大河「麒麟がくる」 戦シーンを大胆にカットしたことで浮かび上がる人間模様に注目

『麒麟がくる』番組ホームページより

 日曜夜8時から放送されている大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)が、12月20日に放送された第37回「信長公と蘭奢待」で、一区切りとなった。

『麒麟がくる』第37回「信長公と蘭奢待」ダイジェスト

 織田信長(染谷将太)と訣別し、討伐の兵を挙げた足利義昭(滝藤賢一)の意をくみ、甲斐の武田信玄(石橋凌)、近江の浅井長政(金井浩人)、越前の朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)が上洛するかにみえたが、武田の軍勢は三河に進行した後、突如、兵を引き返す。

 浅井、朝倉の援軍も動かず、宇治の槇島城に陣を構えた義昭は孤立。城に攻め入った木下藤吉郎(佐々木蔵之介)に拘束される。

木下藤吉郎「ご覧あれ、明智殿。皆が武家の棟梁と崇め奉った将軍様がこのざまじゃ。これからは我らの世でござる。我らの」

 勝ち誇った秀吉と拘束され呆然とする義昭の姿をみつめる明智光秀(長谷川博己)。

 ここまでわずか5分弱。今までの膠着状態が嘘のようにあっさりと状況がひっくり返っていく。

 オープニングが流れた後、義昭と共に戦った三淵藤英(谷原章介)が投降。異母弟の細川藤孝(眞島秀和)が「義昭や幕府の内情」をひそかに信長に漏らしていたことを知った三淵は「いつから、裏切り者に成り果てた!?」と激怒する。

細川「私は気が付いただけです。まつりごと(政治)をおこなうには時の流れを見ることが肝要だと」

三淵「時の流れ?」

細川「この世には大きな時の流れがある。それを見誤れば、まつりごとはよどみ、滞り、腐る…」

三淵「それが公方様を見捨てた言い訳か!」

 信長と武田、浅井、朝倉の壮絶な戦いが描かれるかにみえた第37回だが、戦いはあっさりと終わる。

 2016年の大河ドラマ『真田丸』(NHK)以降、有名になった「ナレ死」(ナレーションで武将の死を報告することで劇中の描写を省略する)の応用だが、戦国時代を舞台にした(信長メインの)大河ドラマでは丁寧に描かれてきたエピソードを、こうも大胆に省略するのかと驚いた。

 特に影が薄いのが浅井長政。信長の妹・お市の方を妻としていながら信長を裏切った武将で、娘には、豊臣秀吉の側室となる茶々(のちの淀君)がいる。

 そのため、秀吉(木下藤吉郎)と信長の物語を語る上で、とても重要なエピソードだが、あえてここをカットすることで、この物語は秀吉ではなく光秀の物語なのだと強調しているように感じた。

 こういったエピソードを排除することで戦ジャンキーとでも言うような秀吉の非人間性が際立っている。

理想主義者の敗北

 負けてなお、信長討伐の書状を書き続ける義昭に、理想に共鳴し、資金面から支援していた駒(門脇麦)は、「将軍をお辞め下さい」と忠告する。

 民のことを第一に考えてまつりごとの世界に足を踏み入れた義昭だが、やることなすことうまくいかない。ついには「戦を終わらせるには戦をするしかない」という本末転倒な状態となってしまい、今は諸国の大名に書状を書くことしかできない。

 ここまで、義昭が無力に信長に破れ去る様子を描きながら、哀れみに満ちた優しい場面だ。崇高な理想を成し遂げるために旗を掲げながら、後に誰も続かず、あっさりと鎮圧されてしまう義昭の姿は滑稽だが、こういった挫折は人生において誰もが経験することだ。

 おそらく年配の方ほど、義昭の敗北に自分の苦い経験を重ねてしまうのではないかと思う。

 そんな理想主義者の優しい義昭と最後に訣別した光秀の気持ちも、裏切った細川藤孝の気持ちも、主君に最後まで付いていこうとした三淵藤英の気持ちも、痛いほどよくわかる。

 義昭は世の中を良くしたいと思っていたが、有能な将軍ではなかった。

 そんな義昭に肩入れした駒もそれは同様で、「理想が現実に敗北していく様」を『麒麟がくる』は毎回、丁寧に描いている。

 この時、義昭が殺されなかったことだけが唯一の救いだ。

 義昭を制圧した信長は、将軍に変わり改元を言上する。朝廷から5つの改元案をもらい、元号を天正(てんしょう)に改める。

 その後、徳川側の忍者・菊丸(岡村隆史)の報告で、信玄が命を落としたと噂されていることを知った光秀は、信長に報告。信長は、後ろ盾を失った浅井・朝倉を一気に攻め滅ぼす。

意外と不自由だった戦国時代

 いくらでも見せ場が作れそうな武田信玄、浅井長政、朝倉義景とのいくさの場面を大胆にカットしたことに驚かされた第37回。

 全44回という普段より短い話数ゆえの省略とも考えられるが、今まで積み上げてきた物語の流れを考えると、本作にとって重要なのは“そこではない”ということだろう。

 まつりごとにおいて大事なのは、前段階の根回しであり、いくさがはじまった時には結論は出ている。これは、三谷幸喜脚本の『真田丸』(NHK)でも繰り返された描き方だ。戦国時代に限らず、政治的駆け引きとはそういうものなのだろう。

 『麒麟がくる』が面白いのは、新興勢力が守旧派を打ち破り、どんどん成り上がっていく自由な時代を謳歌しているようにみえる戦国武将ですら、幕府の貴族や朝廷が決めたルールに縛られているという政治力学を繰り返し描いていることだろう。

 そもそも、光秀が上洛したのも13代将軍の足利義輝(向井理)の勅命があったからで、信長が上洛したのも義昭を守るという名目があったからだ。

 そして信長に脅威感じた義昭は、今度は信玄たちを上洛させることで信長を倒そうとする。つまり外様の武士は、将軍のお墨付きがないと上洛できない。

 弱肉強食の乱世を生きているようにみえた戦国武将たちも、好き勝手に暴れまわっていたわけではなく、上洛するには(仮に建前だとしても)幕府の要請が必要だったのだと、本作を見ていると思い知らされる。

 そして、足利という武家に幕府を開くことを許していたのは、帝を頂点とする朝廷である。

 朝廷(貴族と帝)と幕府(征夷大将軍の認定を受けた武士)と信長たち外様の大名の権力争いが、ピラミッド構造になっていることが『麒麟がくる』で描かれる戦国時代の本質だ。

 平安時代まで政治を取り仕切る中心にいたのは帝や貴族の率いる朝廷だった。しかし、武士たちが力を持つようになると朝廷は力を失い、まつりごとは武士がおこなうことになった。

 だが不思議なことに、武士を征夷大将軍に任命し「幕府を開く権利」を与えるのは、朝廷の仕事だった。

 武力はなかったが「年号の制定」と「官位」の授与。そして朝廷の敵(朝敵)を名指しすることで、官軍に錦の御旗という戦いの正当性を与えることは、常に朝廷の役割だった。

 武力を持たないため、義昭は敗れた。しかし武力があっても大名たちは独自に上洛することはできず、京を攻め、朝廷を滅ぼすことはできなかった。

 「比叡山焼き討ち」を容赦なくやってのけた信長は、神仏を恐れぬ合理主義者だと言われている。しかし『麒麟がくる』の信長は、幕府と敵対する形で朝廷に接近し、父のように正親町天皇(坂東玉三郎)を慕っている。

 過去作で描かれてきた信長なら、帝の権力を勢力拡大のために利用していたという描き方になったと思うのだが、今作の信長は、本気で帝を崇拝し「自分のことを認めてもらいたがっている」ようにみえる。

 それがよく表れているのが蘭奢待(らんじゃたい)を報酬として帝に求める姿だろう。

 蘭奢待は東大寺の正倉院に収蔵されている香木で「代々続く世の中で大きな事を成し遂げたもの」しか見ることがかなわないものだと語られる。信長は帝の許しを得て、蘭奢待を切り取って手元に置くことを実現する。

 なぜ、信長は蘭奢待を求めるのか? と光秀と今井宗久(陣内孝則)は語り合うのだが、110年前に足利義政が切り取りを行ったことを踏まえると、自らの力を歴代将軍と匹敵するものだと世の中に誇示するためだと、普通は考えるだろう。

 しかし、驚くのはその後の行為だ。

 信長は切り取った蘭奢待を更に切り分けて、帝(正親町天皇)に献上する。「ちんが喜ぶと思うたのであろうか? 信長は…」と帝は困惑し、大納言・三条西実澄(石橋蓮司)は、「恐れ多いことにござりまする」と動揺する。

 おそらく帝は、“自分は帝と肩を並べる立場だ”という、信長の挑発と受け止めたのだろう。しかし、今までの行動をみていると、恋人にハートのペアネックレスを送る感覚で、蘭奢待を贈ったようにしかみえないのが、信長の幼児性である。

 一方、帝は関白になりたいと所望している毛利輝元に信長から贈られた蘭奢待を贈れと言う。

 毛利と信長は敵対関係にあるため、そんなことをしたら大変なことになると言って、三条西は止めようするが「それはちんのあずかり知らぬこと」と他人事のように語る帝。

 やはり、一番恐ろしいのは帝なのかもしれない。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】