復活を告げる鮮やかなゴール。

 技術はブランクに左右されない。

 シュートに持っていくカタチはさすがだった。

 柏レイソル時代にはJ1制覇を果たすなどエースとして活躍し、日本代表で4キャップを持つ工藤壮人は昨年8月にオーストラリアのブリスベン・ロアーを退団して以降所属先がなかったものの、今年1月にJ3のテゲバジャーロ宮崎に加入。開幕2戦目となったホームでのギラヴァンツ北九州戦(3月20日)、前半6分だった。左サイド後方からのロングパスに抜け出すと、対峙するディフェンダーをフェイントで動きを止めてからゴール右隅に蹴り込んだ。駆け引き上手は相変わらずだ。

「相手がどういった守備をしてくるのか、そういったスカウティングの情報が頭に浮かびました。抜け出した段階で左に行くことをにおわせながら、右に持っていこう、と。流し込むのもイメージどおりでしたね」

 JでのゴールはJ2のレノファ山口時代以来2年半ぶり。復活の狼煙を上げる鮮やかな一発であった。

 紆余曲折を経て、再びJリーグの舞台に帰ってきた。

 MLSのバンクーバー・ホワイトキャップスではアゴを骨折する大ケガに見舞われ、帰国後はサンフレッチェ広島、そしてレンタル移籍で山口へと渡ったが、ストライカーとして思うようにゴールを積み上げられなかった。

 2019年シーズン限りで契約満了を告げられてしまう。新たなチャレンジに向かおうとしたが、なかなか次のオファーが届かない。ここから長い戦いが待っていようとは夢にも思わなかった。

 いつ声が掛かってもいいようにとコンディションを整えてきた。年が明けて、オーストリア2部のクラブから契約締結を前提とした練習参加の打診が舞い込んだ。

 欧州で自分の力を試したいとも考えていただけに、意気揚々とオーストリアに乗り込んだ。結果だけにこだわって、2つの練習試合で3ゴールを挙げた。しかし試合から1時間後、クラブの強化責任者から耳を疑うような通達を受ける。

「〝確かに結果は残したが、契約は見送る〟と言われたんです。コンディションを最終的に確認したいということだったので、僕も(見送る)理由を教えてほしいと言いました。そうしたら〝必要としているフォワードのタイプじゃなかった〟と。僕の映像を見ているはずだから、分かるでしょとは思いましたけどね」

 やるせなかった。と同時に、このままじゃ帰れないと思った。妻と1歳になったばかりの娘を日本に置いて次の働き場所を探しに来ているのだから、意地でも見つけたかった。その思いは一緒についてきてくれた代理人も同じだった。

 このときクラブとの仲介役に入ってくれたドイツ在住の知人の自宅に住み込み、3人で新たなクラブを探した。ドイツ4部、チェコ2部、ポーランド2部のクラブと次々にトライアルを受けたものの、色よい返答はもらえなかった。

「たとえばチェコ2部のチームは、自分の頭上をボールが飛び越えていくスタイルで、(足もとに)要求しても、ボールが出てこない。練習参加を受け入れてくれた以上、一生懸命にやりましたけど、現実は厳しいなって感じました」

 居候先の知人がうどん店とサッカースクールを手掛けていたことで工藤は「せめてもの恩返し」と店もスクールも手伝った。

 そのような折、欧州も新型コロナウイルスが急速に広がったため、各国リーグがストップ。チームを探せる状況ではなくなり、3月頭に帰国を余儀なくされた。

 コロナ禍に1年間の無所属。助けてくれたのは母校だった。

 日本に戻ってもJリーグは中断しており、緊急事態宣言下ではJクラブに練習参加をお願いすることもできない。「ボールを蹴る相手がいない」ため、自宅近くをただただ走るしかなかった。3カ月経ってJリーグが再開したとはいえ、やはり自分からはアクションを起こしづらい。ジムに通って体はつくってきたものの、これ以上実戦から遠ざかってしまうとピッチに戻れない不安がつきまとうようになる。

 関係者を通じて母校である日体大柏高校に「ダメもとで」練習参加をお願いした。すると快く受け入れてくれた。

「感謝しかないですね。サッカーができるってことがどれだけ幸せなことか。サッカー部自体、活動を中止していましたから、部員のみんなもちょうど一からコンディションづくりを始めたので、同じようにそこからやれたのが大きかった。

 学生のみんなも最初は遠慮がありましたけど、次第に僕のところに来て、いろいろと聞いてくるようになりました。フォワードなら〝クロスに入っていくときにどんなことをポイントに置いていますか?〟とか、ディフェンダーなら〝どんなディフェンダーが嫌ですか?〟とか。みんなギラギラしていて僕もフレッシュな気持ちになりましたし、プレーでも遠慮なくぶつかってくれたことがうれしかった」

 高校は自宅から自転車で10分。午前中に家の近くを走ってからジムでトレーニングを積み、一度自宅に戻ってから午後の練習時間に合わせて高校に通う日々が6月から11月の終わりまで約半年間続いた。

 所属先がないため収入はない。貯金を取り崩しながらの生活だった。妻に支えられ、もうすぐ2歳になる娘の笑顔に励まされ、オファーが舞い込むことを信じて日々、トレーニングに勤しんだ。

 それでも現実を目の当たりにしたときに、心が曇ってしまうこともあった。

 なぜ俺は今、高校生と一緒になってボールを蹴っているのだろう。こんなに体が動くのに、なぜプレー先がないのだろう。

「毎日いろんな感情がグルグルと回っていたというのが正直なところです」

 つい何年か前までJ屈指のストライカーとして知られていた自分が、まだ30歳なのに忘れ去られた存在になっているような気がした、

 悔しい。でも、どうしようもない。ほぼ1年〝無職〟が続いたことによって心が疲弊していたのも事実だった。

「家族がいるのに、いつまでも無収入でサッカーをやっているわけにはいきませんからね。年末までにオファーがなかったら、潔く引退しようと思っていました」

 12月が近づいても、吉報は届いてこない。

 引退という二文字が、チラついていた。

(後編に続く)