広告の周辺(1)曖昧化する「広告」の輪郭

香港でみかけた、COACHの豹柄ラッピング・トラム

 広告ないしマーケティングの最先端と言えば、AR(拡張現実)やらビッグデータやらといった話になるのでしょう。「今、○○が新しい」「これからは××だ」と、それこそバズワードが毎年のように生成消滅を繰り返す広告業界・マーケティング業界。テクノロジーに暗く、現業にいない身にとっては、その目まぐるしい変化を理解するのも困難だし、その最前線のあり様などは追尾不可能と言わざるをえません。

 ですが、新たなメディア、新奇な広告手法が次々と現れる一方で、オーソドックスな広告のあり方も、急には無くなるわけではないようです。新旧が一挙に入れ替わるというよりは、存続する従来型の広告の上に、新たな広告媒体・手法が重層していく…といった方が、現状を正確に言い表しているのでしょう。

 そう考えてくると、大学教員(しかもどちらかと言えばメディア史・広告史が専門の)が、一歩引いたといか、一歩後ろの立ち位置から、現在の広告をめぐるあれやこれやについて語るのも、まったく無意味ではないように思えてきます。広告ビジネスの競争や狂騒からちょっと距離をとって、もう少し長いタイムスパンの中で物事を考えていくことにも、それなりの今日的な意義はあるかも知れません。そう自らに言い聞かせつつ、広告についての雑感を綴っていきたいと思います(事例として挙げるものに関して、その映像・画像などを貼りつけた方がリーダー・フレンドリィだとは思うのですが、勝手なリンクにはやはり抵抗感があるなどもろもろの理由で、そうはいたしません。が、検索すればすぐにそれが参照できるよう配慮はしてくつもりです。ご容赦ください)。

揺れ動く広告概念

 「広告」って、そもそも何なのでしょうか?

 大学で広告論などを講義している身で、公言するのははばかられますが、私にもよくわかりません。広告論の授業の冒頭で、本講義の主眼は「「広告」とは何かを考えること」であり、この問いに明確な答えを私も持ちあわせていないので、受講生個々の側でいろいろ考えてみて下さい、といったことを述べたりします。おおむね、「何じゃそりゃ」という反応なのですが、中には「すでに定まっている知識を教わるより、自分で何か考えることの方が楽しそう」とポジティブに受け取ってくれる学生もいます(やがて「自分で何かを考えること」が、同時にとてもしんどい作業でもあることにも気づいていくのですが)。

 そんなことでいいのか、有用な知識を授けるのが大学教員の職務じゃないのかと思われる方も多いことでしょう。その場合の私の開き直り方は、社会学部の広告論なのだから(しょうがないだろう)と言い放つというもの。広告とはこれこれこういうものであり、どのようにすれば有効な広告戦略が立てられ、広告の制作・出稿ができるのか、そのプロセスを管理運営していけるのかに関しては、他の学部にお任せすることにして、私たちは「その時々の社会において人々は広告とは何であり、どのようなものと捉えているのか、またそれは何ゆえか、そしてそのことによってその社会のどのような特質が浮かび上がってくるのか」を考えるのである、といった感じです(だから社会学はダメなんだ、実(用の)学じゃないんだ、みたいなことも言われがちですが…。でも、学生の就職実績は他学部に遜色ないんですけどねぇ)。

 話がずれたので修正します。アカデミックな世界での一般的な「広告」の定義は以下のようなものです。

Advertising is apaid form of persuasive communication that uses mass and interactive media to reach broad audiences in order to connect an identified sponsor with buyers (a target audience), provide information about products (goods, services, and ideas), and interpret the product features in terms of the costumer’s needs and wants. (Moriatry, M. &W. (2012), Advertising & IMC: Principles and Practice(9th ed.), Pearson Prientice Hall)

「広告とは、マスメディアとインタラクティブ・メディアを用いて、広範なオーディエンスに対し、ある特定のスポンサーとそのターゲットである買い手とを結びつけるために、プロダクツ(商品・サービス・アイディアなど)についての情報を提供し、またプロダクトの特徴を顧客のニーズや欲求の観点から説明する、有料の説得的コミュニケーションのことを言う」

 なるほど、mass and interactive mediaと言ってるあたりはアップ・トゥ・デイトですし、まぁ妥当な定義なようには思えます。

 しかし、次のような事例は、どうなのでしょうか。これは「広告」なのでしょうか?

 参照いただきたいのは、Most shocking second a dayというムーヴィーです。

 発信者は、内戦の続くシリアの子どもたちの援助活動をしているNPOということなのでしょう。要は寄付donationを募るために、ウェブ上におかれた動画のようです。先の定義では、広告がコミュニケートしようとする相手は「買い手」となりますが、この動画が訴求しようとする相手を「買い手」とは呼べないでしょう。もちろん、こうしたコミュニケーションを広報(PR)とし、広告(ad)とは別概念とする立場もありえます。しかし、私には広告と広報の境界も非常に曖昧に思えるので、ここでは「広告⊇広報」として論を進めていきたいと思います。

 もう一つ、参照していただきたい事例があります。

 Blendy特濃ムービーシアター「旅立ち」編です。

 先の定義からは、広告とはオーディエンスに情報を提供し、オーディエンスの理性に訴えかけ、説得を試みるコミュニケーションであるというニュアンスが強く感じられます。しかし、この事例の場合は、この動画によって商品の特性(=使用される素材がいい)が理解され、購買につながる(ことが意図されている)とは思えません。

 また先の定義では、広告はメディアに対価を払う、有料であることが前提のコミュニケーションとなっています。もちろん、ここであげた二つの動画の製作費は、それなりに発生しているのでしょう。しかしこれらの動画が、より多くの人々に視聴されていくプロセスには、多大な媒体費が発生しているわけではないと思われます。またこれらの動画に共感した、おもしろかったとSNSなどで拡散させていった人々は、別に広告する側からその対価を得ているわけではありません。そして、これらの動画はネットで話題となり、新聞記事やテレビ番組などもに取り上げられることによって、さらにより多くの人々に知られていったりもします。

 ここであげた事例のように、地上波テレビ放送ではなかなか流せない(もしくは最初からweb限定の)長尺動画は、ここ数年で一気に広まった広告手法です(ここで、これら動画を「広告」手法としているのは、広告産業的にも、視聴する側の認識としても、それらは「広告」として定着していると判断したからです)。もちろん、こうしたやり方にも、不発に終わった例も多いことでしょう。しかし、ある動画が多くの人々をひきつけ、その人々がさらに多くの人に見せたい、知らせたい、見てもらいたいと動いたことで、生半可なマスメディアではかなわない量のオーディエンスへと到達していくケースは増えています。

 20世紀的な常識で言えば、広告とは商品の特徴を伝え、それを売ろうとするものである、送り手がコントロール可能な媒体を通じて行わる有料のコミュニケーションである…等々は自明の理だったのでしょう。

 でも、21世紀になってもう結構な年数が経っています。今世紀に入ってからの「広告概念の動揺」と、その助走の期間にあたる20世紀終盤での胎動について、数回にわたって述べていきたいと思います。過去を振り返り、後ろを向きながらも、過去という鏡に映った未来を見通しつつ、前進していければなどと考えています。