「大二病」を飼い慣らす。~~採用する側の立場に立つ/海図なき時代の就活論4~~

会社員時代の経験から

前回私は、就活生に求めたいポイントとして、「相手の立場に立つ想像力を」と「プライドに根拠を」の二点を挙げましたが、まずは前者を中心にしばらく論を運んできたいと思います。

私が大学生に、「相手の立場に立つ想像力」を求めていたのは、大学教員になる以前からなのかも知れません。

プロフィールにもあるように私は大学を出て、まず広告代理店に就職しました。7年間広告制作の現場で働いて、2年間会社を休職し、大学院社会学研究科というところで修士課程を過ごしました。広告を実務としてやるよりは、研究の対象としたいし、その方が性に合っていることはわかり始めていたのですが、それではすぐには食えないことも悟りました。30歳過ぎて闇雲(やみくも)に方向転換するわけにもいかず、元いた広告代理店に戻り、また3年間会社員として働きました。そして、日曜学者みたいなことを続けていたら、34歳の時に運よく大学教員へと転職することができました。

会社員時代にも、大学生と接する機会は時々ありました。京都の大学を出て東京で働いていましたから、あまり後輩の訪問を受けるということはなかったのですが、同期入社の人などに「学生と会って話をしてやってくれ」と頼まれることはありました。広告業界で、広告代理店で働くことを志望する大学生と面談するわけです。もっぱら世間話ばかりをしていたのですが、当然、心中どこかで「この子は、この会社ないしこの業界に入ってこられる人なのだろうか」と考えながら接していました。会社の同僚として好ましいか、やっていけるのか(採用されるのか)、この世界で頭角を現しそうな人なのか否か、そう学生を評価する癖がついていました。

そういった時にも、その学生を見ていたポイントは、訪問される側のことも考えられる人なのか?と、その自己PRの根拠は?でした。OB・OG訪問する際の作法に関しては、いつかまた述べたいと思いますが、忙しい中時間を割(さ)いてるんだから…(こっちを退屈させんなよなぁ~)とか、自分が周囲の学生から高く評価されてると言われてもねぇ~(就職試験の際に、あなたを評価するのはあなたと同世代の友人たちじゃないのだから…)とか思われたらアウトです。いい学生だなと思えば、また次の人にふることもしましたが、これじゃあふられた方も困るだろうから…と、コーヒーおごってサヨウナラということもありました。

で今度は、大学教員として学生に接することになりました。最初、評価の仕方を変えねばならないのかな、とも思いました。が、ほとんどの学生が就職活動をするわけですから、教員というよりはあくまでも社会人として、「この子は社会でやっていけるのだろうか、できればうまく就活を終えてもらいたいものだが…」と思いつつ接することに、何らかの意味があるような気がしてきました。少なくとも、他の教員よりは、そうした接し方が得手(えて)なはずです。そのような学生の評価法は、大学教育としては間違っているのかも知れません。でも、もう大学なのだから、いろんな教員がいて、いろんな学生がいて、互いに求めるものやら考え方が合致した時、より深い関係がそこでできればそれでよし、くらいの感じがよいかと思い始めました。

特殊な知識や技能を叩き込もうという学部・学科ならいざ知らず、社会学部というところは、汎用性の高い社会人を世に送りだしていればよいのであって、卒業後必要に応じて専門性を身につけうる土台さえできればそれでOK、みたいに考えるようになりました。では、どんなところでもやっていけそうな人とは……。もっと露骨にいえば、就職活動において結果を出しそうな学生とは……。もちろん、企業等に就職することがすべてだと思いません(私は会社に居つけなかった人間です)。でも、就活をするならするで、腹を括って取り組んで、早期に志望度の高いところから内定を得てくる学生が好ましいし、就活をしないならしないで、この世界で生きていくんだというのがハッキリしている学生の方が、つきあっていて刺激的だし、何よりラクです。

少なくとも3~4年生の時期に私のゼミに所属する学生には、とりあえず笑顔で卒業証書を手渡したいと思っています。なので、2年生の秋に行われる、ゼミの選択・選考の際に、こちらが選ぶことができる立場ならば(ゼミ生は1学年20~25名が物理的にマックスだと思うので、それ以上に応募者があった場合は)、よりスムーズに社会に出て行き、より幅広く活躍をしてくれそうな学生を残すようにしてきました。そして、よりスムーズな社会人への移行のためにできることがあれば、という気持ちでゼミを運営してきて、すでに17年目になります。

働くということ

この「「大二病」を飼い慣らす。」にしても、実は2年生のゼミ内定者に対し、冬から春にかけてゼミのメーリングリストを通じて流してきた内容が、その元となっています。だから、年明け早々、学生たち――その多くが成人式を終えたばかり――には、次のような前書きのもと、あまり愉快ならざるメールが送りつけられたりもします。

まずは「おめでとうございます」。昨日一日は、この世の主人公としてあれたわけで、多少ならばハメをはずしても、周囲は大目に見てくれたと思います。

で、その翌日からいきなりこんなことを言うのは何ですが、スポットライトは消えました。次の機会は約2年後の卒業式となるわけですが、その時できるだけ多くの人が「行き先」をもっており、晴れやかな顔をしていることを願うのみです(もちろん、行き先=就職先でない場合もアリだと思いますが、「就職をしようとした人に、それなりに納得のいく就職先が決まってればええよねェ」ということを前提に話を進めます)。

定期試験でそれどころではないという人も多いでしょうが、陰気な話を延々と流しますので、まぁ時間の空いたときにでも眺めてください(spam扱いしないでください)……

そしてゼミ内定者たちは、せっかく主人公として過ごせた翌日にいきなり、ともかく「相手の立場に立って考える」癖をつけましょうなどと言われてしまいます。以後、厳しい現実を認識せよと、ちくちくと嫌がらせのようにメールされ続けることになります。以下、ふたたびゼミのメーリングリスト(難波発信)からの引用です。

就活と言えばすぐ「自己分析」って話になり、自分を見つめろ、見つめ直せと言われます。まぁ、それも大事なのですが、採用/不採用を決めるのはあなたではありません。あなたが何を望んでいるかも大切ですが、先方が何を望んでいるかを知らずに、自らの希望をただ投げつけても、あまり結果につながるとは思えません(もちろん、相手にただただ迎合しろということではありません。この点、回を改めてまた後述)。

相手の立場に立つ。もっと露骨に言えば、採用する側の立場に立って考えてみましょう。「働くこと」に対して各人色んな意味づけがあってしかるべきでしょうが、第三者的に見れば、働くということは「ある人がしたことに、当人以外の人(たち)がその対価を払ってもよい(払ってでもしてもらいたい)と考えている状態」ということです(実際には対価として金銭等の授受がなかったとしても、専業主婦or主夫の家事なども「働く」だと思います)。

その状態が安定的に持続し、その人の生活の自立的な再生産(要するに食べて、寝て、働いてのサイクルの循環)が可能となり、さらにはその人が扶養する家族の生活の再生産へとつながっていくこと。まず、そのことについては肯定!という立場で話を進めます。

では、やった仕事に適当な対価が払われる状態が、安定的に持続するようになるには、どうすればよいのでしょうか???

この問いに対する私の基本的立場は、前々回に述べたように、まずは「働く覚悟」を学生に確認した上で、例の「相手の立場に立つ想像力」を刺激し、残された就活までの期間を「プライドに根拠を」を心がけて過ごすよう求める、というものです。

就活とは

では、就活するなら「まず相手(採用側)の立場に立って考えてみる」というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。

就職活動の相手が企業の場合を考えると、「企業とは、(経営者や株主の利益とそこで働く従業員の生活の維持のために)利潤をあげることを第一の目的とする」というのが資本主義社会の大原則です(自社の正社員の生活すら守ろうとしない企業も増えてますが)。求人する側が、公的機関であっても、NPO・NGOであっても、「その人を採用して自らの組織に何のメリットがあるかを考える」という点では同様です。そうした視点から、エントリーしてきた学生を見て、採否を決めていくのです。

以前ならばよく、学生の側から「就活とは、単に選ばれるだけではなくて、私たちが就職先を選ぶことでもあるはずだ」といったリアクションがありました。しかし、みもふたもない言い方をすると、もちろん学生は、エントリー先は選べるのですが、就職先を選ぶことができるのは、複数の内定をもった人のみです(でも最近は内定が一つ出た時点で、だいたい皆力尽きます)。

そんな社会がおかしいというのならば、革命家やオルターナティブな生き方を目ざすというのもアリでしょう。ただし、これまで書いてきたように、私はとりあえずこの社会の仕組みの中で職を得て自立し、私(と家族)の生活の再生産をまず確保したい、というところから出発しています。時間や気持ちの余裕や、経済的なゆとりができれば、少しは世のため、人のためになりたいという気はあるのですが、今のところは馬車馬のように働いて極力早くローンを返し、親が私にしてくれたことは子どもたちにしてやりたい(行きたければ、行くことができれば大学まで進ませてやりたい)、くらいのことしか正直考えていません(毎度毎度、情けない話をします)。

繰り返します。いわゆる「ブラック」に限らず、すべからく資本主義社会において企業は、法に触れない範囲で、儲けるためには基本的に何でもやるところだ(時に法に触れてしまうこともありますが)、ということです(いわゆるブラックは、短期的な利益しか考えず、雇用者の将来など考慮にないタイプの職場ですが、「ブラック/ホワイト」の境界は非常にあいまいで、まさしくグレイゾーンというか、グラデーションをなしているものだと考えときましょう)。

なので、くどいようですが、就活において採否を分けるのは、「この学生を迎え入れることによって、当方に何のメリットがあるのか」であり、より露骨にいえば「この人を正社員とすることで、どれだけ儲かるか」に尽きます。ゆえに学生にとって就活とは、「エントリーした企業に、儲けてくれそうな人材であると思わせられるか否か」というゲームないし競技なわけです。

儲けとか利益とか言ってますが、もちろんすべての人が、その人個人の売上高が出てくる営業職・販売職に就くわけではないです。人事や総務など間接部門の貢献度は、なかなか数値化しにくいものです。でも、効率よく円滑に業務を処理・遂行してくれる人ほど、企業にとってプラスとなるのは確かです。それは企業のみならず、やはり公務員であろうとNPO・NGO職員などであって同様です。採用/非採用を分けるのは、運でも縁でもなく、「採用側にメリットをもたらす可能性の多寡」です。

昔広告代理店で働いていた頃、オーナーカンパニーの御曹司や御令嬢を社内でよく見かけました。その人たちを社員にすることで、その会社の広告費の扱いが何億と動くのならば、当然それらの人たちは採用されるでしょう(それらの人々は、育ちの良さゆえか、物おじすることなく、いい営業になることも多かったです)。やたら美男美女が多かったような気もしますが(おかざき真里『サプリ』は盛り過ぎですが)、広告(プラン)という実体のないものを売ろうとする以上、押し出しが立派でいわゆる「華のある人」の営業活動やプレゼンテーションが、顧客・得意先に受け入れられやすいという事情もあります(もちろん、プランの内容やそれを提案する人の中身が空疎ならば話になりませんが)。

生まれつき大人(時に政財界の大物)に可愛がられる術を会得しており、あか抜けていてスマートで、頭の回転が速く如才ない奴が多いなぁ、不思議な世界に迷い込んじゃったよなぁと思い続けた会社員生活12年間だったわけです。

就活をめぐっては、「内定ゲットした人たちは、結局、コネで、カオで…」というボヤキや呪詛(じゅそ)がとびかいます。でも、それらに恵まれていないというのならば、他のポイントで採用先にメリットをもたしうる人間であることを示せばいいだけのことです(てなこと書くと、簡単に言うな!とよく反発かいますが)。

要するに、就活する人は、「就活とは、就職先を選ぶのではなく、先方に選ばれるプロセスなのだ」とまず認識しましょうと言いたいのです。今の若者たちは、商品を選ぶことには長けています。大学進学に関しても、いろいろあったかもしれませんが、まぁ選ぶ立場でした。ゼミの選考ったって、倍率ほんの数倍の世界です。就活をしていてオチる(落ち込む)人が多いのは、人生で初めて徹底的に選ばれる立場に立たされ続けることが最大の要因です。恋愛で言えば、いつ終わるとなしに連日ふられ続ける――しかも理由説明なしに一方的に――といった感じです。そうした体験は、まぁ誰もこれまでしていないでしょう。

国分先生と鈴木先生

どうも、就職(活動)に関して厳しい現実をつきつけ、やたら「生きていくのはしんどい、しんどい」と連呼しているだけのような気がしてきました。がんばれ、がんばれ、耐えろ、耐えろと言われても、がんばった先に、耐え抜いた先に何があるの?と問われたら、私の場合は、子ども二人をここまで育てられたことくらいかなぁ(しかし、まだ小学生。先は長い)としか言いようがなく、とても夢のある話を返しようがないです。

でも、やっぱり、就活して行き先を見つけ、早かれ遅かれ自立した生活を送れるように努力する(し続ける)ことは、無意味ではないと思います。この冬頃、マンガ喫茶で時間をつぶす機会があり、『ヤングアニマル』の最近の号を集め、羽海野チカ「3月のライオン」の展開をチェックしてみたところ、川本ひなたが通う中学校の3年学年主任の国分先生は、高城めぐみに次のように説いていました(この回はまだ単行本化されていないようです)。

何のことだか…という向きは、既刊の全巻を読んでほしいのですが、高城はひなたの友人をいじめ、転校に追いやった首謀者ということで、放課後呼び出しをうけ続けています。でも、「ねぇ先生、親も先生もがんばれがんばれって言うけど、がんばって何かいいことあるわけ?」「勉強がんばって大学行っても、仕事がないとかいう人多いし…」「息抜きに、いじめとかやっちゃうんだよね~」みたいな状態。 

なぁ高城…

お前は今 多分 不安で不安でしょうがないんだな

何もやった事が無いから

まだ自分の大きさすら解らねえ…

お前が何にもがんばれないのは

自分の大きさを知って

ガッカリするのがこわいからだ

だが高城

がっかりしても大丈夫だ

「自分の大きさ」が解ったら

「何をしたらいいか」が解かる

自分の事が解ってくれば

「やりたい事」も

だんだんぼんやり見えてくる

そうすれば…

今のその「ものすごい不安」からだけは

抜け出せる事が出来る

それだけは

俺が保証する

ちょっと感動して、マンガ喫茶でこの一連の台詞を手帳に書き写してしまいました。

等身大のあなたでいい、ありのままが素敵なのだ、みたいな言い方がやたらとあります。もちろん、家族や恋人、親しい友人間で、そう認め合うことは重要なことです。ただ、それを赤の他人に(当然のことながら就活先に)要求しても、何かリアクションがあるとは思えません。

あと、感動したと言えば、同様にこの冬街で時間があったので、映画「鈴木先生」を観ましたが、文化祭で演劇やるのダリィ~といってる中学2年生に向かって、鈴木先生は「演じるということは、大切なことだ。今俺は先生を演じている。でもそれは自分を偽っていることではなく、ありたい自分であろうとしているだけだ。最初は演技であっても、やがてそれが板につき、いつかは意識しなくともありたい自分であれたとしたら、それは演技ではなくなるのだ」みたいな話をしてました。テレビドラマの方でも、小川蘇美(そみ)は

私もやるから 大人から見ていいなって思える

中学生をやるから ずっとやるから

と言ってました。等身大信仰とか、自然体賛美とか、とりあえずそんなものを捨てましょう。自分らしさとは、一度自分らしさをとことん消してしまわないと、見えてこないものなのかも知れません。

では、いい大学生、迎え入れたら役に立ちそうな就活生を演じればいいだけの話じゃん、ということになるわけですが、オーディエンスである大人の目はそう簡単にはごまかせない、という話を以下続けます(いっこうに楽しい話、明るい話になる気配はありません)。

《注》当然のことながら、ここで述べられている内容は、書き手の所属する組織・団体の見解・主張を代表・代弁するものではなく、あくまでも筆者一「個人」としてのものです。