広告の周辺(13)ジングルからブランドへ、個別の商品よりもサービスの総体へ。

今の大学生は90年代後半生まれ。ピタゴラ装置でやっと反応があるんだな、これが。

 これまで何度か、以下のような絵解きを紹介してきました。

よく使われる図式ですが、マーケティングとは、送り手が受け手に“I’m a great lover.”と伝える行為であり、広告(アドバタイジング)となると、“I’m a great lover. I’m a great lover. I’m a great lover.”と繰り返す行為である。それに対して、広報(PR、Public Relations)は、第三者に“Trust me. He’s a great lover.”と言ってもらう(言わせる)ことであり、ブランディングとは、受け手の側から“I understand you’re a great lover.”と言ってもらう(よう誘導する)ことである。

 広告が効かなくなったとは、1980年代から言われ始めていたのですが、それが本格化したのは、日本経済が停滞期に入った90年代。その時、経営学方面で「ブランド論」が脚光を浴びていきます。今回はそのあたりから、今日までの経緯を概観。

90’s:ブランド論の隆盛

 話をもう少しCMにフォーカスすると、海外のブランド・パワーに圧倒的にやられてしまった感のあったのが、1997年度のACC(全日本シーエム放送連盟)賞でした。

 この年、Michael Jordan "Frozen Moment" Nike Commercial、同じく"Failure"編、"Tell Me"編のシリーズが、グランプリ(当時のことなので郵政大臣賞)を獲得しました。3本とも検索をかければ、それぞれその英語版にヒットします。残念なことに、日本語版が見つかるのは、"Frozen Moment"編だけ。1997年CM ナイキジャパン Air Jordan Frozen Moment ACCグランプリとして、あがっています。

 なぜ、英語編の方がよくヒットするかというと、これらのCMが、もともとはアメリカで作られ、オンエアされたものだからです。それをナイキ・ジャパンが、日本語字幕(サブタイトル)をつけて、そのまま日本で流しました。それが、1997年度の日本CM界の最優秀作となったわけです。その時の『ACC・CM年鑑』に曰く

「あァーこれはカンヌ国際広告映画祭の惨敗と同根ではないか?」

「日本CM界へのひとつの警鐘である、ととるべき」

「今回のフェスティバルはいろんな意味でACCの歴史にとって、画期的なことであったことは間違いない」

「日本的仕組みが、グローバル・スタンダードの中で一挙に崩壊しはじめてきたのである」

「今や、日本丸は根元的な、思いきった手だてを加えないと沈んでしまうというのが多くの識者の意見である」

「小さな日本という箱庭で楽しく遊んでいて、ふと世界という大きな庭に出てみたら、自分たちだけの世界を作りすぎていた、というのが現状ではなかろうか」

出典:『1998年ACC・CM年鑑』

 全日本と冠したCMコンペティションで、グランプリ作品のスタッフリストが、アルファベットで埋め尽くされていれば、まぁこれらの嘆き声も当然出てくることでしょう。

 ナイキが、数あるスポーツ(アパレル)ブランドの中の一つでしかない現在の若者たちにとっては、なかなか理解しがたいことのようですが、1990年代、ナイキはおそろしくクールで、人気の高いブランドでした(それゆえ反発も大きかったですが)。ブランド論界隈では、もっとももてはやされた事例であり、成功したブランドの代名詞的存在でした(あとは、オリビエーロ・トスカーニ時代のベネトン)。今では世界のブランドパワー・ランキングの類で20位台あたりにいることが多いナイキですが(http://interbrand.com/ja/newsroom/15)、1990年代にこのテの調査があったら、少なくともトップ5には入っていたはずです。

NIKE &W+K

 こうしたナイキの快進撃は、経営学(ブランド論)方面だけではなく、広告制作現場にも多大な影響を与えます。NIKEの一連のCMを制作していたのが、Wieden&Kennedy(現在はWieden+Kennedyと表記、ないしW+Kと略記)です。その名の通り、ワイデンさんとケネディさんが、ナイキをメインのクライアントとしてCMを作り続けていく中で、ナイキ同様、オレゴン州ポートランドから全世界へと急成長・急展開していった広告エージェンシーです。このW+Kと、それまでのニューヨーク・マディソンアヴェニューに本拠を構える巨大広告代理店との違いは、徹底的にクリエイティブ機能に特化した点です。有能なクリエイターが、少数精鋭で結集した、いわゆる「クリエイティブ・エージェンシー」。

 ナイキないしW+Kの広告作法については、Robert Goldman&Stephen Papson“NikeCulture”Sage, 1999(paperback)という本が詳しいです。ナイキ広告特有の戦略を一言でまとめてしまうと、「メディアに精通した(media-literate)受け手に対するリスペクト(を言外に匂わせること)」。ナイキのCMには、わかる人にだけわかってくれればそれでよいと、観る側を選ぶ(ターゲットをセグメントする)ところがあります。

Wieden&Kennedyのコピーライターは、視聴者を「知的な仲間」として「尊敬」をもって扱うCMを作っているのだと繰り返しコメントしている。彼らは、そのオーディエンスとともにあり、他の多くの広告の、視聴者を下に見る話法を否定している。

出典:Nike Culture,33p

 ACCグランプリ受賞作にしても、マイケル・ジョーダンを起用したCMにありがちな、ともかくカッコよく彼のプレイを撮るといった常套手段に陥ることなく、ナイキないしW+Kは、わざわざジョーダンに「ミスしたシュート9000本、負けたゲーム約300、ウイニングショットを外したこと26回…」と語らせます。

 スーパースターをキレイキレイに描くような月並みCMなんてダサいことをオレたちはしないし、そのことを皆、わかってくれてるだろう。わかってくれることを、こちらはわかっているんだぜ、という円環構造。ブランドと、“I understand you’re a great lover.”と言ってくれるそのファンとの、幸せな関係の成立です。

クリエイティブ・エージェンシーという黒船(?)

 ジョーダンCMのショックからか、2000年代に入る頃から、日本でもクリエイティブ・エージェンシー設立の動きが加速します。

 2004年3月号『創』には「広告クリエイター「退社・出向・移籍・独立」の流れ」という図が掲載されています。電通からは岡康道らが出て「タグボート」を設立し、神谷幸之助がワイデン&ケネディへ。電通出資のクリエイティブ・エージェンシーである「ワンスカイ」へは田中徹が、「シンガタ」へは佐々木宏が(シンガタには博報堂を退社した黒須美彦も合流)。これらクリエイターが1950年代生まれなのに対して、1960年代生まれとしては、博報堂から出た佐藤可士和が「サムライ」を、箭内道彦が「風とロック」を立ち上げた…といった図解です。

 それらクリエイティブ・エージェンシーが、広告業界をリードしたゼロ年代。これまでの話の流れで言えば、アドバタイジング→ブランディング、佐藤雅彦→岡康道という場面の転換です。その様子を、具体的な作品でというよりは、当事者の発言など引いて示しておきましょう。

 

岡「表現主体のかっこいい路線というか、広告アート路線の動きも85年ぐらいになるとすっかり影を潜めて“やっぱりこんなカッコイイこといってたって売れなかったらダメでしょう”ということになりました。モルト何パーセントとか、商品の事実がそのままキャッチになるようなCMが増えて。僕のクリエーティブへの異動はそのタイミングです。‥僕の隣に座っていたのが佐藤雅彦さんです。佐藤雅彦さんがバブルの後に出てきたのはすごいタイミングで、あれは広告の原点に返ろうというある種の運動だったと思います。商品名と商品特性が、すぐに伝わって記憶されることの価値を見直すこと」

出典:小田桐昭×岡康道『CM』宣伝会議,2005年

バブルが終ってみると、モノや購買に対する熱狂や偏愛は、どちらかといえば格好の悪いものとなった。90年代に入って多くの商品は、商品というよりはむしろ、企業が生活者の人生と長く関わる「サービス」として、提供されはじめたのである。岡の最良のクリエイティビティは、テレビであったり旅であったり、人生を通じて反復するサービス商品において発揮される。

出典:吉田望「長距離プランナーの孤独」『岡康道の仕事と周辺』六耀社、1997年

岡「企業ブランドというのは結局人格のようなもので、ある時間をかけて、同じようなことに興味を持ち、同じようなことを掘り下げていって、ある人格をつくる」

出典:岡康道・吉田望『ブランド』宣伝会議、2002年

 たしかに、通信(などインフラ系)・流通(いわゆるSPAやCVS)・金融・ツーリズム関連など、2000年代を通じて台頭してきた広告主は、個別の具体的な商品を売るというよりは、「サービス」を提供する企業群です。

 そして、2013年度のACCグランプリは、ナイキベースボール宣誓編でナイキジャパンが再度とりました。今度は、スタッフリストにジャパニーズな名前が並んでいます。その翌年のACC賞は、タグボート作品が大躍進でした。  

 「小さな日本という箱庭」から出られたんですかねぇ。ゼロ年代から、10年代への話はまた回を改めて。