エンブレム問題と松本清張

松本清張『半生の記』新潮文庫、1970年

 エンブレム問題に関して、その経過をちゃんと追ってこなかったし、すでにご破算となったことだし、まぁ書くことはないだろうなぁと思ってました。が、夏前までは担当授業の関係もあって、広告について書き散らしてきた経緯もあり、何か発言するよう促してくださる方もおり…、ということで雑感を述べます。

 まず、突拍子もないタイトルの件ですが、今から80年ほど前、北九州小倉の印刷所で、図案家(今で言うグラフィックデザイナー)として働いていた松本清張は、次のような体験をします。

 僅(わず)かに慰められたのは、多少とも私の描く図案に注文主が目をつけてくれたことである。あるとき、小倉に洒落た洋菓子店が開店し、その包紙を高名な東京の画家が描くということになった。なんでも、主人の姪(めい)が福岡女専の出身で、画家はその知り合い関係から依頼されることになったらしい。そんな話を聞いて間もなく、私はその印刷屋の二階に呼び上げられた。

 印刷所の二階は主人家族の住居で、家具調度も私の眼には贅(ぜい)を尽くしていた。その十二畳の座敷の真ん中に紫檀(したん)の机を置き、東京の若い画家が坐って、図録のようなものをひろげていた。早川雪洲(せっしゅう)に似た好男子である。その傍には、この家の主人の娘二人と、女専出の姪がいかにも大切そうに画家にサービスしていた。

 東京の画家は骨董屋(こっとうや)の図録から、陶器か何かの模様をピックアップして、こういうやつを描いて適当に包紙の模様のように散らして下さい、と私に命じた。私はなんだと思った。ただ図録の絵をとって配合するだけではないか。ただ文字だけはぼくが書きます、とその画家は言った。当時、キュウビズムか何かで評判の二科の新進作家だった。

出典:松本清張『半生の記』新潮文庫、1970年、54-55頁

 尋常高等学校卒業という学歴コンプレックスや、多数の扶養家族を抱え、鬱々と暮らす清張青年にとって、中央の権威を身にまとった画家は、ただのいけすかないヤツだったのでしょう。しかも、やってることは、ほぼ「パクリ」です。

 もちろん、小倉の洋菓子店の包装紙と、オリンピックという国家的プロジェクトとを対照して云々するのは、バカげた行いです。両者の時間的な隔たりも、莫大です。まぁ、ひとつの思考実験として、以下お読みください。

グラフィックデザインに署名はつかないが、そのデザイナーの業界内的な「有名/無名」はついてまわる。

 さて、例の二科展画家氏ですが、なぜこうした安易な方法を平気でとったのでしょうか(というか、なぜこうした手法が、当時は当たり前だったのでしょうか)。

 やはり、本業のファインアートよりも、広告デザインは一段下の仕事と見ていたのでしょう(今もその傾向はありますが、往時には圧倒的な差がありました)。またネットも何もない時代、首都東京と地方都市との文化的・情報的格差は絶対的でした。ゆえに件(くだん)の画家氏は、九州まで遊びがてら、小遣い稼ぎに来ていたというのが実情でしょう。地元の図案家(画工)を呼びつけ、適当に指示して一丁上がりというわけです。クライアントはただただ持ち上げてくれるし、デザインに直しなどはもってのほかです。そのデザインでいいという根拠は、それを指示したのが中央画壇で評判の作家だから、の一点につきます。

 今回のエンブレムのコンペの場合も、それぞれの案は匿名状態で審査されたのでしょうが、結果残ったものがネームバリューのある応募者のものだったので、じゃあ彼でいこう…となったのでは。その後、修正を加えなければならなくなった時も、彼でいくのだから(彼が直すのだから)もうそれでいいじゃん、で押し切ろうとした結果、今日の事態につながったのではと推測します。

しかしその一方で、グラフィックデザインに関しては、素人が口を出すのもアリとなりがち。

 誤解を招くことを承知で書きますが、ある力量以上の作り手がデザインしたロゴやマークの並んでいたとしたら、そのどれがよいか否かは、最後は選者の好き嫌い――選ぶのがプロの審査員であったとしても――となってきます。今回のエンブレムのコンペの場合、応募資格はある程度以上の実績(受賞経験など)の持ち主に限られていたようです。技術的な優劣は、あったところで僅差でしょう。

 そして、ファインアートの場合ならば、嫌い・うけつけない作品であったとしても、「芸術だから仕方ない」「(自分にとって)わけのわからない作品だが、別にそういうのもあってよい」となりがちですが、コマーシャルアートの場合は、クライアント(お金を出す側)である以上口を出して当然、もしくは一般の人々の目にさらされ、広く受け容れられるか否かが生命線である以上、その意見に耳を傾けなければ…、となってきます。グラフィックデザイナーの作家性を認め、実績のある有名デザイナーの権威を尊重する世界(業界)がある一方で、そこからアウトプットされたものは、その世界外の人々(要するに一般の誰でも)の眼にさらされ、その良し悪しを云々されることになります。まぁそれがポピュラーアートの宿命ということでしょう(しかも今回は、国・地方の政・財・官の有象無象が口を出し…)。

 ネットのない時代であれば、東京・九州間の圧倒的な空間的距離のもと、「中央で評判の画家」の権威の前に皆ひれ伏したでしょう。しかし、中心と周縁といった序列のない、フラットなネットの世界にあっては、すべての権威は丸裸にされ、シニカルな視線にさらされます。また、ネットの驚異的な検索力は、類似したものや元ネタらしきものを、いくらでも掘り起こしてきます。

受け手のメディア環境に先駆けて、制作現場のデジタル化・ネットワーク化も進んでいた。

 署名代わりに、自らの痕跡を残すべく「文字だけはぼくが書きます」と、件の画家氏は言いました。写植、ましてやフォントをいじるのではなく、筆やペンでレタリングをしていた往時。しかし、グラフィックデザイナー、イコール版下を作る人だった時代から、現在では原則的にPC画面上ですべての作業は完結しています。

「図録から模写して適当にレイアウトして…」から、「ネット上で素材を探し、それを適当に貼り付けて、さらにコピーして…」までは、さほど懸隔がないように思われますが、やはりアナログな物理的な空間で実際に「手を動かす/動かさない」の差は存在します。今回、エンブレムとは直接関係ないトートバックの回収騒ぎが、エンブレム問題へと波及しました。「ネット上のありものを無断で拝借」は、PC画面上で完結するデザインのやり方をしていれば、ちょっと心のリミッターが外れたら、やってしまいがちなのでしょう(コピペ・レポート問題なんかもなぁ)。

評判産業としての広告業。巨大黒子であろうとするし、そう思われたほうが得なことも多い。

 デザインの優劣をつけ、一つに案に絞るという作業は、マークシート方式のテストをすることとも、その結果がタイムや距離の数値で表され、序列・勝敗がはっきりとつくスポーツの領域とも異なります(フィギュアスケートの「芸術点」のみの世界、みたいな感じです)。なぜこの案に決まったのか、このデザインとあのデザインとは同じものか、別のものか…。すべてが、最後の最後のところでは、曖昧とならざるを得ない世界です。

 それゆえ、「では、なぜこの案に決まったか」の説明・理解のために、「陰謀史観」「陰謀説」が招来されがちです。今回の場合、広告代理店を中心とした「巨悪の構造」がずいぶんと語られたようです。

 20年ほど前、その片隅にいた人間としては、「実感(リアリティ)ねぇなぁ」なのですが、広告業界の側も、「自分たちが世の中回している感」を演出できたほうが、商売上都合いいのは確かです。でも今回は、そう振る舞いきれなかったからこそ…

 結局どうすればよかったのか、これからどうすればよいのかについて、私にアイディアはありません。が、「歌ネタ王決定戦」のように、斯界の大御所たちの審査と、視聴者の判断とを組み合わせるみたいな模索をしてみたら~~と、昨晩、ぼーっとテレビを眺めながら思いました。

 さて、そろそろこの話に、オチをつけなければなりません。

 松本清張に話を戻します。その後、清張青年は朝日新聞西部支社の図案係に採用され、生活の安定を得ます。そして戦時下を無事に生きぬき、戦後は小説家として名をなし、東京へと居を移しました。自らの体験に裏打ちされた、見下された者・虐げられた者たちの情念が匂い立つような小説群は、次々とヒットを飛ばしていきます。ベストセラー作家として、出版業界を中心に、メディアの世界に多大な影響力を及ぼしていきました。

 で、息子さんは大手広告会社に入ったとさ(田原総一朗『電通』朝日新聞社、1981年)。