大学生に見る若者の「承認」欲求の現在

社会学のみならず、広く社会科学ないし人文学の世界において、ここ数年来、「承認」概念をめぐってはさまざまな議論がなされてきました。現代社会を語る上で、一種のキーワードとなっている観もあります(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社、2013年参照)。たとえば、2008年に起きた秋葉原での無差別殺傷事件。家族と離れ、派遣労働者として職場を転々とする犯人が求めていたのは、他者からの「承認」であったと、しばしば語られてきました。そして、とりわけ彼の場合は、ネット上でのつながり――たとえ罵倒や冷笑であっても、何らかのレスポンス――を求めていたのだとも論じられました。

現代社会を生きる人々は、さらに言えば現在の若者たちは、それほど強く「承認」を求めているのでしょうか。

この問いに対して、私の中に解答はありません。ただ思うことは、いつの時代にも若者たち(まだ何者でもない者たち)は、周囲や社会からの承認を求めてきたのだろうけれども、2000年代以降せり出してきたのは、その承認(ないし非承認)が瞬時に可視化されうるメディア環境のもと人々は毎日を過ごしているという現実なんだろうなぁ、という漠たる感想です。

以下、大学生との日々の接触の中で感じたことを、綴っていきたいと思います。

誰に承認されたいのか。

昨年、私はこの場で、大学二年生をターゲットとして想定し、「「大二病」を飼い慣らす。」というシリーズをアップしました。なので、その流れということもないですが、まず大学二年生を例にとりながら、「若者と承認」について述べたいと思います。

ところで、彼・彼女らは、いったい誰に承認されたいのでしょうか。

これは端的に言ってしまって、「周囲の学生仲間から」ということに尽きると思います。

大学生ともなれば、多くの場合、親子関係はそれなりに安定してるでしょうから、家族からの承認を強く求めるというフェーズではありません。また大学では一般的に、高校までの生徒・教師関係ほど強固な結びつきはないため、大学教員からの評価も、学生たちにとってはさほど大きな意味を持ちません(もちろん、単位は取得したいのですが)。そして大学二年生ですから、漠然と就活は意識しているとしても、まだ採用側からの評価に直面するまでには時間があります。というわけで、ふだんの友人関係が、相対的に大きな地位を占めることになってきます。

ところが、私の勤務する大学・学部の場合は、大学二年の秋に三・四年次に所属するゼミの選択・選考というイベントがあります(三・四年生の2年間、同じ教員のゼミに所属し、そこで卒業論文を書くことが必修)。そして、場合によっては第一志望のゼミの選考に漏れて、二次選考・三次選考に回らなければならない学生も生じてきます(そのゼミ選択・選考のプロセスが、就活の予行演習になっているという話も、前出の「「大二病」を…」には書いてます)。

ならば、志望するゼミの教員からの「承認」が強く求めているのだ、ということになりそうですが、最近どうも、それはちょっと違うのではないかと思い始めました。

私の所属している学部では、メディア関連の勉強をしたいという学生数に対して、その領域を専門としている教員が比較的少ないこともあり、私はこれまで例年2倍くらいの倍率で、ゼミ生を選考してきました(私の専門は一応「メディア史/広告論/文化社会学」です)。そして、その選考の基準を問われた場合は、だいたい次のような答え方をしてきました。

端的に言ってしまえば、将来社会に出て幅広く活躍しそうな学生をゼミに迎え入れたい、という点に尽きます。もちろん、本人が納得しているのなら、どういった進路をとろうとそれはアリだと思います。皆が皆、いわゆる就活をしなくてもいいとも思っています。しかし、実際には大多数の学生は就活に臨むのですから、倍率の高い選考に勝ち残り、行き先が決まった!と早々に報告に来てくれる学生の方が、ゼミを主宰する者としてはありがたいです(教員・公務員などの採用試験をパスした!も同様)。就活しないならしないで、起業する人がいてもいいし、芸術・芸能・スポーツといった領域でがんばる人がいてもいいと思います。ともかく、三年の最初のゼミの時間に、ゼミOB・OGの卒論タイトルとわかる限りの進路先or現職一覧を配るので、三年のゼミ生たちが、「おぉ、こういった進路をとった先輩がいるのか(ならば、私もそうした難関にチャレンジしたい)」と意気込むことになるようなゼミ卒業生が、こちらとしては欲しいのです。SNSなどを利用して、私を介してゼミの現役学生たちが、社会人であるゼミの先輩たちにコンタクトをとっていく…といった、よき循環が生まれればと思っています。ゆえにゼミ生選考の場では、そうしたゼミ卒業生――後輩への励みや刺激となりうるような――になる可能性が高そうな学生から、順次セレクトしようと思っています(私の判断が絶対とは思いませんが、そうした判断をするのが私の仕事である以上、気合入れてやります。全力で、目の前にいる大学二年生の将来を予想し、当てにいきます)。

もちろん、私のゼミの卒業生すべてが、思い通りの進路をたどっているわけではありません。しかし私のゼミは、学生たちの間で「あのゼミから○○に入った人がいるらしい」「××って、あのゼミ出身なんだって」と、比較的噂になりやすい存在のようです。そこから転じて、就職に強いらしいとの風聞がたったりします(「「大二病」を…」にも書きましたが、文系学部において「就職に強いゼミ」は、基本的にあり得ません。私のゼミの学生たちの就職実績は、私の教育努力の成果でも何でもないです。私にできることは、難関とされる採用試験などを突破できそうな学生を2年間一か所に集め、切磋琢磨しあえる環境をつくることのみです)。ゼミの説明会などの場で、別にこのゼミ入ったからといって、こうした進路がたどれるとか、将来が保証されるとかいうことは全くないです、と念押しはしてるのですが。

ともかく、そんなこんなで人気ゼミ呼ばわりの前評判が流れると、今度は「倍率高そう」と敬遠する向きもあり、まぁ例年2倍くらいのところに落ち着いてきます。で、ゼミ運営に適した人数の上限である20名前後まで、メンバーを絞り込んでいくことなります。

こう書いてくると、やはり大学二年生は、大学教員や就活先からの承認を求めているということなのか、と思われる方も多いでしょう。でも、やはりどうも違うようです。昨秋の経験をお話しします。

呟きという防御膜

さて、ゼミ選考の方法ですが、私の場合は面接を一律に課すことはせず、私と面談したい学生は、適宜アポイントメントとりに来て下さいと告げるようにしています。で、オフィスアワー(教員が個人研究室にいて学生に対応するための時間)などに、二年生と面談することになります。学生によっては一度だけではなく、選考期間の終盤に再度訪れる者もいます。

ある学生は、2回目の面談にて「やっぱり先生のゼミにぜひとも入りたいんです」と訴えました。

その学生の名前や学生番号は、最初の面談の際に聞いていました。そして、1回目の面談の後、私はその学生の名前を検索エンジンに入れて、ヒットしたページなどを眺めていました(「「大二病」を…」に書いたように、企業などの採用担当者も、それっくらいのことすると思っといた方がいいですよ~)。当該の学生は、私がそんなことをしているとは「露知らず」のようですが。

なので、その2回目の面談の間、私はずっと心の中で、君はこのゼミにどうしても入りたいと言ってるけど、ツイッターで「ゼミどこしよ~めんどくさいどこでもいい笑」と呟いてたやないかいと、密かにツッコミを入れ続けることになります。

では、なぜこの学生は、こうした矛盾した二つの発話をしたのでしょうか。

この場合、普通に考えれば、「ぜひとも入りたい」が教員に対する建前であり、「どこでもいい」が仲間(フォロワー)に漏らした本音となるのかもしれません。でも、本当にそうなのでしょうか。

私のゼミへの所属を断られ、二次選考へと回り、またゼミ志望届(研究計画書)を一から書き直し、新たな教員との面接に臨んだりしなければならない面倒を考えると、「ぜひとも入りたい」が本音であって、「どこでもいい」発言は、「ゼミごときでバタバタするような人間ではない自分(=大物)」を、フォロワーにむかってアピールするための演技のように私には思えてならないのです。

なぜツイッター、非公開にしないのかなぁ…(嘆息)。ツイッターをめぐっては、昨年さまざまな騒動が起こりましたが…。今の大学一年生以下は「ライン世代」なので、こんなことはもう余りないでしょうが、大学二年生だとまだまだツイッター世代です。くれぐれも就活をする際は、エゴサーチかけて、変なものは極力処置しておいてほしいものです(同姓同名多数な人はいいですが、特定されがちな名前の人は、要注意)。

それはさておき話を戻すと、やはりこの学生がもっとも意識しているのは、ツイッター仲間たちの視線だと私は思います。なぜならその学生は、私との2回目の面談の直後、「面接ちこく・雨のせい・おわり」とも呟いていました。約束した時間にちゃんと来ていたにもかかわらず、です。つまり、もしゼミの選考に漏れた際には、「あの時、遅刻さえしていなければ落ちていなかったのに…」と周囲に思われたくて、予防線を張っているわけです。

そう考えてくれば、先ほどの「ゼミどこしよ~めんどくさいどこでもいい笑」も、もし首尾よく私のゼミに受け入れられたら「そんなに必死にならなくても、人気ゼミ(とされるゼミ)に入れた自分」という自己像の呈示が可能ですし、もし選に漏れたとしても「どのゼミに所属するかごときで、評価が左右されないような、確かな価値を持つ自分」を演出できる、ないしは「ゼミ選考の結果なんて大したもんではない」と主張したいがための伏線なのかもしれません。そこまで計算づくではないにせよ、自己防衛本能が働いての、「どこでもいい」発言のように私には思えます。こちらとしては、そんな余計な労力を使う暇があれば…と言わざるをえません。もちろん「いや、お前こそ、学生の名前を検索かけてる暇があったら…」との批判も、当然あるでしょうが。

まぁそれはともかく、この学生の主眼は、私のゼミに入り、そのもとで卒論を書くということ以上に、「競争率の高いらしいゼミに入った(ようなイケてる)人間だと思われたい」にあることは確かなようです。そのためには、まずそこの教員の評価を得なければならないのですが、やはりそれは第一義的なことではありません。同学年の友人たちから「すごいやん」と言われ、サークルの後輩などに「すごいっすね」と言われたいために私のゼミに出願した、というのが真意なのでしょう(しかも、選考に漏れたとしても、あのゼミならしょうがないと言ってもらいやすい…)。

ともかく、周囲から「ダサい」「イケてない」と見られたくないという、今の大学生たちの思いの切実さは、それこそ「ハンパない」ものがあるようです。いつの世も若者とはそういうものなのかも知れませんが、現在彼・彼女らは、周囲からの評価・反応が瞬時に可視化されるメディア環境――ツイッターのフォロワーやフェイスブックでの友だちの数、リツイートや「いいね!」の数etc.――に置かれています。「面接ちこく・雨のせい・おわり」と呟いたら、すぐに「(;д;)」と返してほしいのです。

なんか大変そ~だな~~と、いまだガラケーの私としては思ってしまいます。もう50を過ぎると、「誰からどー思われようが、どーでもいいわ」みたいな開き直りもできてしまいますが、二十歳前後の学生たちにとって、仲間ウチでの相互承認は、とても重要なことのようです。巷間囁かれているラインのKS(既読スルー)問題なども、同根の現象なのでしょう。

では、メディアによってその度合いが可視化されることで、さらにエスカレートしがちな「承認欲求」と、若者たちは今後どのようにつきあっていくべきなのでしょうか。

生きてればそれでよい。

あ、なんか 筆文字の色紙を道端で売ってる人みたいになってしまいました。

要するに言いたいのは、承認への要求水準が上がったために、「承認されていない」という不全感がひろまっているのではないか、それはちょっと不毛な事態なのではないか、ということです。極論のようですが、皆から承認されなくっても、別に死ぬわけじゃないでしょうに、ということです(もちろん、承認されたいという向上心も、必要っちゃあ、必要ですが)。

大学二年生たちも、いつまでも大学生であるわけにはいきません。その多くは、やがて就職活動に巻き込まれていきます。長丁場(来年から若干後ろ倒しになるとしても)の就職活動期間中、友人たちは心の支えになってくれるかもしれませんが、将来への道筋を切り拓いていく上で、学生仲間からの承認や評価は、あまり役には立ちません。採用の場面で、学生たちを評価するのは、同年代の友人たちではなく、一世代、二世代上の大人たちです。しかも、別に友達づきあいをしようと、学生を選別してるわけではなりません。あくまでも、どのようなメリットを自分たちにもたらすかという観点から、学生の能力を冷徹に値踏みしたうえで、採否が決定されていくわけです。

多くの就活生は、エントリー先からの不承認の連打を浴びているうちに、学生仲間からの評価・承認は、もうどうでもよくなっていきます。就活の時期に、学生間の友人関係は大なり小なりいったんは壊れ、組み換わっていくものと考えて間違いないです。そして、同じ(ような)ところに内定した者同士の「承認のしあい」へと移行できる者もあれば、そこまでたどり着かない者も最終的にはでてきます(時には、いわゆるブラック企業への就職に至ってしまう者も生じてしまいます)。

新たな承認の共同体への入り口を見つけられない若者たちは、当然のことながら、たいへんな落ち込みを経験します。しかし、しかしです。定職を得ずに卒業をむかえたとしても、すべてを失い、すべての可能性を閉ざされたと思い込むのは早計です。極論のようですが、そうなったとしても、別に「命まで奪われるわけではない」のです。家族や恋人が、もう少しの間、支えてくれることもあるでしょう。そんなものない!という人でも、アルバイトなど非正規雇用先は確保できるのではないでしょうか(もちろん、何らの命綱もその手に残らない、もしくは最初からまったく手のかからない若者たちも存在します。が、そうした人々への保障や社会的包摂といった問題を論じる能力は、残念ながら私にはありません)。

ならば、もう少し生き延びていくための最低限の「承認」は、家族やアルバイト先などから、それなりに得られているということです。そうしたミニマムな承認を頼りに、どん底期(底つき体験?)を乗り切れば、いつかは世話になった人たちにお返しできる日も来るかもしれません。あまり多くの承認をいきなり求めずに、まずは最後の最後に頼れるミニマムな承認(の互酬が可能な相手)の確保を。それが確保できたならば、その関係性をとことん大事にしましょう。そうすれば、どん底からの再浮上の過程で、徐々に承認しあえる新たな友人・知人を増やしていき、自分がメンバーとしてありうる承認の共同体を再構築できるかもしれません。少なくとも、死んでしまえばそうした可能性も残らないことは確かです。そして遺された者たちには、死んだ者からの「不承認」のみが、重たく突きつけられます。

なんか、話が私の身の丈を超えてるような気がしてきました。そんなに大それたことを言うつもりはないです。

要は、目の前にいる大学生に、仲間ウチの評判ばかり気にしてツイートしてる暇があるなら、他に何かやるべきことをやってれば~と言いたいだけです。孤独な地道な行いこそが、意外と、他者との相互的な承認関係への近道かもしれません。性急に被承認を求めるのではなく、承認はあくまでも何かをやった結果であって、目的ではないと考えてほしいもんだなぁと思います。ゼミ生の選考というかたちで、毎年毎年、学生に「承認/非承認」を突きつけなければならない身としては。

《注》当然のことながら、ここで述べられている内容は、書き手の所属する組織・団体の見解・主張を代表・代弁するものではなく、あくまでも筆者一「個人」としてのものです。