広告の周辺(4)再ネイティブ化する「広告」

景品に当たったことがうれしくて、私も思わずブログにあげてしまいました。

20世紀後半、とりわけテレビがメディアの中心に君臨していた時代には、広告とコンテンツの区分は明快でした。

民放の場合、番組が途切れたところでCMタイムが始まり、15秒・30秒CMの一連の流れがあったのちに、また番組へと戻っていく。コンテンツ(番組)と広告(CM)とは別物として存在していましたし、それがあたり前の姿としてありました。

ところが、そうした自明の前提は、メディア環境の激変の中、この10年ほどで一気に怪しくなってきました。今回は「コンテンツ/広告」の区分けのゆらぎという点から、曖昧化する「広告」の現在を見ていきたいと思います。

広告化するコンテンツ

広告とコンテンツとの境の曖昧化の、もっとも見やすい最近の事例として、パッソ×テラスハウスのコラボCMがあります。解説するまでもないことですが、「テラスハウス」は、いわゆるリアリティ・ショーないしリアリティ・プログラムと呼ばれるようなテレビ番組で、海辺のテラスハウスに同居することになった若い男女の姿を、定点観測していくような内容でした。自動車会社の一社提供で始まったゆえに、当然のことながらそのテラスハウスにはクルマも用意されています。で、そこからスピンオフした映画が、「テラスハウス クロージング・ドア」。パッソ×テラスハウスで検索すると引っかかってくる動画は、その映画のトレーラー(予告編)であり、かつテラスハウスに置かれたクルマの宣伝を兼ねた、二重の意味でのCMになっているわけです。

話が脇道に逸れますが、私はリアリティ・ショーがけっこう好きな人間です。たとえば2000年代、ヨーロッパなどで流行った「ビッグ・ブラザー」。イギリス・チャネル4の出しているDVDを何枚か持っていたりします。ビッグ・ブラザー・ハウスでも、テラスハウス同様に若い男女が集められ、共同生活を営んでいるわけですが、その拘束の度合いは比較にならないほど厳しいものです。ビッグ・ブラザーの名自体も、高度な監視社会のディストピア(ユートピアの逆)を描いたジョージ・オーウェルの小説からとられているように、ビッグ・ブラザー・ハウスの中の様子は24時間撮影され、若者たちは外出をまったく許されません。なので、人間関係の煮詰まり方がハンパないです。しかも、同居者や視聴者による多数決によって、ビッグ・ブラザー・ハウスからの退出者が順次決まっていき、勝ち残った者には巨額の賞金が与えられるため、愛欲からんだえぐい人間模様が繰り広げられることになります。

あと、イギリスBBCのやっていたLiving With The Enemy(敵と暮らす)。水と油的な、まったく正反対のタイプの人間を同居させるという、これまたリアリティ・ショーです。とくにLiving With The Enemy: Gays V Homophobesの回は傑作だと思います。イギリス・ミッドランドあたりの、草ラグビーを楽しむマッチョな男性二人組が、ロンドンにやってきます。この二人は、いつも試合後には仲間たちとパブでビール。わかりやすい「男らしさ」を信奉・誇示し、肉体的に強くてこそ男、女性をはべらせてナンボといった価値観の持ち主たち。当然ながら、ホモフォビア(同性愛嫌悪)です。で、彼らが同居するのは、ソーホーあたりのおしゃれなフラットに暮らす、ゲイのカップル。まぁ、やはり水と油です。一週間ほど同居して、なんとかつきあっていこうとするのですが、最後まで歩み寄れないまま、サヨウナラ。日本のテレビ番組のように、「そうはいっても、わかりあえた」「気持ちが通じた」的ないい話には着地せず、予定調和しないあたりがイギリス的で、そこが私にとってはツボでした。同居の過程を、ドキュメンタリーのように、ゴロリと視聴者の前にただ投げ出すだけ。当然、スタジオでコメントしたりするタレントなどはいません。

というわけで私は、テレビ番組としての「テラスハウス」については、広告論みたいなことやってる以上ちょっと覗いておこうか程度の視聴体験だったし、映画「テラスハウス クロージング・ドア」も見に行っていません(電波少年・雷波少年は好きでしたが、「あいのり」はほとんど見てません)。なので番組の詳細や、映画の生み出された背景などはよくわからないのですが、クロージング・ドアの公式ホームページに「放送局・制作会社・映画会社・広告代理店」名が並んでクレジットされているところを見ると、やはり広告的意図をもったコンテンツなんだろうなぁと想像します。放送局・制作会社がコンテンツ(番組・映画)を制作・放送し、映画に関しては映画会社が配給し、スポンサーとの媒介やコラボCMの仕掛けづくりを広告代理店が担務する…ってことなのでしょう。

プロダクト・プレースメント

映画が広告媒体としてもありうる、という話は、別に昨日今日始まったことではありません。ハリウッドでは高騰する映画製作費を少しでも賄おうと、プロダクト・プレースメントという手法が盛んだ…、みたいなことはずいぶん前から言われていました。ある特定のプロダクト(商品・製品)を映画のシーン内に配置(プレースメント)することで、そのメーカーなどから、映画製作側が対価を得ようという試みです。Top 10 Best Product Placementで検索すると、その成功例が並んでいたりします。ネタバラシはしませんが、1980年代の大ヒット作映画が上位にあがっています。ほぅ、あの商品は、あの映画がきっかけで売れたのか、そう言えばあんなシーンあったよなぁと、思い当たる点も多々あることでしょう。

邦画で考えてみても、映画草創期までさかのぼることが可能です。1931年に公開された、日本初の本格的トーキー映画「マダムと女房」の中では、田中絹代が「クラブ歯磨が、そこにあるでしょ」的なことを言っています(旧中山太陽堂、現在のクラブコスメティクスはかつて歯磨も販売してました)。同じく1931年のアニメーション作品「茶目子の一日」では、「♪ライオン歯磨で歯を磨き~」的な歌が流れています。しかし、ハリウッドとは違い、あまり世界市場を顧慮せず、プロデューサーよりもディレクター(監督)が偉いという邦画の風土に、プロダクト・プレースメントはそぐわないようです。最大の成功例は、「魔女の宅急便」(1989年公開)くらいでしょうか。製作会社として「ヤマト運輸」があがっており、「協力」に広告代理店が名を連ねています(黒猫も出てきます)。

そう言えば、リアリティ・ショーのブームを先取りしたかのような映画「トゥルーマン・ショー」(1998年公開)の場合、閉鎖された街シーヘブンに暮らすトゥルーマン(ジム・キャリー)を24時間監視し続ける番組「トゥルーマン・ショー」にはCMタイムによる中断はなく、そのスポンサーは自社の製品をシーヘブンのそこかしこに配することで、広告を行っていました。プロダクト・プレースメントを戯画的に描いた映画、というわけです。

テレビ番組でのプロダクト・プレースメント

日本の民間放送の草創期、やはりコンテンツと広告の融合といった現象は珍しいことではありませんでした。もっとも代表的なのは、1960年代に一世を風靡した「てなもんや三度笠」の「俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー」(by あんかけの時次郎こと藤田まこと)です。前田製菓の一社提供だったがゆえに、劇中のキメ台詞にスポンサー名が堂々と織り込まれていたわけです。1950年代までにさかのぼると、三共製薬(現三共第一)一社提供の「日真名氏飛び出す」では、日真名氏たちが「三共ドラッグストア」にたむろしていていました。コンテンツ(番組)と広告(CM)がシームレスにつながっていたわけです。

その後、テレビが巨大なメディアになるにつれ、一社提供番組は減っていきました。放送局とスポンサーの力関係も、変わっていきました。が、不況やネットの登場によって、テレビ(CM)の絶対的な地位が揺らいでくると、スポンサーを確保する必要上、テレビ局側がタイアップにより積極的に動く傾向はみられます。冒頭の「テラスハウス」などは、その一例なのでしょう。ただ、番組中にいろいろ商品をプレースメントしようとしても、時代劇や歴史モノでは不可能です。出演者が、どこのCMタレントであるかの方が優先されたりもします。アニメ作品「ダイガー&バニー」のヒーローたちが、スポンサーのロゴを胸に戦っているのも、なかばギャグです。

テレビ番組の広告媒体化という点で言えば、スポーツ中継がもっとも効果的でしょう。スポーツ用品メーカーが、アスリートやチームとさまざまな契約を結ぶことはもとより、スタジアムや選手のユニフォームにさまざまな企業・ブランドのロゴが溢れています。プロダクトはプレースメントできなくても、ロゴマークのプレースメントは、あの手この手で行われています。ゲーム内のスタジアムやサーキットなどにも、広告看板は見られますし、「龍が如く」のようにリアルな街並みの中で進行するゲームの場合、その店舗や看板が広告媒体化していることもあるようです。

コンテンツ化する広告

しかし、コンテンツと広告の曖昧化ということでは、やはりインターネット広告やモバイル広告の登場が、大きな画期となりました。最近、「ネイティブ広告」という言葉をよく耳にします。おおざっぱな定義としては、「“PR”“広告”といった表記がなければそれが広告だと分からないぐらい、媒体やプラットフォームのデザインになじんだ形式の広告」となるようです。

典型としては、いわゆる「リスティング広告(検索連動型広告)」。検索エンジンにあるワードを入れると、関連するスポンサーのサイトがリストアップされるという方式です。「広告」の表示はあるものの、通常の検索結果と同様に、それらも並んでいます。フェイスブックにも広告は挿入されてきますし(インフィード広告)、LINEのスポンサードスタンプ(企業や商品のキャラクターなどが無料で配布される)なども、コンテンツの中に溶け込んだ広告といえるでしょう。

ここ数年、急速に人気の高まったweb動画CMも、動画共有サイトの中に、他の動画と同様のフォーマットで並んでいたりします。ラストに商品(飲料)が数秒出てくるだけの「忍者女子高生」、回線の速さを伝える通信会社の「3秒クッキング(爆速エビフライ)」などは、話題を呼んで驚くべき再生回数をたたき出し、テレビ番組などにも取り上げられる拡散ぶりを示しました。その動画がおもしくさえあれば、観る側はそれが広告的な意図をもつものであるかどうかはあまり顧慮しませんし、友人・知人への推奨・転送を厭いません。

もちろん、ネット上での広告活動のすべてがうまくいくわけではありません。2015年4月号『サイゾー』「決定!ネットCM動画 トホホアワード2015」といった記事がありました。また、ネイティブ広告には、根強いステマ(ステルス・マーケティング)批判がついてまわります。

そして、動画共有サイトのインストリーム広告(お目当ての動画を見る前に、強制的に流される動画CM)の多くは、すぐさまスキップされてしまいます。ですが、Automatic Skip Ad Volkswagen。スキップされる前の5秒間は確実に見てくれるのだからと、5秒間で言いたいことを言い、見せたいものを見せる方策をとっています。私などは、1960年代の5秒CMブーム――「なんである、アイデアル」「いっぱい、やっか」「ミタス、ミタスと言いました。マル」etc.――のことを思い出しました。

拡散を織り込んだOOH

広告媒体にはpaid media、earned media、owned mediaの三つがあり、それらを有機的に連動させて…といった話は、ここ数年来繰り返しなされてきました。paid mediaは、従来のように放送局・新聞社・出版社などに媒体料を払い、スペースや時間の枠を買い、そこに広告を流し込むもの。owned mediaは、自社のサイトなど、自ら所有・管理する媒体。それら従来型のメディアに対して、earned mediaには、ソーシャルメディアやSNSと呼ばれてきたようなものが想定されており、広告する側にとってはコントロールできないものの、それらメディアを通じての情報の伝播や好意の醸成が企図される媒体ということになります。

そこで最近目につくのは、SNSなどでの拡散を目的としたらしきOOH(out of home)広告です。街頭で人目を引くパフォーマンスをしたり、特殊なポスターを作成してみたり。昨年のW杯の際、毎夜、汐留の電通本社ビルの外壁いっぱいに文字が浮かび上がり、さまざまなメッセージが発せられたのも、その一例でしょう。窓のブラインドの開閉によって文字を描き出し、ビルの壁面全体が電光掲示板のようになっていました。

もちろん、それらを直接見ただけの人たちもいたでしょう。しかし最大の狙いは、街で見かけたおもしろいモノ・コトを皆がスマホなどで撮影し、それをネットにアップすることにありました。おもしろいOOH広告に接した人々が、単なる広告の受け手に止まらず、媒介者になることが期待されていたわけです。

友人・知人が「いいね!」し、拡散させた動画・画像は、さまざまなソーシャルメディアやSNSのフォーマットの中に溶け込んでいます。これまで広告は、周囲から目立つ(salience)ことを目ざしてきました。コンテンツの中に紛れず、そのメディアにとってはネイティブならざるもの、ストレンジャーないしエイリアンであろうとしてきました。そうした前提が、どうやら最近では自明とは言えないようです。