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「貧困」を見つめるまなざし ~我々は何を貧しいとみなしているか:その弐

中田大悟独立行政法人経済産業研究所 上席研究員

その壱から続く】

「最近の若いやつらは(以下省略」

ところで、私の本職は経済産業省所管の独立行政法人の研究員ですが、研究者の世界の末席におります関係上、縁あれば大学で非常勤講師として教壇に立つことがあります。これまでも、いくつかの大学で、経済政策や社会保障に関する講義を担当した個人的経験があります。そこで何度か、先に説明したような貧困の概念や合意基準アプローチについて話をしたことがあるのですが、ある時、気になって、受講している学生たちに対して、阿部先生のアンケートのどの項目について当たり前の必需品であると合意できるか質問してみたことがありました。講義中の事でしたから、受講生に挙手をしてもらうことで、おおよその合意度合いを知ろうとしたのですが、そこはそれ、恥ずかしがり屋の日本人学生のことですから、あまり高い比率で手が挙がるということもありません。そこで翌年、新しい受講生全員に、阿部先生のアンケートと全く同じ質問項目で調査してみました。その結果が、次のグラフになります。

首都圏私大生を対象にしたアンケートとの比較
首都圏私大生を対象にしたアンケートとの比較

注意していただきたいのは、阿部先生のアンケート調査が、偏りなく国民全体の意識を反映させられるように、調査対象者の選び方など、ちゃんと統計学の手法に基づいて実施されているのに対し、私が行った学生アンケートは、二十歳前後の若者を対象にしており、しかも、同世代全体を代表するものでもなく、首都圏のある程度の学力が無いと合格できない私立大学に在籍する若者たちの中で、私の講義に出席するという変わり者たちだけを対象にして実施したものであるという事です。この意味で、アンケート結果は非常に偏っているはずであり、その解釈は極めて限定的なものになります。(サンプル・セレクション・バイアスといいますが、ネット上の世論調査でネトウヨ的な意見が多数を占めてしまう、というアレな現象です)

それを前提としたうえで、結果を眺めてみてほしいのですが、アンケートの結果は私を驚かせるのに十分なものでした。一見して判るように、阿部先生が実施された調査にくらべて、明確に必需品としての合意水準が貧相なのです。つまり、若い彼ら/彼女らは貧困に冷淡だ、ということになります。ちなみに、このアンケートは、複数の大学で実施しましたが、その全ての大学は、設立には宗教法人が関与しており、キャンパス内を歩けば、礼拝堂のみならず、其処彼処に宗教的な理念が感じ取られる大学です。その意味でも、この結果はなかなか味わい深いものがあるのですが、それにしても、と思わずにはいられませんでした。

このような結果は、いくつかの解釈が可能かもしれません。例えば、二十歳前後の若者にとって、特に、首都圏の私立大学まで進学できている相対的に裕福な家庭で育った若者たちにとって、子育てや教育環境の重要さというのは、極めて実感の薄い、遠い世界の事柄であったかもしれません。労働経験にも乏しく、金銭感覚も厳しくない彼ら/彼女らからしてみれば、子供の学用品一つひとつを買い揃える事など造作もないことのように思えるかもしれません。そして、そんな事柄であれば、わざわざ政府や社会が支援せずとも得られるはず、と考えたのかもしれません。

ですが、ある意味において、このアンケート結果には得心させられるものがあった、というのが私の率直な感想でした。私は社会学者ではないので、世代論のような議論は苦手ですが、やはり彼ら/彼女らの育った時代というのを考えざるを得ません。良かれ悪しかれ、彼ら/彼女らが育ったこの二十年間は、日本社会が保守化していった時代です。勿論、保守化とは何か、という議論はあるわけですが、外交や歴史認識のみならず、経済政策においても、自律する個人を前提とした小さな政府を志向するような変革が多々見られました。そういう時代精神の中で、彼ら/彼女らが「自己責任論」を当然の規範として受容していったとしても不思議ではないでしょう。

私は1973年生まれの団塊ジュニア世代ど真ん中の若者中年なのですが、私の世代と、今の大学生世代を比べてみたとき、ここは全く異なるな、と感じる点があります。それは、私の世代までは、いわゆる革新的な思考、左寄りの思想にかぶれることが、どこかインテリに近づく為の通過儀礼だとみなされているような風潮が残っていたと思います(さすがにもう学生運動に突っ込んでいくような人は殆どいませんでしたが)。これは前世代から引き継いでしまった傾向だったでしょう。

しかし、今の大学生世代は違います。幼い時にはすでに、左派の論客の説得力の乏しさも手伝って、保守派が論壇で優位な立ち位置に君臨していた世代です。個の自立を強く意識するような社会の風潮は、長期的な景気停滞、累積債務の増大、社会保障の効率化という経済現象によっても強化されていきました。そういう時代精神を旺盛に吸収した彼ら/彼女らが、知らず知らずのうちに、社会に依存せずに自己責任で行動できる人間像を規範的としているとしたら、このような結果はごく自然なものとして解釈できます。

今後、彼ら若者たちが、振り子が振れるように、年齢とともに温情的な考えに寄っていくのか、はたまた、三つ子の魂百までもと、保守的な考え方のまま年老いていくのか、楽しみではあります。

極東で蘇る自己責任論

先にも説明したように、貧困の概念が精緻化していったのには、貧困に関する科学的統計調査が始まったことが強い影響を与えています。では、なぜそのような調査が企画され、実行に移されたのでしょうか。わざわざ、巨額の費用をかけてまで、貧困の実態を明らかにしようとしたのには、どういう事情が背景にあったのでしょうか。

ブースやラウントリーらが大規模な貧困調査を開始する前、イギリス国内で巻き起こった大論争がありました。それは、貧しい人が貧しいのはどこに原因があるのか、という極めて本質的な問題に関する一大論争でした。論争では、次の対立する見解が真っ向からぶつかり合いました。一方は、貧困は貧しい人たち個々人に原因があるのであって、個人にアプローチして自助努力を促していくことが貧困解決への正しい道だと考える人たちで、いわば個人原因説の立場に立つ人たちです。これらは、当時、実際の慈善活動の現場にいた活動家たちに強く支持された主張でした。そして他方は、貧困は社会の中で生み出された社会現象であり、社会を変革していくことでこれを解決していかなければならない、と考えて、いわば社会原因説を唱える人たちであり、当時の英国社会主義者たちに強く支持されました。こういった論争を背景にして、科学的に決着を付けていこう、という意図を持ち、ブースらの貧困調査は開始されたのです。

さて、ブース、ラウントリーらの貧困調査の結果は、個人原因説と社会原因説のどちらを支持したのでしょうか。結論だけ述べると、彼らの調査は社会原因説を強く支持する結論を導き出しました。個人原因説に立つ慈善活動家たちは、活動の実体験から貧しい人たちの原因が、浪費や飲酒、不就労などにあると考えていましたが、実際に得られたデータからは、貧困層の多くは就業している人たちであり、低賃金などの労働環境、子供が産まれること等から生じるライフサイクルのリスクが貧困転落の主要因であり、彼ら/彼女ら自身の生活習慣はさしたる影響を与えていない、という結果となったのです。これは、当時の人々の貧しさに対する認識に大きな一大転換を引き起こしました。それまで、多くの人々は、当然のように貧しさを個人の責任に帰着させてきました。だからこそ、貧しい人たちを強制収容所のような保護施設に隔離したり、懲罰的な処遇においてきたりしたわけですが、事実としての貧しさは、個人の責任ではなく、社会で構造的に発生したものである可能性が高かったのです。まさに、「貧困(Poverty)」という社会現象が人々に認識された瞬間と言っていいでしょう。

社会で発生した貧困には、社会として解決を図る必要がある。そして、その国の構成員であれば国家から保障されるべき生活水準がある、というナショナルミニマムという今日広く知られる概念はこの調査が起点となって生まれたものです。少なくとも欧州は、こういった議論や論争を経験したうえで、現在の社会保障制度構築に辿りついています。それゆえに、貧困解決にむけた視点は我々よりも高いところにあるのかもしれません。もっともこういった議論は、我われ日本人と無関係というわけではありません。日本国憲法第二十五条にある、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」という、我われ日本人の生存権を定めた条文は、まさにこれらの議論が土台となって定められているものなのです。そして、この条文を根拠にして、生活保護をはじめとする社会保障制度は構築されているわけです。

しかしながら、そもそも日本国憲法が占領下で定められたものだからなのか、生存権さえ天から降ってきたかのように思われているからなのか、貧困というものについて、それを社会現象と捉えるのではなく、個人の資質の問題と捉える、英国の貧困調査以前の議論が非常に多いように思えます。貧しい個々人の現状と向き合い、適切な支援を送るケースワークという援助手法は大事なのですが、貧しいことの責任を個人になすりつけるだけの議論は、社会を前進させるものではないということは、そろそろ日本でも認識されてよいのではないでしょうか。

貧しいのは努力しないからだ。やるべき努力を怠らなければ貧しさに苦しむこともないのだ。そういった前近代的な貧困観が根強いことが、この国の貧困対策の足かせになっていると考えてよいでしょう。これは、ある種の努力神話といっても良いのだと思いますが、日本人は高度成長期を経験したこともあってか、額に汗して働けばなんとか生活していけるものだ、という錯覚が未だ解けていないのです。先に紹介した、相対的剥奪に関する必需品のアンケート調査の結果が、それを物語っているのではないでしょうか。そんなもの努力すればなんとかなるだろう、と前向きに考えているからこそ、貧困に対して冷淡でいられるのです。

人生いろいろ、仕事もいろいろとは、この国の名宰相が残した至言ですが、真面目に働いていても、何かをきっかけに貧困に囚われるということは、誰にでも可能性のある話です。直接の原因は倒産かもしれない。いわゆるブラック企業での労働で心身を病んでしまうかもしれない。家族の病気かもしれない。そりの合わない同僚・上司との人間関係が原因になるかもしれない。ひょんなことで低賃金、無収入になってしまうのです。その意味で、貧困は誰しもが陥る可能性のあるリスクなのです。

もう努力幻想は捨て去ろう

最後に、努力が本当に我々を貧しさから遠ざけてくれるのか、ということについて疑問を呈するデータを皆さんに紹介しましょう。OECD(経済協力開発機構、Organisation for Economic Co-operation and Development)という先進国が加盟する国際機関では加盟各国の経済状況について、様々な分析を実施しています。そのOECDの雇用労働社会問題局が作成公開しているOECD Family databaseというものがあります。そこに、子育て世帯の相対的貧困率についての各国比較データがあるのですが、このデータが非常に強いメッセージを持っているのでご紹介しましょう。

まず、子供と親夫婦で構成される家庭の貧困率を、一人の親が働いているのか、もしくは親が二人とも働いているのかという区分で、貧困率がどう変化するのか見てみましょう。

夫婦と子供からなる世帯の相対的貧困率
夫婦と子供からなる世帯の相対的貧困率

我われ日本人がもっているであろう努力神話が正しければ、片親が働いて、片親が働かない世帯(ほとんどは専業主婦世帯と推察されます)に比べて、夫婦二人で共働きする世帯の方が圧倒的に貧困率が低くなるはずです。データをみると、確かにほとんどの先進国ではそういう関係が見られます。ところが、日本に着目してみると、片親のみが就労する場合(11.0%)と両親が共働きする場合(9.5%)では、わずか1.5%の改善しか見られません。夫婦二馬力で働けばなんとかなる。そんな努力神話は、データの上では極めて怪しいものであることが分かります。

続いて、より貧困率が深刻な状況にある一人親世帯の貧困状況を、その親の就労状態別に見てみましょう。

一人親と子供からなる世帯の相対的貧困率
一人親と子供からなる世帯の相対的貧困率

このデータはショッキングな現実を我々に叩きつけてくれます。そもそもの貧困率の高さもさることながら、なんと日本においては、一人親世帯で親が働いていた方が(54.6%)、親が働いていない(52.5%)よりも貧困率が高いのです。少なくともデータの中でそのような挙動をみせるのは先進国の中で日本だけです。日本人の努力幻想からすれば、一人親であっても、懸命に働いて子育てすれば貧困から抜け出せるであろう、というのが望ましい結論ですが、データはそんな甘い期待を叩き壊してくれます。疲弊しているとはいえ世界第三位の経済大国日本ですから、様々な支援政策を梃にして、働けることと貧困脱却はセットであってほしいと思うわけですが、そういうメカニズムはこの国に存在していないということが分かります。

勿論、これらのデータは各国の集計データですので、どういう属性の世帯が、どういう行動をとっているか、ということを厳密に知ることはできません。その意味では、一定の留保をもったうえでデータを解釈する必要がありますが、日本が他の先進国に比べて特異な挙動を示していることだけは間違いありません。

貧困と正しく向き合うために

このコラムを通じて、私は、貧しさは全部社会のせいだ、と言いたいわけではありません。貧困は社会の中で生じる現象なのだから、社会全体で対策を講じていかなければならない問題だとお伝えしたいのです。誰しも安心に包まれた人生を歩みたいと思っています。しかし、何かが原因でそこから外れてしまう人が現れます。それを個人の責任になすりつけて終わらせるのでは、何も改善しないのです。貧困に陥らないように社会としてどういう仕組み、制度を組めばよいのか。貧困に陥ってしまった人たちに対して、社会はどういう支援を届ければ良いのか。全ての議論は、そこから出発しなければならないのです。

独立行政法人経済産業研究所 上席研究員

1973年愛媛県生れ。横浜国立大学大学院国際社会科学研究科単位取得退学、博士(経済学)。専門は、公共経済学、財政学、社会保障の経済分析。主な著書・論文に「都道府県別医療費の長期推計」(2013、季刊社会保障研究)、「少子高齢化、ライフサイクルと公的年金財政」(2010、季刊社会保障研究、共著)、「長寿高齢化と年金財政--OLGモデルと年金数理モデルを用いた分析」(2010、『社会保障の計量モデル分析』所収、東京大学出版会、共著)など。

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