広告の周辺(2)ソーシャル化の流れ

3月20日付朝日新聞。蓬莱が天王寺動物園に「ゴーゴ」に続き「イッちゃん」を寄贈。

前回、「広告」概念のゆらぎについて書きました。

広告の一般的な定義としては、「広告とは、マスとインタラクティブ・メディアを用いて、広範なオーディエンスに対し、あるスポンサーとそのターゲットである買い手とを結びつけるために、プロダクツ(商品・サービス・アイディアなど)についての情報を提供し、またプロダクトの特徴を顧客のニーズや欲求の観点から説明する、有料の説得コミュニケーションのことを言う」などといったところでしょう。が、広告の受け手とは単にその商品やサービスの潜在的な消費者・利用者のみに限定されるのでしょうか、果たして広告のコミュニケーションは説得的(persuasive)なものだけなのでしょうか…。このシリーズではそんな問いを、行きつ戻りつ考えていきたいと思います。

創造力を、ソーシャルに。

最近、広告(ad)・広報(PR)・マーケティング業界においても、「ソーシャル」が一つのキーワードとなっているようです。

たとえば、the social swipeで検索してみてください。ドイツの非営利団体miseroeor(世界各地の貧困・不正の根絶を目ざす)が、街頭に設置した募金受付装置の動画が現れるはずです。「swipe」は、クレジットカードをリーダー(読み取り機)にかけるという意味。一見、デジタルサイネージ(電子看板)のようなその装置には、スリットが刻まれており、そこにクレジットカードを通せば、それで募金がmiseroeorへと振り込まれるという仕組みになっています。クレジットカードを読み取らせる時の、カードをスッと振り下ろす動作と連動して、画面上ではパンが切り分けられ、そのパンに痩せた手が伸びてくる、もしくは人の両手首を縛っていた紐が切り放たれる…。募金がどのような目的で使われるかが、わかりやすくビジュアライズされ、寄付者に体感してもらえる仕掛けとなっています。そして、やがて送られてくるクレジットカードの明細には、募金への感謝の言葉と継続した寄付へのお願いなども記されています。

この場合のsocialとは、「社交」というよりも、やはり「社会」と訳されるべきものでしょう。私(わたくし)よりも公共的な、「世のため、人のため」となる行い。そして注目すべきは、このthe social swipeキャンペーンが、cannes lions 2014の受賞作である点です。カンヌ・ライオンズの歴史を遡っていくと、カンヌの映画祭に付随して開催されていた、映画館でのシアターアドやPRフィルムのコンテストに行きあたります。その後、カンヌ・インターナショナル・アドバタイジング・フェスティバルとなり、とくにそのフィルム部門は「テレビCMのワールドカップ」と称されるほど、権威ある賞となっていきました。ところがそのカンヌは、今ではカンヌ・ライオンズ・インターナショナル・フェスティバル・オブ・クリエイティビティです。要するに「アドバタイジング」という限定をはずし、人々に何かをコミュニケートし、世の中を動かそうとするアイディアや仕組み全般を、審査の対象とし始めたわけです。ここにも「広告」というものの輪郭が、曖昧化している様相がみてとれます。

もう一つ例をあげると、amnesty international freedom candle。これまた2014年のcannes lions受賞作です。周知のようにアムネスティは、人権の擁護や平和の維持を目ざす団体で、政治犯への拷問、武器の保有、児童への性的虐待などに対し、反対活動を続けています。そのアムネスティがつくったのは、ロウソクです。拘束された人のかたちのロウソクに火を灯し、ロウが溶けて流れていくと、最後には子どもを抱きあげる男性の像が現れる。銃のかたちのロウソクからは、ペンが。性的虐待を受けている女の子をかたどったロウソクからは、にこやかに学校に通う姿が現れます。このロウソクが話題を呼び、SNSなどで広まっていき、アムネスティの主張が理解・共感されるとともに、ロウソクがオークションにかけられることで、アムネスティの活動資金ともなっていきました。

こうしたswipeの仕掛けやロウソクが、メッセージを送ろうとしている相手は、スポンサーと結びつけられるべき「買い手」などではなく、逆にスポンサーとなることが期待されている人々です。卓越したアイディアに投げ銭を与える観客であって、古典的な意味での「受け手」ではありません。受け手どころか、時には情報を拡散してくれる送り手(が言い過ぎならば仲介者)となったりもする人々です。

私企業も、ソーシャルに。

こうしたソーシャルなメッセージは、なにも非営利団体や公共団体の専売特許ではありません。

dumb ways to dieで検索してみてください。オーストラリアの鉄道会社が、楽しくユーモラスに事故防止を呼びかけています。

一方、skypeのsarah stump and sara paigeは、静かに淡々と二人の少女の友情を描いた作品。アメリカとニュージーランドに住む、見ず知らずの同世代の女の子たち。その二人が強く結ばれたのには、もちろんある理由があったからですが、その絆を深めたのはスカイプでした。企業が自らの商品やサービスと近いところで、ソーシャルなメッセージを発した好例と言えるでしょう。

このような社会的・公共的なテーマを企業が語る理由・背景は、多種多様にあるのでしょうが、いちばん見やすいのは、ここ10数年来の企業批判、とりわけグローバルな企業への反発です。世紀をまたぐ頃が、anti-globalismないしanti-globalizationの活動が、もっとも盛んだった時期だったように思います。攻撃対象となったのは、ナイキ、マクドナルドなど、主にアメリカ出自のグローバル企業ないしグローバル・ブランドでした。

1997年の映画「ザ・ビッグ・ワン」にて、監督マイケル・ムーアは、例の通り突撃取材を繰り返しています。標的となるのは、巨大企業のCEO。とくにナイキ社の会長フィル・ナイトへのインタビューは圧巻です。アメリカ国内の工場を閉じて、アジアや南米に生産拠点を移した結果、アメリカには失業者があふれ、アジアなどのsweatshop(搾取工場)では児童や女性が劣悪な労働環境に苦しんでいる…。生産コストを下げ、一方では多くの広告費を使い、クールなブランドイメージを築き、ただそのロゴがあるだけで高価な商品に化ける仕組みを作りあげ、荒稼ぎしているのではないか。マイケル・ムーアは、フィル・ナイトにマイクとカメラをつきつけます。マクドナルドの場合は、世界各地のローカルな食文化を破壊したと非難され、不健康なジャンクフードとして忌み嫌われたりもしました(ファストフードに対抗するために、スローフードが提唱されたりもしました)。グローバリゼーションの先兵である巨大企業は、画一的なライフスタイルを全世界に押しつけ、消費をあおり、環境を破壊し、各地で労働問題を引き起こす強欲な存在として指弾されました。

culture jammingやadbusterといったワードで画像検索をかけると、巨大グローバル企業を揶揄したり、批判したりのパロディ広告を多数目にすることになります。jammingは「妨害電波を発する」、busterは「破壊する者」の意味ですから、既存の経済システムやマス広告のあり方を逆手にとって、それらを打ち壊す…といった感じです。日本においても、渋谷宮下公園の「ナイキパーク化」反対運動などがありました。

「CSV」の今後

まぁ、こうした企業批判に対抗して、企業の側から何らかのコミュニケーション施策がとられるパターンは、幾度となく繰り返されてきました。そうした事態をうけて、さまざまな用語が生成消滅してきましたが、今世紀に入ってからは、CSR(corporate social responsibility;企業の社会的責任)の語に収れんしていた観があります。ですが、最近ではCSV(creating shared value;共有価値の創造)が浮上しているよう。ここ数年でのメディア環境の激変を背景に、「共有」や「共創」と言いやすい状況が整ったということでしょう。

2015年3月号の『宣伝会議』誌ではCSVが特集されていました。その中では「店頭でのコミュニケーションで循環・CSVで新たな価値をクリエイト ファーストリテイリング」といった事例も上がっています。不要となったユニクロやジーユーの商品を店頭で引き取り、分類して世界中の難民(refugee)のもとに届けるという仕組みです。こうした取り組みの背景にも、海外の生産工場の労働条件やブラック体質などが云々されてきたことがあるのかもしれません。

最後にもう一つ、これもそうなのかなぁと思われるものを紹介しておきます。small world machinesで検索してみてください。coca-colaは世界各地でこうした活動を展開していますが、これなどはもっとも反応され、拡散され、cannes lionsなどでも評価された事例です。coca-colaも、anti-globalizationの批判にさらされてきたブランドないし企業です。culture jammingで検索していて、北極グマ(polar bear)をキャラクターとしたコカコーラの広告のパロディを目にしました。飲み物を冷やすことで、地球温暖化が促進され、北極グマたちが困っている…といった図柄です。

冒頭のシロクマの件も、肉まんで有名な551蓬莱の社会貢献事業のようでもあり、同社の広告媒体のようでもあり。まぁ、小学生のわが子たちは、天王寺動物園が大好きなので、私としてはありがたいかぎりなのですが。