『逃げるは恥だが役に立つ』論(後編)『逃げ恥』が描く「男らしさ」の罠と、星野源について

星野源 『逃げ恥』舞台挨拶の写真(写真:MANTAN/アフロ)

『逃げるは恥だが役に立つ』論(後編) 『逃げ恥』が描く男らしさの罠と星野源について

言及作品(ネタバレあり)

漫画・ドラマ 逃げるは恥だが役に立つ

アニメ 新世紀エヴァンゲリオン アナと雪の女王

映画 図書館戦争シリーズ アイアムアヒーロー シン・ゴジラ

ドラマ モテキ 踊る大捜査線 真田丸

本稿はテレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(以下『逃げ恥』)論の後編である。

前編では『逃げ恥』の脚本家・野木亜紀子の仕事を振り返ることで、彼女がどのように原作漫画をドラマに置き換えたかについて考察した。 

前編はこちら

後編では『逃げ恥』で引用されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、『エヴァ』)の影響がテレビドラマにどのように引き継がれてきたかについて考察すると同時に、津崎平匡へと至る童貞男性を主人公とした恋愛ドラマの系譜をたどり『逃げ恥』が何をなし得たのかについて考察する。

そして最後に、平匡を演じる星野源が現在どういう存在なのかと、エンディングテーマ「恋」が何を歌っているのかを、90年代に同じような位置にいた小沢健二と比較しながら考えようと思う。

はっきり言って、この論考はラブコメとしての『逃げ恥』を素直に楽しんでいる人にとっては意味のないものだ。

文字数も9500字以上と長いため、余計な考察は読みたくないという方は、今すぐ読むのをやめて、忘年会で踊る「恋ダンス」の練習でもすることをおススメする。

逆に『逃げ恥』を楽しみながらも、その水面下に何か簡単に処理できない複雑な現代性を感じとっている方にとっては

多少の手助けとなるものになればと考えている。

『エヴァ』が描いた二つの挫折

津崎平匡のようなコミュニケーションが苦手で恋愛ができない自意識過剰な男が登場する恋愛ドラマは、00年代後半以降の流行で『電車男』(フジテレビ系)、『モテキ』(テレビ東京系)、近年では『最高の離婚』や『デート~恋とはどんなものかしら~』(ともにフジテレビ系)など、恋愛ドラマでは定番化している。

女性経験のない男性が周囲の人間に叱咤激励されながら、恋愛を経験することで大人に成長するというのが大筋の特徴だが、それらの作品に登場する自意識過剰な男の子のルーツをたどる時に1995年に放送された『エヴァ』の主人公・碇シンジに辿り着くというのはある種の必然だろう。

碇シンジは、父親が総司令を務める人類を守る組織・特務機関ネルフの本部に呼ばれて、巨大ロボット(人造人間エヴァンゲリオン初号機)を操縦して、使徒と呼ばれる怪物と戦うことになる。導入部はロボットアニメによくある設定だ。しかし、物語は途中から混迷を極め、父親とネルフが本当に正しいことをしているのかわからなくなっていき、やがてシンジは戦う意味がわからなくなり、心を閉ざしてしまう。

細かいあらすじは割愛するが、結論を言うと、碇シンジはエヴァのパイロットとして世界平和のために戦うという仕事面においてと、ヒロインたちとの恋愛面において挫折する。

テレビドラマへの影響 その1 ポリティカルフィクションへの欲望

今考えると『エヴァ』は二つの欲望を刺激すると同時にそれを露悪的に否定するという奇妙な娯楽作品だった。

では『エヴァ』が刺激する欲望とは何か?

一つはポリティカルフィクションの欲望だ。

『エヴァ』は正義の味方が悪の組織と戦うといった単純なものではなく、作中の政治的背景を踏まえた上でリアルな組織の描写が高い評価を得ていた。こういったポリティカルフィクションはアニメ『機動警察パトレイバー』シリーズや『平成ガメラ』シリーズと呼ばれる怪獣映画で脚本家の伊藤和典が開拓していった要素で、怪獣や巨大ロボットが実在するならば、政治やマスメディアはどのように反応するかを丁寧に見せることで、フィクションの強度を上げていった。

テレビドラマにおいては所轄と警視庁の対立関係を軸にして公務員としての警察機構を描いた『踊る大捜査線』(フジテレビ系)以降の刑事ドラマに持ち込まれた。

一方で、『エヴァ』における組織の描写は複雑怪奇で、終盤になるとオカルティックな陰謀論にどんどん傾斜していく。そういった得体のしれない警察組織の描写は『ケイゾク』(TBS系)以降のオカルトテイストの刑事ドラマに流れていく。

『エヴァ』の監督だった庵野秀明が総監督を務めて今年大ヒットした『シン・ゴジラ』は、この流れの最新版にあたる作品だ。『踊る~』等の刑事ドラマを見ていた立場からすると、『エヴァ』に影響を受けた刑事ドラマを庵野秀明が再び咀嚼して自分のものにしたように見える。

野木亜紀子が脚本で参加している映画『図書館戦争』シリーズや航空自衛隊を取材する女性テレビディレクターを主人公にした『空飛ぶ広報室』(TBS系)といった有川浩原作の一連のミリタリーモノも上記のポリティカルフィクションの要素が含まれる作品だ。

これらの作品は、自衛隊や警察といった特殊な組織を描くことで、濃密な絆を持つ合理的な組織をチームとして描けることが魅力となっている。逆にいうとそういった濃密なチームは、もはや普通の会社では描けなくなってきていると言えよう。

1991年のバブル崩壊以降、年功序列、終身雇用といった旧来からある昭和的な会社組織が失われていき、雇用の流動化とグローバリズムの浸透によって、非正規雇用の社員が増えている。『逃げ恥』の森山みくり(新垣結衣)も大学院を卒業しても職がなく派遣社員として働いていたところリストラされ、平匡も会社の業績が悪化したためにリストラの対象となってしまう。

つまり前提としてあるのは流動化した労働環境によって会社共同体が機能不全を起こしているという現実だ。

そもそも夫が働き、妻が専業主婦として子どもを育てるという核家族の有り方自体が転勤が多く年功序列・終身雇用制度がベースとなっていた日本型の会社組織の在り方と連動していた側面が強い。逆に農作業をベースにした労働環境ならば、祖父母と同居して子どもが多い大型家族が主流で、つまりその時代時代における労働環境が家族形態を規定してきたのだと言える。

『逃げ恥』の夫婦を雇用主と従業員に見立てて、家庭内労働に対して対価を支払うという思考実験が面白く見えるのは、グローバル化に伴い流動化している労働環境に核家族制度自体が適応不全を起こしている中で、今の時代にあった夫婦の有り方を模索しているからだ。その意味で劇中で語られる「システムの再構築」とはみくりと平匡の関係だけでなく、今の社会における結婚制度の見直しという側面も大きいのだろう。

テレビドラマへの影響 その2 成長物語を失った王子様たちの困難

もう一つのテレビドラマへの影響は碇シンジに代表される自意識過剰な少年が女性と付き合うことで成長していくという男の子の成長物語のひな形を作ったことだ。

テレビドラマではオタク男性の成長物語を展開した『電車男』がその筆頭だが、一方で注目したいのは、そんな内向的な男の子の隣に配置されるリア充キャラだ。

つまり『エヴァ』で言うと、他者を拒絶して心を閉ざす碇シンジ直系の自意識過剰な引きこもりキャラと、万人に好かれる渚カヲル的なリア充キャラにエヴァ以降、男の子のキャラクターが二分化していくのだが、これは『逃げ恥』で言うと津崎平匡と風見涼太である。この二人は言わば男の子の中にある楯の両面で、一見正反対に見えるが根底にある問題は実は同じである。

※渚カヲル 『エヴァ』の登場するキャラクターで、物語終盤で孤立した碇シンジの元に現れる謎の少年。正体は人類の敵である使徒なのだが、シンジに対しては最後まで優しい王子様的な存在。誰からも好かれる爽やかな佇まいに対して、本稿ではリア充イケメンキャラと定義している。

リア充キャラの多くはアイドルや若手俳優を起用した『花より男子』(TBS系)等のイケメンドラマや『アオハライド』等の女子高生をターゲットにした少女漫画原作のJK映画に登場する王子様的存在として描かれている。 

筆頭は、テレビドラマ『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)の桐谷修二(亀梨和也)だろう。コミュニケーションスキルが高く、見た目がカッコいいので友達も彼女もたくさんいるのだが、それは本当の自分を偽った仮面を被った姿だと本人は思っており、容姿や能力だけで判断されることに対して、心の奥底では深く傷つき、誰にも心を開けないで絶望している。

こういったリア充キャラ的振る舞いは、男らしく生きるという成長物語を失った男の子たちが現実に適応する際に身に着けた全方位的な処世術で、SMAP以降のジャニーズアイドルやイケメン俳優の振る舞いがそれにあたる。

言うなれば、『エヴァ』以降、引きこもりの童貞とリア充のイケメンの二極化が起きたのだが、実はどちらも根底にあるのは、日本的な共同体が崩壊した後の世界で、生きる困難に対する男の子の二つの適応パターンだと言える。

この二極化は国外でも起きている。例えばディズニー映画の『アナと雪の女王』に登場する山に籠ってトナカイと暮らしているクリストフと王子様のハンスの対比にそれは現れている。

本作はアナとエルザというお姫様の姉妹が王子様の助けを借りるのではなく、自分らしく生きることで成長していく姿を描いたことが高く評価された作品だが、筆者が見ていて気になったのは、自分を解放して自由に生きるヒロインたちの一方で、ある種、置いてけぼりとなる二人の男たちの顛末だった。お姫様が役割から解放されて自由に飛びたっていく時、王国のために生きようとして梯子を外された王子様たちはどこに向かえばいいのだろうか? 

※もちろんこの二分化には例外もある。たとえば、00年代に宮藤官九郎が『池袋ウエストゲートパーク』や『木更津キャッツアイ』(ともにTBS系)で描いた地元に根ざしたコミュニティで昔からの男同士で大人になってもつるんでいるマイルドヤンキーの共同体。最近の作品ではEXILE TRIBEが総出演している『HiGH&LOW』シリーズで描かれている山王連合会などのギャングチームがこれにあたる。『逃げ恥』で言えばやっさん(真野恵里菜)や商店街の男たちがこのコミュニティに属している。その意味で、みくりが商店街のコンサルトになる終盤の展開は作品に広がりを与えている。

童貞にやさしい『逃げ恥』

『逃げ恥』第4話のみくりの回想が面白かったのは、『エヴァ』のパロディを通して描かれた大学時代のトラウマが彼氏のシンジの情けなさを責めるのではなく、助言をしたことで彼氏を追い詰めてしまったというみくりの失敗体験だったことだ。

これは『エヴァ』で言えばシンジの上官の葛城ミサトの視点なのだが、自尊心の低い平匡を追い込んでしまった自分を責めるみくりを見ていると、今までの童貞モノの恋愛ドラマとは違う優しさがあるなぁ、と感心した。

童貞恋愛モノにありがちな「男らしくしろ」と脇のキャラクターが童貞主人公を叱咤激励する場面がほとんどないのも『逃げ恥』の新しいところだ。

『電車男』以降の童貞男性が主人公のドラマは、主人公が叱咤激励されながら、オシャレな服装やコミュニケーションスキルを身に着けていく姿を面白おかしく見せてきた。この手のモテない男性の成長物語としての恋愛ドラマの決定打となったのが久保ミツロウ原作・大根仁演出の『モテキ』(テレビ東京系)だろう。

ちなみに平匡を演じる星野源が、『モテキ』の主人公・藤本幸世のモデルだというのは有名な話だ。

自意識過剰でモテない男性に突然モテ期が訪れて、次々と女性と付き合うようになる話かと思いきや、幸世は自意識過剰な内面の裏返しとしての無神経な振る舞いが災いしてか失敗を繰り返す。そんな幸世の姿は痛々しく、作り手にとっては身を削るような切実な作品だというのは理解しつつも、「そこまで未熟な青年を責めなくても」と、当時から疑問に思っていた。

幸世のような童貞をこじらせた男の自意識がめんどくさいことになっていることは確かなのだが、そこでむやみやたらと叱咤激励しても、彼らが変わるとはとても思えなかった。

何というか、援助交際をする女子高生を叱るおじさんの説教のようで、情けない男の子に自分たちの苛立ちをぶつけてサンドバックにしてストレス解消をすること自体が目的化しているように感じた。

残念ながら『逃げ恥』も、平匡の振る舞いに対して「これだから童貞は」と半笑いでツッコミを入れている感想は多い。

そういった意見を見ると、作り手の志の高さは必ずしも理解されていないのだなぁと思ってしまう。

面白いのは『モテキ』以降、監督の大根仁は漫画業界を舞台した映画『バクマン。』、久保ミツロウはフィギュアスケートを舞台としたアニメ『ユーリ!!! on ICE』のような正統派の男の子の成長物語に挑戦しており主人公たちを見守る大人たちが優しく理想的に導かれていることだ。

これは、現在アニメ版が放送中の羽海野チカの将棋漫画『3月のライオン』にも感じることだが、男から見るとドロドロとした醜い自意識の象徴とも言える童貞性を“かわいいもの”として捉え直すことで美徳として読みかえていこうという流れが女性作家の間にあるのかもしれない。正直言うと、こういった、かわいいものとして処理してしまう視線に対しては違和感はあり、何か大事なことが抜け落ちている気がしないでもないのだが、たとえ誤解だとしても、世の中が、へタレの男の子に対して優しくなってきたのは悪くはないと思う。

男としての情けなさを理性的な強さに読み替えた『アイアムアヒーロー』

ここまで書いてきたように、『エヴァ』で描かれた共同体の崩壊と恋愛できない男たちの困難が、『モテキ』等の恋愛ドラマを経て、やがて『逃げ恥』に集約するのだが、この間に参照作品を一作置くとすれば、野木亜紀子が脚本を書いた映画版『アイアムアヒーロー』だろう。

花沢健吾の同名漫画を佐藤信介が映画化した本作は、30代後半の売れない漫画家の鈴木英雄(大泉洋)が、ある日突然、パンデミックによって死者(ZQN)が徘徊して人を襲うようになった世界で、猟銃を片手に生き残るためにサバイバルする作品だ。

佐藤信介監督が『図書館戦争』シリーズ培ってきたアクション描写は、より激しく進化しており、韓国で撮影されたショッピングモールでの激しい戦闘は目を見張るものがあり『シン・ゴジラ』に匹敵する邦画の問題作となっている。それと同時に『シン・ゴジラ』で庵野秀明が切り捨てた男の子の鬱屈した自意識の問題を、肯定的な形で回収していると言える。

漫画の序盤にあった冴えない中年男性のルサンチマンは他のキャラクターに分散され、崩壊した世界をさまよいながらも、秩序が崩壊する前の世界での常識を守ろうとする姿は「情けなさ」ではなく、世界がおかしくなっても理性的に振る舞うことができる「強さ」として肯定的に描かれている。

もちろん、こういった要素は原作漫画にも内在していたものなのだが、原作の美点を抽出した結果、社会的には「男として情けない」と言われるような英雄のへタレ性を、力に酔わずにどんな時でも理性的に振る舞うことができる強さとして再解釈しているのだ。

その姿は自尊感情が低いが、その劣等感を他人に押し付けたりしない、いい意味で自己完結している平匡の姿と重なってみえる。

本作の危機は二重構造になっている。

それはZQNと化して人間を襲う死者たちの脅威と、崩壊した世界に適応するために、暴力性を露わにして生き残った人間たちを力で支配しようとする男たちの脅威だ。男たちの多くは崩壊以前の世界では鈴木英雄同様、精神的に虐げられており、いわゆる「男らしさ」から疎外されていた非モテの人々だ。

筆者は本作を劇場公開ではなくレンタルで見たのだが、丁度、アメリカ大統領選挙でドナルド・トランプが当選した時期に見たので、崩壊後の世界で暴力的に振る舞おうとする男たちが、トランプを支持したアメリカ南部の中年白人男性と重なって見えた。

グローバリズムの影響で地場産業が崩壊し、アメリカ人としての尊厳が失われつつあることに苛立ちを感じている男たちの姿は、アメリカ特有のものではない。例えば、EUから脱退を支持したイギリス人もそうだし、日本では非正規雇用の若者やモテない童貞男性が抱える鬱屈と近いものがあるのではないかと思う。

『ルサンチマン』や『ボーイズオンザラン』といった花沢健吾の漫画が描いていたのは、アメリカで言えばトランプを支持するような白人男性の抱える鬱屈と失われた「男らしさ」を回復したいという渇望が空回りする姿だ。

それをゾンビモノの枠組みに落とし込んだのが『アイアムアヒーロー』だが、花沢が格闘してきた男の鬱屈した自意識が映画版では面白い形に読み替えられている。

それが一番現れているのが、銃の描かれ方だろう。

他の人間が権力の象徴として英雄の猟銃を奪おうとして暴走していくのだが、英雄にとっては、正常でいるためのお守りのようなものとして機能している。逆説的な言い方だが銃を持つ自分が暴力的な存在だという自覚があるからこそ、内なる暴力性を理性的にコントロールする強い自我を持たないといけないという意識が感じられる。

社会的には男性の欠点と見られることを美点として読み替えていく姿勢は『逃げ恥』でも同様だ。平匡の自己完結した引きこもり的な内面も、自分のエゴを押し付けずに相手の気持ちを考えて尊重することができる美徳でもあると描かれており、他者と関わる際に人が無自覚に押し付けてしまう偏見の暴力性をいかに解除するかということに細心の注意が払われている。

「男らしさの罠」にハマった平匡さん

これが逆説的に描かれたのが『逃げ恥』の第10話だろう。みくりと結ばれて、脱童貞を果たした平匡は、既存の物語ならば通過儀式を果たして大人へと成長したことになるのだが、そうは問屋が卸さないのが『逃げ恥』の恐ろしいところだ。

ある種の男らしさを持ってみくりをリードしようとして、契約関係を解消してみくりと結婚しようとするのだが、「それは好きの搾取です」と否定されてしまう。

脱童貞を果たした高揚感で調子に乗ってしまったことが原因で逆に女性から引かれてしまうという展開は宮藤官九郎の『マンハッタンラブストーリー』(TBS系)などですでに描いていたもので、それ自体は目新しいものとは思わない。

しかし、童貞の時は持ち合わせていた相手を思いやることができるという美点が、脱童貞を果たすことによって見えなくなってしまったという展開は興味深い。一般的には性行為を経験することで大人に成長したと描きがちだが、むしろ自分が男らしく成長したという思いこみこそが見えなくなくしているものがあるということがここでは、描かれているのだ。

同時に脚本が巧みだと思うのは、ここに至る経緯が、単に平匡の性体験の有無だけではなく、社会背景の後押しがしっかりと描かれていることだ。

平匡が契約を解消して籍を入れようと言い出したのは、会社からリストラを言い渡されたからだ。平匡がリストラ候補となったのは、みくりと平匡が事実婚の契約夫婦だったからで、もしもちゃんと籍を入れた夫婦だったら、辞めなくても済んだのではないかと合理的に判断したのだろう。

この場面を見ていると。みくりと平匡の籍を入れていない事実婚という関係が会社からどういう風に見られているのかがよくわかる。

コミカルに描かれているが、本作が描いていることは社会の内側に自分たちだけの法律で運営する最小単位の国家を作り出すようなアナーキーな話だったんだなぁと改めて思った。

前編で野木亜紀子のデビュー作『さよならロビンソンクルーソー』(フジテレビ系)について『逃げ恥』を裏側から描いたような作品だと評したが、最終話手前で本作が「好きの搾取」という言葉に辿り着いたのは、ある種の必然だと感じた。

基本的に明るいラブコメなので、バッドエンドということはないかと思うが、みくりと平匡が別れるのでも、好き同士であることに甘えるのでもなく、お互いを尊重した上でシステムの再構築をして、理想の関係性を模索し続けるような終わり方になってほしい。

星野源と小沢健二 「恋」と「LIFE」

『逃げ恥』本編に関しては以上だが、最後に平匡を演じる星野源とエンディングテーマ「恋」について考察したい。

動画が拡散されたことで、多くの人が真似している「恋ダンス」だが、これはみくりが劇中でバラエティ番組やアニメのヒロインであることを妄想する場面と同じ妄想ミュージカルの場面だとプロデューサーは語っている。

みくりの妄想シーンについてはずっと考えていたのだが、ドラマ内では楽しく描かれているが、『情熱大陸』や『徹子の部屋』といった有名人がゲストとして出演する場所に派遣社員という肩書で出演する場面を妄想する姿は、逆に現在のみくりが社会における自分のちっぽけな立場についてコンプレックスを持っているのが痛々しいくらいよくわかる。

津崎が恋愛に対して、自尊感情が低いのに対し、逆にみくりは労働に対する自尊感情が低く、そんな二人がお互いの自尊感情を回復させるために作り上げたのが契約結婚だったのかもしれない。

「恋ダンス」の映像で好きなのは、冒頭のみくりが楽しそうに踊っているカットから、平匡の部屋に場面が移った際に暗い部屋の中で一人ベッドに座っている平匡のカットで、このシーンの孤独感たるや尋常ではない。

「恋」のシングルジャケットは女性の手がプリントされたシャツを着た星野源が映っていて、腕を掴んだり、抱きしめられているかのように見えるのだが、それがかえって女性の不在を強調していて、これもまた孤独感が際立っている。

「恋」の歌詞自体は平匡のモノローグのようで、みくりとの幸せな日々にまどろみ、様々な壁を超えて行けというメッセージを発する一方で、いつかこの幸せな日々は終わりを告げるのではないかという諦念も同時に織り込まれている。ポップな狂騒感の渦中にいながら、終りゆく時間を冷たく眺めている視点がふと入り込んでくるような思弁的な歌詞は、90年代にアルバム「LIFE」などを発表していた小沢健二を思わせる。

小山田圭吾と共に、インテリジェンスのあるシニカルな歌詞で無力な少年の青春をポップに歌いきったフリッパーズ・ギターを解散した後、一転してメジャーな方向に舵を切った小沢健二は、それこそ碇シンジと渚カヲルを足して二で割ったような王子様的存在だった。

後の長い活動休止期間のことや現在の引きこもり的なスタンスを見ていると、当時は相当無理をして王子様としてのオザケンを演じていたんだなぁと今更ながら思う。

今の星野源の持つポップスター感は当時の小沢健二と重なるものがあり、行けるところまで行ってほしいという期待と同時に危うさのようなものも同時に感じて心配になる。

また、星野源は大河ドラマ『真田丸』(NHK)では徳川秀忠を演じている。

恵まれた境遇にいながら父の家康に首根っこを押さえられていることにコンプレックスを抱いている秀忠の情けなさは目を見張るものがある。『逃げ恥』の平匡もそうだが、こういう大人になれずに苦闘している男の子(ただし30代)の新しいロールモデルをこの人は引き受けてしまったのだなぁと、本作を見ていると思ってしまう。

様々な読み方ができる『逃げ恥』だが、自分にとってこのドラマは男らしさや女らしさといった世間から押し付けられた役割に苦しんでいる人に対して「いつでも降りていいんだよ」と優しく言ってくれたドラマだと理解している。

その言葉が、当事者にとって救いになるのかどうかはわからないが、人気絶頂となる手前で『逃げ恥』の平匡と出会えたことは星野源にとってはとても幸福なことだったと言えよう。

だが、今後の星野源が今後辿る道が、より華やかな王子様であることが求められることは確かだろう。

そこにあるのは、外見だけで良し悪しを判断されるイケメン以上に残酷なジャッジなわけで、様々なしがらみでがんじがらめになって降りられなくなる前に、そこから降りてもいいんだよ。と言ってくれる人がちゃんと側にいてくれればいいのだが。