大河「麒麟がくる」で描かれる「暗鬱」 コロナ禍での本作は何を見せようとしているのか

大河ドラマ『麒麟がくる』ホームページより

なぜ光秀なのか?

『麒麟がくる』(NHK)は、明智十兵衛光秀(長谷川博己)を主人公にした大河ドラマだ。

 戦国時代という、もっともポピュラーな時代を舞台に選んだ本作は、織田信長(染谷将太)、斎藤道三(本木雅弘)、徳川家康(風間俊介)、武田信玄(石橋凌)といった有名な武将が多数登場し 、「桶狭間の戦い」や「比叡山焼き討ち」といった 、歴史が好きな日本人にとっては馴染みのあるエピソードが順番に展開される。

 その意味でも大河ドラマの王道と言える物語だ。しかし、王道でありながら今まで放送されてきた戦国大河と手触りがどこか違うのは、信長や後に豊臣秀吉となる木下藤吉郎(佐々木蔵之介)といった人気の武将ではなく、信長を裏切った謀反人として知られている光秀が主人公だからだ。

 明智光秀は謎に満ちた人物で生年月日も諸説あり定かではない。

 本作の光秀(劇中では十兵衛と呼ばれる)は、諸国を放浪する青年期を経て、美濃へと帰還するが、国が二つに割れ、主君の道三が息子の斎藤義龍(伊藤英明)に討たれたことで国を追われる。

 それから時が流れて永禄七年、越前で暮らす光秀は牢人となり、子どもたち に読み書きを教えていたが、室町幕府第13代将軍・足利義輝(向井理)に呼び出され、上洛する。

 青年期を牢人として過ごした光秀は遅咲きの武将で、仕える主君がコロコロと変わる。

 信長の元で出世していく秀吉が昭和の熱血サラリーマンだとしたら、光秀はバブル崩壊以降、正社員になれずに職を転々とするフリーターや派遣社員だろう。

 その意味でとても現代的な武将で、なるほど非正規雇用労働者が38.3%(令和元年、厚生労働省ホームページ『「非正規雇用」の現状と課題 PDF』より)を占める現在は、光秀の時代なのだなと思えてくる。

 つまり本作は悪役(ヒール)の光秀から見た戦国大河となっているのだが、光秀の視点から添え直すことで、今までとは違う戦国時代の風景が見えてくる。

“不気味な子ども”としての信長

 中でも大きく違うのが信長の描かれ方だろう。

 若い時は“うつけ”と思われていたが、実は戦の天才で、旧来の武士とは違う大胆な発想で戦国時代の表舞台に躍り出た信長は、神仏を恐れぬ合理主義者として戦国の世を終わらせようとした(が志半ばで退場した)乱世の英雄として描かれることが多い。

 そんな信長を筆頭とする戦国武将の姿に、自分たち達の姿を重ねていたのが、昭和のサラリーマンだった。だからこそ1973年の『国盗り物語』(NHK)を筆頭とする戦国大河では、信長たち戦国武将は夢を語る男らしい存在として描かれてきた。

 しかし、本作で描かれる信長は今までとは印象が違う。光秀が非正規雇用のフリーターなら、信長は00年代のホリエモンのような、ITベンチャー企業の若手社長といった存在だ。

 それだけに公家や将軍家といった古い時代の権力者からは恐れられているのだが、だからといって信長を全肯定していないのが本作の面白さだろう。

 染谷将太の怪演もあってか、本作の信長は、常に情緒不安定で何を考えているかわからない不気味な子どもといった佇まい。幼少期に両親に愛されなかったがゆえ に、常に父と母を求めているという承認欲求の塊として描かれており、その描き方は『国盗り物語』等で描かれた信長とは全く違う。

 放送中断となる第21回「決戦!桶狭間」までの信長は、妻の帰蝶(川口春奈)に母親を求め、帰蝶もまた母として振る舞うことで信長を守り盛 り立てていた。

前半部の面白さは、この信長と帰蝶の関係に詰まっていたと言えるだろう。

 映画『バクマン。』や連続テレビ小説『なつぞら』(NHK)で天才作家を演じた染谷将太の怪演は信長でも強く反映されており、今まで彼が演じた役の総決算とでもいうような怪演である。

母として振る舞う帰蝶

 一方、帰蝶を演じた川口春奈も素晴らしかった。元々、この役は沢尻エリカが演じる予定だったが、彼女が薬物事件を起こして降板した影響で、急遽、川口がは 抜擢された。そのため当初は不安要素が多かったのだが、川口が持っている年相応の普通のお嬢さん(ただし気は強い)に見える(女優としての)いい意味での色の無さが良い方向に働いた。見ていて面白かったのは、信長の奇行に触れた時の帰蝶の表情。

 「コイツ、気持ち悪い」と心の底では思っていながら、コイツがちゃんとしてないと自分の身が危ないから、何とかしないといけないと思い、あえて優しい母として振る舞う(うちに愛情のようなものが芽生える)という、若いお嬢さんが(様々な葛藤を抑え込んで)無理して気丈に振る舞っている雰囲気がにじみ出ていた。

 沢尻が演じる帰蝶も見たかったという思いは今でもあるが、おそらくそれは、川口の帰蝶とはまったく違ったものとなっていただろう。

 また、帰蝶の存在が重要だったのは、現代を生きる我々視聴者の視点を共有できる数少ないキャラクターだったからだ。おそらくこれも川口春奈 が演じたことで生まれた予想外の効果だろう。

 帰蝶と光秀が現代人の視点を代表するカメラとなって、物語の中を右往左往するからこそ、信長を筆頭とする戦国時代の価値観を生きる武将や公家の異様さが際立ったのだ。

父を求める男たち

 戦国時代を描いた大河ドラマの面白さは、乱世の時代ならではのギラギラとしたエネルギーが感じられることだ。だが、令和を生きる私たち達は、信長や秀吉といった猛者に自分を重ねることは難しい。

 乱世に対する印象も、何か新しいことが始まるという「黎明期の混沌」ではなく、いつまで経っても混乱がおさまらずにひたすら疲弊していく徒労の日々だ。だからこそ、平和な世に現れるという“麒麟”が求められている。

 無論、この麒麟とは乱世を終わらせる英雄のことでもある。

 本作は光秀が“麒麟”に相応しい英雄を求めて彷徨う“麒麟探し”の物語だ。英雄とは「強い父」と言い変えることも可能かもしれない。

 序盤で描かれた美濃の斎藤道三と義龍の戦いからも明らかなように、 本作は父と息子の物語でもあり、強い父を求める息子が、いつしか父といがみ合い殺してしまうという物語を反復している。

 特に信長は、父に愛されなかった欠落を埋めることが行動原理となっており、やがて帝に父の姿を見出す。

光秀と対話する場面も、どこか父に甘える息子のようで光秀に父性を求めているように見える。だからこそ信長は、光秀に自分の意見を否定されても、自分の側に置こうとするのだろう。そして光秀も斎藤道三、足利義輝といった主が麒麟をもたらすものだと信じるのだが、その期待は次々と裏切られていく。

第36回「訣別」

 [麒麟がくる] 第36回 まとめ | 訣別(けつべつ) | 5分ダイジェスト | NHK

 中でも痛ましいのが公方様こと、足利義昭(滝藤賢一)の変化だ。

 僧侶の立場から将軍になった義昭は皆が豊かになれる世の中を作ろうと考える平和主義者だったが、勢力を増していく信長が、武家をないがしろにして帝に接近する姿を見みる 内に疑心暗鬼に囚われる。

 やがて松永久秀(吉田鋼太郎)が信長を裏切るように謀り、浅井長政(金井浩人)、朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)、武田信玄(石橋凌) とと手を組むことで、信長を追い落とそうと考える。

 比叡山の焼き討ちでは信長に不信を抱き、義昭の側にシンパシーを抱いていた光秀だったが、信長と戦えと言われて激高し義昭と訣別することになる。

光秀「公方様、今一度、今一度、お考えを!」

義昭「決めたのじゃ。わしは…信玄と共に戦う! 信長から離れろ。…わしのために。…そうしてくれ」

光秀「公方様……。それはできませぬ」

義昭「十兵衛…」

光秀「御免!」

 泣きながら、その場を後にする光秀。「追うな!」と言ったあと「十兵衛は鳥じゃ。籠から出た鳥じゃ。また…飛んで戻ってくるやもしれん」と義昭は言う。

 泣いて感情をあらわにする光秀と、達観したような表情を見せる義昭のコントラストが際立った名シーンだ。

 権力に囚われ、かつての優しさを失った義昭に思えった が、ことはそう単純なものではない。

 政治の力学によって義昭も仕方なく行動している(そうでないと殺される)のだとよくわかる。それは信長にしても同様で、むしろ両者の間をフラフラと(それこそ鳥のように)自由に行き来して理想を並べ立てる光秀の甘さと弱さ、そして、それゆえ故の優しさが描かれていたと言えよう。

暗鬱とした政治劇がコロナ禍の現在と重なる。

 激しい合戦も描かれ、動的でにぎやかだった前半に比べると、放送再開 以降の物語は動きの少ない密室劇が中心で、表向きは華やかだが、裏では腹の探り合いと謀略、暗殺が蔓延り、それぞれが疑心暗鬼となって神経をすり減らしていく様が延々と描かれる。

 京都に舞台が移った22話以降の展開は、見ていて気持ちの良いものではなく、毎話見終わる度に暗澹とした気持ちになる。これはコロナ禍の日本におけるグダグダの政治状況とどこか重なって見えるからだろう。

 今年の夏に放送されて大ヒットしたドラマ『半沢直樹』(TBS系)を見観た 時も思ったのだが、それぞれがお互いの保身と支持団体の利益ばかりを考えて振る舞う中で国全体の動きが停滞し、そのしわ寄せを庶民がかぶることになるという構造がドラマの中で描かれると。 妙なリアリティを感じてしまう。

 何度も戦国大河で描かれてきた比叡山の焼き討ちも、比叡山の僧侶たちの腐敗があらかじめ執拗に描かれており、この文脈なら納得できるという形だった。だが、腐敗構造にメスを入れようとすれば、最初に犠牲となるのは一般庶民や社会的弱者であるという現実も本作は同時に描いている。だから新興勢力の信長にも共感できない。

 新興勢力にも既得権益にしがみつく保守層にも共感できないのが『麒麟がくる』の面白さだが、古いものも新しいものも信じられないという宙吊り感覚こそ、令和の我々が思い抱いている気分である。

これからクライマックスへと向かう中、本作は何を見せようとしているのか? 

麒麟はまだ現れない。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】