ブリスベン・ロアーでのプレーは1シーズン限りに
ピッチから離れて1年が経とうとしていた。
2020年の年末までにオファーがなかったら現役引退。そう決めていた工藤壮人にようやく話が舞い込んでくる。
一つが東南アジアのクラブ。そこに行こうと考えていた矢先、オーストラリア1部ブリスベン・ロアーから正式オファーが届く。すぐに契約書を送付してくれるなど対応も素早く、ブリスベン行きを決断する。
「チームの始動日には間に合わなかったですけど、ブランクが1年あることも理解してくれました。前線からのチェイシングやペナルティーエリア内で決め切るところを評価していると直接伝えられました」
コロナ禍の変則日程によりリーグは年末に開幕。クラブからブランクの理解を得られたとはいえ、すぐさまアジャストしていく必要があった。
「リーグは思っていた以上にテクニカルな部分が強かったなと感じました。ただ南米の選手をはじめ、助っ人の力に頼るチームが少なくなかった。ブリスベンも一人で打開できるサイドアタッカーがいて、僕も個の力を求められるなかでチームのスタイルにどう合わせていけるかという難しさがありました」
途中起用が多く、結果になかなか結びついていかない。
指揮官には「先発のチャンスが欲しい」とは伝えていた。コンディションも上がってきた実感があった。それでも起用法に大きな変化はなく、6月末までのリーグ戦終了まで14試合1得点という成績に終わった。ストライカーというポジションは、結果が第一であることはよく理解している。結局、契約更新には至らず、1年も経たないうちに次のクラブを探さなくてはならなくなった。
オーストラリアでの生活自体は快適だった。妻と2歳の娘を呼び寄せており、もう1シーズン、このリーグで勝負したいという思いもあった。
だがここでも移籍先探しに難航した。結果を出せていない以上、仕方のないところもあった。Jリーグ復帰をはじめ、選択肢を増やそうとしたところで状況は変わらなかった。
とはいえ1年のブランクを経験した身とすれば、焦る必要もない。ブリスベンの町を気に入っていたこともあって、地元の2部チームに練習参加をお願いすると「ぜひ来てくれ」と二つ返事ですぐに受け入れてくれた。
周りの環境にも恵まれ、無所属に戻った工藤に助け舟を出してくれる人もいた。
サッカーに取り組む子供たちのパーソナルコーチを始めると、その人柄と分かりやすい指導力もあって口コミで評判が広がって生徒の数が増えていった。
居心地は良かった。1年前のように心が曇ることもなかった。でも一方で、このままじゃいけないという思いも膨らんでいた。
プロのフットボーラーとして勝負を。
愛する家族のために、ピッチに立つことを最後の最後まであきらめてはならないと思った。
「やっぱり娘には自分がサッカー選手だっていうことを見せたいし、うっすらでもいいから記憶に残してあげたい。妻からもサッカーを続けてほしいとは言われていましたし、安心させてあげなきゃとは思っていました」
バンクーバー・ホワイトキャップス時代、初ゴールから4日後の試合で相手GKと激しく衝突してアゴを骨折する大ケガを負った。
献身的に支えてくれたのが妻だった。再生手術が施されたアゴは歯茎にボルトを打ってワイヤーで固定するために口を開けることもできず、歯の間から流動食を胃に流し込まなければならなかった。
ご飯を出汁で伸ばしてミキサーにかけるなど、手間暇かけて1日10食分を用意してくれたという。彼は今も深く感謝していた。
オファーがなければ引退を覚悟しなければならないことに変わりはない。ただ、腐ることなくサッカーに打ち込んでいれば誰かが見てくれている。誰かが分かってくれている。忘れられた存在だと感じなくていい。そういった逡巡を乗り越えてオーストラリアにやってきた。家族のためにも、もうひと踏ん張りしたい。そう思っていたときに、J3のテゲバジャーロ宮崎から声が掛かった。
「クリスマスに帰国して2週間の隔離期間があったので、そこでテゲバジャーロの方とオンラインで面談をしました。オーストラリアでずっと練習してきてコンディションはある程度つくっていること、結果を残すのはもちろんですけど、僕が持っている経験はすべて伝えたいとも話をしたなかで〝ぜひお願いしたい〟と言ってもらえました。
カテゴリー関係なく、声を掛けてもらったことが純粋にうれしかったですね。このクラブのためにプレーしたいと心から思いました」
テゲバジャーロは練習場が一つに定まっておらず、転々としなければならない。ミーティング会場と練習場が別の場合もある。J3に昇格してまだ2シーズン目。環境が整備されていないところも「楽しむようにしている」。宮崎市内に居を構えて3月頭に妻と娘もやってきた。温暖な宮崎の新生活は、妻も気に入ってくれているという。
新天地・宮崎で2試合連続ゴール 。仲間と一緒に喜ぶことにこだわる
移籍初ゴールを決めたギラヴァンツ北九州戦に続いてSC相模原戦(3月26日)でもゴール前の混戦から押し込んで2戦連発となった。ゴールを決めれば、この日もベンチへ向かって歓喜の輪が広がった。
「ベンチで悔しい思いをしている選手の気持ちも分かります。それは僕もたくさん経験してきましたから。でも日々のトレーニングで競争があるなかで、試合になったら一緒になって喜びたい。その思いがあるからあのようなゴールセレブレーションになっているんだと感じます」
20代前半でJ1、天皇杯、YBCルヴァンカップを優勝して、クラブワールドカップにも出場した。日本代表でも2013年の東アジアカップ(韓国)優勝メンバーとなった。さらに輝く未来が待ち受けているかと思いきや、待っていたのは試練だった。彼は混じりっけのない笑みをこちらに向けて、こう言葉をつむぐ。
「正直、サッカー人生が思い描いたとおりになっていないのは確かです。レイソルで優勝を経験してクラブワールドカップに出て、海外でやってみたいと思って日本を飛び出したことに後悔などありません。いろんな経験ができているわけですから、こういう人生も面白いなって思いますよ。
ポジションもいろいろとやりましたけど、自分はやっぱりストライカー。100か0の世界にいて、その緊張感、ワクワク感はたまらない(笑)。点を決める、アシストする。テゲバジャーロ宮崎でもそこを期待されていることは分かっています。次の試合だけを考えて、無心でハードワークしていくだけ」
先が見えなくとも、未来を信じて「今」に取り組んできたからこそ工藤壮人は強く、タフになった。先は見えなくていい。先を考えなくていい。今を精いっぱい、やり切るだけだ。
