Yahoo!ニュース

ザックだけに敗退責任を押し付ければ、「日本人らしいサッカー」は机上の空論に終わる

中山淳サッカージャーナリスト/フットボールライフ・ゼロ発行人

ザックの采配ミスを批判するばかりでは問題の本質は見えない

コロンビア戦を終えて改めて感じたのは、「まだまだ歴史が浅い」ということだった。

試合後、内田篤人は「世界は広い」という表現を使っていたが、それも同じようなニュアンスなのだと思う。

コートジボワールに負け、ギリシャに引き分け、コロンビアに完敗を喫した。ここであえて付け加えておくと、ギリシャは前半途中から10人で戦うことを強いられたチームで、コロンビアはスタメン8人を温存した控えメンバー中心のチームだった。

1分け2敗という成績に、これだけのバックグラウンドが揃っているのだから、もはや今回の戦いぶりを単に「自分たちの実力を出し切れなかった」という捉え方で消化するには無理がある。現実はもっと厳しかった。実力を出し切っていても、おそらく勝てなかった。そう捉えるのが妥当だ。

日本と世界のトップレベルとの間には、まだそれほど大きな差が存在している。ひと言で言えば、選手の力不足。今大会の3試合を通して浮き彫りになったのは、そのことだった。

もちろん、ザッケローニの采配が冴えなかったのも事実だが、これは何も今回に始まったことではなく、去年のコンフェデレーションズカップで明らかになったことだ。短期決戦の公式大会における采配力の無さを今さら嘆いても仕方がない。そもそも去年、あの姿を目の当たりにしながらザッケローニに監督を任せ続けたのは日本サッカー協会である。そういう意味では、協会の采配力の無さ、力不足を嘆く方が、順番的には先だろう。

いずれにしても、まず今大会を振り返るうえでの大前提として、監督の采配力が日本代表の実力ではない、ということを忘れてはいけない。監督に出来ることは、あくまでも選手が持っている能力を引き出すことによってチーム全体のレベルを引き上げることに限られる。どんなに優秀な監督を招聘しても、選手の実力とかけ離れたレベルの相手に勝つことはできない。分かりやすい例で言えば、ジョゼ・モウリーニョがJ2のチームを率いても、ACLで優勝することは難しいのだ。

日本人選手1人1人の戦闘能力の低さが際立っていた

今大会を通して、多くの選手が「自分たちのサッカー」という言葉を口にしていた。「日本らしいサッカー」、「日本人のサッカー」という言葉も、取材の中でよく聞いた。今回結果は出なかったが、「その方向性は間違っていないと思う」というコメントも聞かれた。

確かに、イメージ的には伝わらないわけではない。ボールを支配して攻撃的に戦うスタイル。相手とのボディコンタクトを避け、パスを中心にして相手守備陣を崩すサッカー。アジア予選やいくつかの親善試合で見せていたようなイメージを指しているのだろう。

しかし、サッカーは相手がいるスポーツである。自分たちのサッカーができるかどうかは、常に相手チーム、相手選手との力関係に大きく影響される。いくらボールを支配したくても、実力差が開いた強い相手に対して、ボールを支配することはできない。

実際、初戦のコートジボワール戦では、相手との実力差の関係で、選手は怖くてポゼッションを高めるための動きができなかった。ボールを奪われること、奪われて反撃をされることに恐怖を感じ、安全なプレーを選択していた。それを承知で攻撃的に前に出ろと言われても、なかなか気持ちだけでは前に出られるものではないのが現実だ。それは、2012年の欧州遠征で戦ったブラジルとの親善試合、あるいは去年のコンフェデレーションズカップで、すでに証明されていたはずだ。

唯一の例外を挙げるとすれば、コンフェデレーションズカップのイタリア戦になるのだろうが、しかしあのときも最終的には打ち合いで敗れている。あるいは、今回のコロンビア戦も、相手の試合巧者ぶりに飲み込まれ、結局は打ち合いの末に完敗を喫した。

また、攻撃的に戦えたこの2試合については、相手の問題を抜きにして語ることはできない。たとえば初戦のメキシコ戦に勝って省エネモードで戦おうとしていたイタリアは明らかに日本に油断していたし、レシーフェの暑さにやられて集中力も欠いていた。また、今回のコロンビアはすでにグループ突破を2軍メンバーだったという背景がある。

当然、日本も同じように何らかの問題を抱えて戦っていたので片方だけを言うのは公平ではないが、要するに、これらの試合も日本の自力だけで攻撃的に戦えたわけではないということである。

大事なのは、サッカーの基礎、サッカーの原点を見失わないことだと思う。

ボールを支配するためには、1人1人のスキルが、最低でも相手選手と互角以上であることが前提条件になる。キック、コントロール、ドリブル、身のこなし、判断力、スピード、ボディバランス、そして球際の競り合い……。

日本人は技術が高いと言われるが、試合になるとそれほど技術が高くないように見える相手に1対1で負けるシーンが多いのは、1対1では勝てないという前提でサッカーをしているからなのかもしれない。苦手だからと言って、サッカーの基礎から目を背け、組織論や戦術論だけで強化を図っていても、やはり限界はある。

少なくとも、1対1の戦いが際立っている今大会のような傾向の中では、勝負以前の話になってしまう。だからこそ、日本人選手の1人1人の“戦闘能力”の低さが浮き彫りになった大会だと感じてならないのだ。おそらく、テレビで今大会を見ている人でも、他の試合と見比べてみれば、そのように感じていることだろう。スタジアムで観戦すれば、なおさらそのことを実感できるはずだ。

「日本らしいサッカー」、「自分たちのサッカー」は机上の空論

この問題は、次の監督を誰かにすれば解決するという簡単な話ではない。逆に言えば、代表監督選びとは別に、もっと先を見据えた強化プランに本格的に着手するいいタイミングだと思われるのだ。

「日本のサッカー」、「日本人らしいサッカー」、「自分たちのサッカー」。

今まで多く語られているこの手の話は、すべて机上の空論に過ぎないし、勝手に日本の可能性を限定した考え方に思えてならない。少なくとも、日本のスタイルを考えるのが、まだサッカーの歴史の浅い日本人だとすれば、それほど危険なことはないと思われる。

まずは、コンスタントにチャンピオンズリーグでプレーする選手を何人増やせるか。そういう選手が増えれば、自然と代表チームも強くなる。それが世界の基準だ。

奇しくも今回、日本の中で最も良いパフォーマンスを安定して見せていたのは、シャルケでチャンピオンズリーグの舞台を数多く踏んでいる内田だった。大きな舞台でも落ち着いて、いつも通りのプレーができたのは、決して偶然ではないのである。

日本サッカーは、ここ20年近くで確かに急激に成長を遂げている。しかし、すべての国、すべての選手には、1日24時間、1年365日という平等の時間が与えられている。歴史ある強豪国がさぼってくれるならまだしも、彼らの多くは欧州のトップレベルで日常的にしのぎを削っているのだから、そこに追いつくのはそう簡単な話ではない。

そのために、日本が今何をすべきかは、改めて別の機会に書こうと思うが、4年前の奇跡の勝利で問題を先送りしたツケは、間違いなく4年後の今回に回ってきたと見ていいだろう。

もし今回のチャンスを逃してしまうと、間違いなくまた歴史は繰り返される。そして、代表監督だけを変えればすべてが変わると勘違いしたまま、同じ歴史を刻んでいくことになるだろう。

日本サッカーの歴史は、まだまだ浅い。内田の言葉を借りれば、世界は広い。その謙虚な気持ちを忘れないことが、成長への第一歩だと思えてならない。

サッカージャーナリスト/フットボールライフ・ゼロ発行人

1970年生まれ、山梨県甲府市出身。明治学院大学国際学部卒業後、「ワールドサッカーグラフィック」誌編集部に入り、編集長を経て2005年に独立。紙・WEB媒体に寄稿する他、CS放送のサッカー番組に出演する。雑誌、書籍、WEBなどを制作する有限会社アルマンド代表。同社が発行する「フットボールライフ・ゼロ」の編集発行人でもある。

中山淳の最近の記事