新総監督に期待が寄せられる    エクサンプロヴァンス音楽祭

オノレ演出 《トスカ》第2幕 Jean-Louis Fernandez撮影

 1948年に始まったエクサンプロヴァンス音楽祭は、1994年以降劇場の改修を伴う運営対策の大幅な改革の後に再スタートを切り、欧州の演出の流れを示唆するような大胆なプログラムで一躍有名になった。再現芸術としてのオペラ演出において、新解釈はどこまで許容されるべきなのだろうか。

エクサンプロヴァンス音楽祭2019

 7月3日、新総監督ピエール・アウディにとって初めてのシーズンが開幕した。オープニング演目はモーツァルトレクイエムという渋い選択だが、実は、気鋭のイタリア人演出家ロメオ・カステッルッチが視覚化し、目と耳の両方から死を捉える待望作なのだ。現在はタピストリー美術館となっている旧大司教館中庭での屋外上演が売りで、舞台から目を上に移すと星空が見られる贅沢なロケーションなのだが、この日は生憎の大雨に見舞われ開演は大幅に遅れた。それでも、雨の中を広場で待っていた甲斐があったと思わせる素晴らしい出来栄えで大成功を収めた。

 もともと演出付きの上演を想定していない宗教曲を視覚化する試みは、近年流行している。視覚に気をとられ、音楽に集中できない場合もあるが、「作品に反する」ことはあまりない。

 しかし翌日の演目《トスカ》は、プッチーニが時代設定もト書きも徹底し、音楽とドラマが密接に結びついたスリリングなオペラである。それに手を入れる権利は、はたしてどれ位演出家に与えられるのもなのだろうか。

クリストフ・オノレの《トスカ》

 配役表に「プリマドンナ」と、実際には存在しない役名が書かれていたのを見た時には一抹の不安が過ぎった。しかし実際は一抹どころか、全てがこの「現代に生きる元プリマドンナ」を軸にした作品にリメイクされていた。世界の歌劇場でトスカをはじめ主役を歌っていたアメリカ人ソプラノ歌手、キャサリン・マルフィターノ扮する「プリマドンナ」が若手のキャストや合唱も自宅に呼び込み、実録版トスカを作るというストーリーになっていたのだった。

 幕が開くと、あのドラマティックなオーケストラの出だしを待っている耳に、オペラの中核ともなるトスカのアリア「歌に生き、恋に生き」が流れて来て肩透かしを食わされる。自分の録音を聴いているらしい「プリマドンナ」の表情が舞台後部の大スクリーンに映し出される。そのうちに英語のセリフが始まり、ようやく状況が飲み込めた頃、キャスト陣が軽装で入って来て、オペラがレッスンのように始まる。

 ここまではまだいい。しかし、その時々に歌っている人物ではなく「プリマドンナ」の顔がスクリーンに大きく映ったり、本当はもっと後に登場するはずの役を任されている男性歌手達がカード遊びをしたりしながら、色々な出来事が背景で起こるので、歌やストーリーに集中できない。音楽が流れていく筈の所で「プリマドンナ」が中断させ、コメントが入った時には腹が立った。挙句の果てに、政治犯アンジェロッティとカヴァラドッシの対面や匿うまでのやり取りなどストーリー展開の鍵となる場面でも、緊迫感のないシチュエーションで歌わなければならないため、音楽的効果が出ない。主役達がアリアを歌う時には、スクリーンにマリア・カラスやプラシド・ドミンゴ等の映像が流れ、今歌っている歌手達に失礼極まりない。そのまま不可解な演出は暴走していき、第3幕では劇中のコンサート風景と思われる演奏会形式でお茶を濁し、「最後には辻褄があうのかもしれない」という一縷の望みも断たれる結末を迎えて終幕となる。 

音楽的満足感

 しかし嬉しい収穫もあった。カヴァラドッシ役のジョゼフ・カレヤの最高音が悉く掠れてしまう以外は聴き心地の良い歌手陣で、特にトスカのエンジェル・ブルーは、一度普通のトスカで是非聴いてみたいと思わせる実力を秘めたソプラノだ。スカルピアのアレクセイ・マルコフも、よくいるスカルピア役のバリトンに欠けている「男爵」風情があり、美声と音楽性でこの悪趣味な演出を浄化していた。この2人は今後のシーズンにハンブルグ歌劇場で聴けるという。

 小さめの役も充実しており、アンジェロッティ役のサイモン・シバンブ、堂主のレオナルド・ガレアッツィ、シャルローネのジャン=ガブリエル・サン・マルタン、スポレッタのマイケル・スモールウッドまで粒が揃っていた。そして、一度緊迫したドラマから離れてみることで、音楽的な再発見が随所に見られた。指揮のダニエーレ・ルスティオーニも、緊迫感が欠けた部分は演出のせいとして、舞台上に上がった第3幕など、発声に支障をきたしている部分のあるカレヤが一番歌いやすそうなタイミングに柔軟に合わせる準備を常に整えながら、情熱はしっかり音楽にj注ぎ込み、この公演をなんとか救っていた。リヨン国立歌劇場管弦楽団と同合唱団・児童合唱団も好演した。

演出の境界線

 さて、演出家にこれだけ作品を変えてしまう権利があるのだろうか。読み替え演出は作曲当時と現代との価値観の隔たりを解消したり、オペラを敬遠していた人に親近感を持たせる効能もある。しかし《トスカ》自体がスリリングなのでその必要は少なく、結果的に今回の演出はかえってその緊迫感を失わせていたので、価値を見出せない。このオペラをよく知っている人には怒りを覚えさせ、知らない人には「やっぱりオペラって不可解」と思わせるのではないか。個人的には「作品や出演者に対する暴力だ」とまで思う。

 しかし前に座っていた前々総監督のステファン・リスネール氏は平然とし、隣りの自治体首長も何食わぬ顔をしていた。そして外国からの招待客は「フランスらしい演出」と口を揃えていた。フランス人達にとっては、隣国イタリアの傑作《トスカ》の効果が薄れても、真新しかったら良いのかもしれない。だからこそ、自国文化は自分達で守るか、然るべき人に守ってもらわなければならないのである。レバノン人のアウディ新総監督はオランダ国立歌劇場で培った28年間の経験を生かし、作品が許す境界線を越えない演出を目指してくれるよう期待したい。