裁判所の機能を考える

以前、三権分立との関係から国会の機能の強化について考えてみた。今回は三権の一つである司法について考えてみたい。立法、司法、行政がそれぞれ牽制関係にたって民主主義を支えて行くためには三権がバランスよく並び立っていることが望ましい。しかし、現状は立法と行政との関係でいえば行政にバランスが傾いている。それでは司法との関係はどうなっているのだろうか。裁判所の機能を大雑把に分けると、個人間の紛争や行政と個人の間の紛争を解決するという機能と、国の刑罰権の発動についての判断をする機能とがあるが、ここではもっぱら前者を念頭に考えていきたい。

憲法第76条は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」とし「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない」と定めている。国民の権利義務の有無に関する最終判断は裁判所のみが行うことができるということである。そして、裁判による具体的な紛争の解決をとおして規範(ルール)を発見していくという重要な機能も担っている。立法をまたずに、法文の解釈を通じた規範(ルール)の定立(もちろん司法の役割は立法ではなく、あくまで存在している法律の解釈を通じてのものに限られ、国会に代わって立法するのに等しいようなことに踏み込むことはできないわけであるが)は裁判の果たす重要な機能であり、日々進化していく社会において、法律を基礎に、あるべき規範を見いだしてくことが社会を支えるためには不可欠である。(2003年4月14日付早稲田大学オピニオンNo.30「もっと訴訟を!―日本法の国際競争力強化のために―」で須網隆夫早稲田大学法学部教授も、訴訟のルール形成機能を重視すべきだという主張をされているが、その通りだと思う)

しかし、一方で国民の裁判所の利用は増えていない。2012年の全裁判所の新受事件数は民事・行政事件で170万件に留まっており、ピークだった2003年に比べると48%にまで減少してきている。(以下、注釈がない限り数値は「裁判所データブック2013」最高裁判所事務総局編による)民事調停や簡易裁判所における少額訴訟の件数も伸びてはいない。この傾向が何を示すものなのか、もう少し掘り下げた分析が必要である。

裁判を行うキャパシティは裁判官の数に依存することになるので、そこをまずは見てみたい。裁判官の定員は増えてきており2003年に3,139名であった裁判官の定員は 2013年には 3,718名と1.18倍になっている。しかし、人口10万人当たりの裁判官の数で比較すると、米国10.19人、イギリス6.43人、ドイツ24.94人、フランス8.94人、日本2.29人と、諸外国に比べて裁判官の数が多いとは言えない。さらに、司法制度改革によって弁護士の数は2003年の 19,522 名から33,682名と1.72倍に増えていることと比較すると、裁判官の数の増え方は相対的には少ないように思われる。加えて、これまでも一人の裁判官が抱える事件件数が多いと言われており、2010年3 月に日本弁護士連合会が発行したパンフレット「裁判官を増やそう」によれば、「大都市の裁判官は、常時、1人あたり単独事件を200件、合議事件を約80件抱えている」とされていて業務量が多いことが指摘されている。円滑な裁判を進めて行くためにも裁判官の負荷の軽減は必要そうに思う。

裁判利用が減少している理由の一つとして、民事裁判が国民にとって使いやすくなっていないという指摘もあり、裁判による解決は時間がかかることが課題ではないかという意見もあるのでその点をみてみる。1989年には12.4ヶ月と約1年かかっていた審理期間(地方裁判所で通常訴訟に要した平均審理期間)は2012年には7.8ヶ月と次第に短くなってきている。また、審理期間は諸外国と比較しても遜色はない(米国連邦裁判所7.8ヶ月、イギリス郡裁判所8.7ヶ月、ドイツ地方裁判所8.2ヶ月、フランス大審裁判所7.9ヶ月)。であれば裁判に要する時間が原因ではなさそうに思われる。

では、どのように考えれば良いのであろうか。データに基づかない私見であることを予めお断りしつつ、考えるべき課題として以下の3の視点を提示したい。

1.裁判の機能を重視しながら行政機能とのバランスを取ること

2.紛争解決のあり方についての権能を強化すること

3.民事訴訟の対審構造をより活かせるものとすること

一つ目は、紛争解決手段として裁判所が使いにくいということを理由に、裁判以外の解決手段を行政的に用意してきた歴史があるのではないかという点である。市井の相談窓口が有用であり必要であることは言を待たないが、そういった窓口やADR(訴訟以外の紛争解決手段。例えば交通事故紛争処理センター、国民生活センターのADRなど)の設置などに力点がおかれ、裁判の仕組みを変えて行くことには相対的に力点がおかれてこなかったのではないか。定型的な紛争処理についてはむしろ簡便に利用できるADRは望ましいと思うが、ADRはルールを発見していくという役割を担うものではなく紛争の個別解決だけを目指すものである。しかし、もしADRが便利だということが強調されすぎれば、ますます裁判所への足が遠のき、結果的には裁判所による個別紛争の救済への期待値を下げることにもなりかねず、裁判所機能の強化よりも紛争予防を行政的に図るための行政機関の権限や機能の拡大に目が向けられ、そのバランスの崩れを生じさせることにつながっているのではないか。つまり紛争が起きた場合の解決方法や救済方法として裁判を利用することは時間も費用もかかり、得られる金銭賠償額も期待できないということを理由として、行政的観点から簡便な紛争解決手段を用意するとともに、紛争防止のために広く行政規制を強化していくという方向に誘導されてきた結果として、三権の中における裁判所の役割を相対的に小さくさせるという負の循環が起きているのではないかということである。短期的な社会コストの低減という観点も重要であるが、長期的にみた社会コストの低減のためには裁判所の役割の強化が必要なのではないか。

二つ目は、裁判という制度ではなく、民事救済の手段としての損害賠償制度のあり方が訴訟という手段の利用にメリットを感じられない理由につながっていのではないかということである。求めることができる損害額は、故意過失と相当因果関係の及ぶところに限られ、また精神的損害に対する賠償額も我が国の場合には決して高額ではないことが、裁判コストを考えた場合に割に合わないということなのではないか。現在の日本の裁判所における損害賠償に対する考え方は、それとして合理的であるとは思うものの、現代社会における損害賠償の果たす役割に照らして、損害賠償制度のあり方について議論しても良いのではなないか。

三つ目は、裁判にあたって必要となる情報の格差という点である。民事訴訟は、構造上対等な両当事者が証拠に基づく主張をし合い、適用されるべき法に基づいて裁判が行われるものとなっているが、当事者間の証拠収集能力や持っている情報量の格差があることを考えると、本来的に対等に立てるようにするための補完的な手続も考える必要があるのではないかということである。

例えば、米国では証拠開示制度というものがあって相手方の保有する証拠の開示を当事者間で求め合うことができる。その制度が訴訟を高コストなものにしているという批判はあるものの、当事者間の情報量の格差を埋めるための一定の役割を果たしていることは確かである。同様の制度の導入については我が国では反対も強く、難しいと思うが、情報量の格差を埋める何らかの手段は検討すべきではないか。現在の民事訴訟法が認めている裁判所による文書提出命令では代替手段にはなり得ていないのが現状である。

裁判が活用されるためには、ここで提示した視点以外にも様々な角度で民事裁判の制度を見直して行く必要性がある。しかし、その中でも考慮しなければならない重要な要素として、裁判の機能を重視しながら行政機能とのバランスを取ること、紛争解決のあり方についての権限と能力を強化すること、民事訴訟の対審構造をより活かせるものとすることの3つの視点を提示させて頂いた。もちろんこれは、かなり大雑把な仮説にすぎないので、さらに掘り下げて行くためには現状の正確な調査が必要である。最後に、繰り返しになるが、課題意識は、憲法の想定する三権のバランスが果たしてとれていて十分に機能が果たせているのかというところにあるということだ。民事裁判への国民の期待を調査分析したうえで、個別の紛争を適切に解決しながらルールを発見するという裁判所の重要な役割が果たせるよう、必要な施策を講じて行くことの重要性を多くの人々に一緒に考えて頂きたい。