約款(やっかん)と民法

今の社会には、不特定多数の人や企業を対象に提供されているサービスが多数ある。例えば、電車やバスに乗ったり、電気やガスなどの供給を受けたり、コインロッカーを使ったりなどのサービスが代表例である。そういった不特定多数の人を対象としたサービスの提供を受ける場合に適用されている契約の形式が約款(やっかん)と呼ばれている。インターネット上の多くのサービスにも約款が使われている(サービス利用規約などと呼ばれていることもある)。また、消費者向けの取引だけではなく事業者向けの取引においても多用されている。一般的に契約と言われているものは、当事者同士で交渉して内容に合意をしていくものだが、約款の場合は、利用者が約款の内容を個別に交渉して変更することはできず、自らの意思で約款に従ってサービスを利用するか、サービスの利用をしないかという選択をすることだけができるということになる。

民法の中で契約などについて定めている債権法といわれる部分は、この100年以上の間、大幅な見直しがされないままになってきたが、現在ちょうど今の社会に合うように改正しようという検討が行われている。その中で約款についての定めを民法に入れるべきかどうかも検討されてきた。しかし、8月26日の法務省法制審議会の民法部会では改正原案がまとまったものの、約款については結論が持ち越しになったと報道されている。(8月27日付日本経済新聞)

約款が法制審議会で検討されてきた理由は、民法が定めている契約の成立の仕方と、約款という形式による契約の成立の仕方が異なっているためである。民法では契約に法的拘束力を認めている。ここでいう法的拘束力というのは、契約に違反したり、従わなかったりした場合には裁判を通じて強制的に執行がなされるということを意味する。では、どうして人は契約に拘束されるのだろうか。法は拘束力の根源を人の意思に求めている。つまり、自ら拘束されるという意思を示した以上は、それに従うのが当然だということだ。契約を結んでいながら自分の意思だからといって、後から勝手に約束を覆すということは許されていない。自分が示した意思(約束)を信頼した相手方も守られなければならないからである。このような考え方をとる民法は、契約の「申込」と「承諾」という行為を通じて、当事者が契約に拘束されることをお互いに約束して契約が成立する、という考え方を原則としている。ところが、約款は一方的に示されている条件に、利用者が従うことで契約が成立することを前提としている。

ではなぜ、契約の当事者の片方が一方的に定めている約款が拘束力を持つことになるのだろうか。民法は、約款が拘束力を持つ理由については何も述べていない。しかし、裁判所は約款という形式で契約が成立することを以前から認めてきている。先ほどあげた例で想像できるとおり、不特定多数の人(たとえば電車に乗る人たちやコインロッカーを利用する人たち)と個別に契約交渉をして締結をしていくことは時間がかかりコスト増にもつながりかねず、サービス料金が高くなるだけではなく、場合によってはサービスの提供もできなくなるようなことも考えられる。多数の人を対象に提供されているサービスが社会の生活基盤を形成している現代において、約款が果たしている社会的な役割・機能を考えると、約款に契約としての拘束力を認めなければ社会生活が成り立たなくなってしまう。毎日通勤で電車に乗る都度、窓口で分厚い約款の契約書を読んで承諾して料金を払うというようなことが想像できるだろうか。判例が約款に法律的な拘束力を認めている背景はここにあると考えている。

民法は契約の基本について定めている法律であり、今回、民法を大幅に見直す機会に、これまで判例が認めてきた内容に従って約款が契約として成立する要件を定めて明確にして民法に記載することは、約款の重要な社会的機能に照らしても必要ではないだろうか。もっとも、約款について民法に定めることに反対をしている人たちもいる。日本経済新聞の記事によれば『「企業の活動に制約が増える」と強く反発』(8月27日付日本経済新聞)している人たちもいるとされている。しかし、本当に約款に関する原則が民法に書かれることが企業活動の制約につながるのだろうか。

約款という形式で契約が成立するための要件を民法で定めれば、逆にどのような場合には約款という形式での契約は成立をしないのか、ということが明確になる。しかし仮に契約として成立しない要件が記載されたとしても、今までの判例をそのまま反映させた形の規定であれば、サービスを提供している人たちは判例を考えながら約款を作ってきているため、大きな問題はないのではないか。なお、一時は、不当条項といって約款に定めても契約内容として無効となるようなものを例示するというような議論も法制審議会においてあったようだがその議論はなくなっている。様々な契約形態の基礎をなすべきものが民法であり、契約の個別の条項の有効性は契約全体の合理性などから有効か無効かを判断せざるを得ないことに照らすと、全てのケースを想定して不当条項を例示することは不可能であり、まして民法に個別に定めることは適切ではないと考えていたが、その懸念はなくなったということである。また、どの契約にも当てはまることだが、契約に書いてあること全てが有効な契約条項というわけではなく、例えば公序良俗に反するようなものは無効となるように、契約が成立することと契約に含まれている個別の条項について全て自動的に有効だということとは別な話である。契約に拘束をされる根拠が人の意思に求められるという原則が変わることはない。電車に乗るときの約款などに代表されるように読んでいない約款にも拘束力は認められることになるが、約款に拘束される根源的理由を意思に求める以上は、約款に拘束されるという意思の合理性の限界を超えてまで約款に書かれた内容の全てが無条件に有効になるということはない。だとすると、判例の趣旨とこれまで蓄積されてきた実務に沿って約款という形式についての規定を設けることが制約になるということは考えにくい。

重要なことは約款という形式で契約が成立するという原則を誰にでもわかるように民法に記述するということである。判例を知っている人だけが、約款は有効な契約形式であるということ、とはいえ約款で定めれば何でも有効であるわけではないということを知っている、という状態が良いとは思えない。多くの人の生活基盤を支えている契約形式について、広く私法の基礎を定める民法で触れておくことは大切なことだ。

最後に、約款の拘束力については学説では事実的契約関係理論というものがあって個別の意思を問うことなく社会類型的行為があれば契約が有効に成立するという考え方もあるが、個人的にはやはり契約の拘束力の根源は意思に求めていくべきだと考えている。なお、理論構成をどう考えるかは別にして民法に約款組み入れ要件を含めるべきだということは、筆者が所属しているヤフーも主張してきているところである。