め、現在も期限切れの薬を含む多くのストックがどこかに眠っているはずだ。このおかげで我が国はインフルエンザから守られていると今も多くの人が考えているのではないだろうか?事実、今年1月14日NHK番組「朝イチ」では予防のためにタミフルの服用を呼びかける医師のコメントが放送された(私も出勤前に見て耳を疑った)。このNHK番組には備蓄を早く消費しようとする政府を助ける意図などなく、ただ無知であるが故の放送だと思いたいが、天下の公共放送NHKが今年になっても呼びかければ、一般の人のほとんどはタミフルがインフルエンザの発症を予防し、重症化を止める特効薬だと信じるはずだ。しかしこの放送からさかのぼること8ヶ月、2014年4月にBritish Journal of Medicineに発表された論文(British Medical Journal 348:g2545, 20149)は、タミフルに予防効果や、重症化を防ぐ効果がないことを示唆し、この結論が欧米の専門家の間では常識になっていた(我が国ではそうではなかった)。WHOの呼び掛けにより先進各国が備蓄したタミフルは何千億円のレベルになるはずだが、この論文が正しければ私たちの税金が一部の製薬会社の懐を潤すだけのために使われたことになる。

どうしてこんなことになってしまったのか?なぜタミフルを特効薬と思い込んでしまったのか?実は、この思い込みは、ロッシュがスポンサーとなった多くの治験論文が、多くの未発表のデータからポジティブデータを拾い出して書かれ、この粗末な論文の結論をたてにマーケティングが行われたことに起因する。

1999年4月に公開されているFDAのタミフルに対する評価(http://www.accessdata.fda.gov/drugsatfda_docs/nda/99/21087_Tamiflu_medr_P1.pdf)を読むと、FDAの最終結論は「認可してもいいが、効果はmodest(控えめ)でしかない」とした上で、副作用も含めてまだまだデータが不備な点が多く、予防効果や、肺炎抑制効果を結論するにはさらにデータが必要だとしている。その後のいきさつはよくわからないが、この評価にもかかわらずWHOを始め世界の公衆衛生機関の多くがなんと積極的備蓄を呼びかけることになってしまった。

この世界を巻き込んだタミフル信仰に対して、これはおかしいと疑うグループが現れた。最も大きなグループは、多くの文献を常にサーチし、その結論を評価し直すことで、医療知識を正しく一般に伝えることを使命とするイギリスのコクラン財団で、タミルフが感染予防効果を持つことや、重症の肺炎を予防すると示唆してWHOなどが備蓄を呼びかける根拠となった論文(Kaiser L et al, Archiv of Internal Medicine 63:1667, 2003)の結論が、論文として発表されていないデータに多く依存していることを2009年に指摘した(Jefferson T et al, British Medical Journal 339:b5106, 2009)。実は2006年コクラン財団はタミフルなどのニューラミダーゼ阻害剤の治験論文10編を調べ直し、この薬剤が確かに合併症を予防し、入院の必要な重症患者の数を減らす効果があるという論文を発表していた。ところがこの論文がレビューした10編の論文のうち8編が全く発表されていないデータを使っており、副作用など信用できないのではという疑問が一人の日本の小児科医から投げかけられる。正しい医療知識を市民へ還元することを使命としているコクラングループにとって、この指摘はかなりショックだったようで、この10編の論文を書いた研究者やタミフルを生産しているロッシュに対する不信が急速に芽生える。この指摘の是非を調べるためロッシュに未発表データの有無について問い合わせたところ、データが知りたければ秘密保持契約にサインするよう求められ、治験データ公開をめぐる両者の戦いが始まった。この戦いは約3.5年続き、2013年、ようやく無条件でロッシュの手元にある83に及ぶ治験データがコクラングループに送られてきた。こうして手に入れた膨大な未発表データ(16万ページに及ぶ)を調べ直し、2014年4月タミフルの効果に関する論文がBritish Journal of Medicineに発表された(BMJ 348:g2545, 2014)。結果は、大人のインフルエンザの場合、症状の持続が平均16時間、小児の場合29時間程度短くなることは確認された(これはFDAの結論とほぼ一致している)が、これまで示唆されていたように重症化して入院する率に差は見られなかった。即ち、タミフルは症状改善には役立つが、重症化を防止する効果はないことになる。また予防効果についても、感染前に飲んで感染が予防できるという証拠はないと結論している。実際治験では、タミフルの予防効果を調べる際、例えば対象者が感染前か、感染はしているが発症前かなどの正確な区別が行われていない。また、多くの結果が患者さんの自己申告をデータとしてそのまま採用しており、「肺炎になりましたか」という質問に対する患者さんの答えに科学性がどれほど認められるのかと厳しく糾弾している。さらに未発表データを調べると、1%程度に精神症状、2%程度に腎症状が見られるなど明らかな副作用が存在しており、予防のために健康人に服用を迫ることは危険であると結論している。要するに、日本の一人の小児科医の指摘通り全く未発表の不完全なデータをもとにポジティブな結果を強調した論文が書かれていたことが明らかになった。折しも新型インフルエンザへの恐怖が重なったとき、このタミフル宣伝論文の結果をもとにWHOに備蓄呼びかけを促す上手なマーケティングが行われたのだろう。米国で1500億円、イギリスで900億円、我が国でも700億円近くが税金から支出され備蓄が行われた。コクラングループの2014年論文が正しければ、私たち国民がいい加減な論文によって被害を受けたことになる。

このように薬剤のマーケティングという強い動機があると、捏造でなくとも、ネガティブデータを採用せず、ポジティブデータを都合よく解釈して論文が書かれ、最終的に市民がその論文の被害者になることがあることがよくわかってもらえたのではないだろうか。金儲けのために大手企業が簡単にコンプライアンスから逸脱することは、最近の東芝不正会計、フォルクスワーゲンの違法ソフト問題からわかる。今日紹介した例に見られるように創薬企業も例外ではない。Ben Goldacre著「Bad Pharma: How drug companies mislead doctors and harm patient」には、創薬メーカーがスポンサーになっている治験論文と、独立に行われた治験論文を比較すると、薬剤を有効と評価する率が前者で78%、後者で48%であるという驚くべき調査結果が紹介されている。これを見ると、研究者の結論はどうしてもスポンサーの意向に引っ張られるという結論だ。このように、再現性への信頼性の欠如、ネガティブデータの無視は、医学が「金」に対し無防備であることを示し、その信頼性を揺るがせている。

大事なことは、この問題を構造問題と捉え、データの再検証の労を厭わないコクラン財団のような組織が存在することだ。我が国にも同じような目的で設立された「医療問題研究会」が存在しているが、コクランのように科学的検証を続けるには資金的に難しいようだ。企業や研究者に倫理やコンプライアンスをただ守れと唱えるだけでなく、問題を解決するための具体的方策を提案することが重要だ。タミフルやリレンザ問題については、コクラン財団とBritish Medical Journalの告発に動かされたロッシュやGSKを中心に、幾つかの企業が治験データを公開するClinicalStudyDataRequest.comサイトを共同で運営するようになった。雨降って地固まると言える。また問題を受け止め、新しい公開の仕組みを作った当事者ロッシュ、GSKはこの点で一歩進ん企業としていい印象を持たれるだろう。残念ながらこの組織に全ての製薬企業が参加するところには至っていないが、我が国からもアステラス、武田製薬、エーザイの3社が参加し、精神論ではない具体的な新しい取り組みが始まったのは喜ばしい。

タミフルの予防投与を推奨していた日本小児科学会も、今年4月には軽症患者への投与は特に推奨できないと新たなコメントを出したようだ。しかし、市民は小児科学会のコメントを読むことはない。その意味で、マスメディアの役割は大きい。実際、ロッシュとGSKが最終的に公開に動いたのは、イギリスのテレビ放送チャンネル4がBritish Medical Journalとタッグを組んで、公共に呼びかけたからだ。一方我が国では、私が知る限りコクラン財団の論文を紹介し、タミフルに予防効果がないことを報道したのは朝日新聞だけだ。しかも最初に紹介したようにNHKに至ってはこの論文から8ヶ月経った後もタミフルの服用を呼びかける有様だ。もしNHKの呼びかけに応じてタミフルを服用した子供の精神状態に副作用が現れたらどう責任を取るのだろうか。おそらく、呼びかけた医師の責任にして終わりにすることだろう。もし2014年の小保方捏造事件に目を奪われて、我が国の国民が実際に大損をした事件についての報道が後回しになったとすると、未熟な科学メディアを持つ我が国に救いはない。

このように、治験論文の信頼性が失われる背景には、「金」という単純明快な欲望が横たわっている。では小保方論文を始め基礎研究での捏造の背景には何があるのか?次回から考えていきたい。