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井上康生が語る言葉の刃と柔道の真価

中西正男芸能記者
今の思いを吐露した井上康生さん(全ての撮影・倉増崇史)

 9月いっぱいで9年近く務めてきた全日本柔道男子強化監督を退任した井上康生さん(43)。現在も全日本柔道連盟の強化委員会副委員長とブランディング戦略推進特別委員会委員長を兼務するという重責を担います。今こそ発信すべき柔道の価値。そして、インターネットでの誹謗中傷が社会問題化する中、妻の東原亜希さんのブログに向けられた言葉の刃への思い。今の胸の内を吐露しました。

4時起床

 今年のオリンピックが終わった直後は「終わったんだなぁ」という感覚もありました。ただ、それと同時に痛感したのが「自分は“マグロ”みたいなものなんだな」ということでした。要は、止まるとダメな人間。それを強く感じました。

 なので、一時的にはホッとした思いもあったんですけど、すぐにまた動き始めてましたね。

 私は、朝がすごく早いんですよ。4時か5時には起きてます。ルーティンというか、基本的にその時間に起きるんです。

 ここにも、これまでの流れが表れているといいますか、全日本の監督をしていると、とにかく仕事で家を空けることが多かったんです。

 海外に行ったら半月から1カ月は帰ってこない。国内にいても合宿がある。家でゆっくり過ごすことはなかなかない。逆に言うと、家で家族と過ごす時間というのは、すごく貴重なものだったんです。

 となると、自分のために時間を使う。ここにもすごく気を遣うようになりました。例えば、今でもトレーニングは続けてるんですけど、家にいて家族もいる時に「ちょっとトレーニングに行ってくる」とは口が裂けても言えない(笑)。

 そうなると、家族が寝ている間に起きてトレーニングをする。そういうクセみたいなものがついちゃったんですよね。

 家にいる時くらいは、その時間を大切にする。ナチュラルにその思いが体に染みつくくらい、この9年近くは苛烈な仕事をしてきたんだなとも感じています。

 ま、なんだかんだ言ってますけどね、結局、シンプルに家庭内では非常に弱い立場だということです(笑)。

柔道の意味

 これまで監督をやってきた中でも改めて思いましたし、一人の柔道家として選手時代から思ってきたことでもあるんですけど、我々の究極の目標は「勝ってメダルを取ること」ではない。

 メダルはミッションの一つで、競技や人生で培ったものをどう社会に生かすのか。本当の目標はそこだと思っているんです。

 柔道ならではの価値、発信。それが何なのか。これまでも考えてきました。一つ確実に言えることは、柔道は対人競技です。そして、武道です。肉体もですけど、精神を磨くことを重んじています。心身を磨くためには相手が要る。切磋琢磨の中で成長するわけですから。

 新型コロナ禍で人との距離や接し方の精査が求められる世の中になりました。柔道は“相手がいて初めて成り立つ競技”です。

 今の世の中だからこそ、その意味がより問われますし、逆に言うと今こそ柔道ならではの部分を発信すべき時代だとも思うんです。

 今回のオリンピックで強く印象に残ったのが、試合後の選手たちのコメントでした。

 これまで当たり前にできていたことができなくなっている。オリンピックという場があること。試合ができること。それも当たり前ではない。

 そこから生まれた意識の変化だったと思うんですけど、メダルを取った選手たちがまず言うことが「うれしさ」や「達成感」ではなく「感謝」だったんです。

 柔道という相手が必須で、しかも体をぶつけあう競技だからこそ選手たちが強く感じたんだと思いますし、そこにこそ発信すべきものもあるんだろうなと。

 一方、これも事実ですけど、人間は忘れる生き物です。だからこそ、今回の感覚を体験した選手が次は指導者になった時に「当たり前は当たり前じゃない」ことを次の選手に教える。これもまた大切なことだと考えています。

 こんなことばっかり言うと「金八先生」みたいになっちゃいますけど(笑)、“先に生まれる”と書いて“先生”なんですよね。偉い偉くないじゃなく、先に生まれた者が伝えていく。それが“先生”の元来の役割だと思うんです。

 これまで監督という仕事をやってきたんですけど、家では4人の子供たちの親でもあります。自分の息子も柔道をやっているんですが、実は、柔道だけでなくラグビーもやっているんです。

 どちらも直接的な力勝負にもなりますし、そこで日本人が世界と渡り合う。ここは柔道とラグビーに共通する価値だと思うんですけど、ラグビーは団体競技で、柔道は1対1の戦いです。

 同じように体がぶつかり合う競技ですけど、ラグビーならポジションごとの役割が求められるでしょうし、柔道なら自分がどう戦い抜くかが求められます。

 なぜ息子に両方させているのか。横断的にスポーツをやらせることで、それぞれからの学びがさらに精査されることにもなるんだろうなと。そして、最終的には自分に合ったものを選べばいい。

 あらゆる経験を積んだ上で、最終的には社会に生かしてもらいたい。自分の子供たちを育てるということに関しても、究極の目標はそこだと考えているんです。

言葉の刃と柔道

 その意味で言うと、妻は本当にうまく子供たちを育ててくれていると思います。たくましく、強い人だと思います。

 何というのか、良い意味で私を当てにしていないんです。頼り切っていない。子供たちに「パパはいないんだから、当てにしちゃダメよ」みたいなことを言うわけでもなく、絶妙なトーンで子供たちに自立を教えてくれています。

 イニシアチブも、インセンティブも、家庭内の私には何もないですけど(笑)、それをやってくれている時点でただただ感謝です。

 一方、これは私も選手時代から経験してきたことですけど、オリンピックの前後というのは、あらゆるプレッシャーがのしかかります。

 そして、近年特に問題になっている誹謗中傷もつきまといます。私自身も負けた後にありえないようなことを言われたこともありました。

 理想論というか性善説的なことで言うならば、なくなってほしい。心の底からそう思います。

 しかしながら、現実的になくなることはない。ならば、悲しくもあり、残念でもあるんですけど、それを前提にどう処していくのか。それが必要だと思います。

 妻のブログに対して否定的なご意見をいただくこともありました。

 私は妻を非常に強い女性だと思っています。私ならくじけるであろうことも、よく受け止めてきたなと感じています。

 でも「よく受け止めた」という個人の我慢で処理されるべき問題ではないと思いますし、法律も含めてシステムとして整備されるべき領域だと強く思います。

 個人の我慢頼みだと、結局これから先の子供たちにも辛い状況を引き継ぐことになってしまいますから。

 強い。たくましい。そんな人も人間ですから。人間は傷つきますから。

 そんな時代だからこそ、本来スポーツが持ってる価値を発信すべきだと思うんですよね。

 国境、宗教、言語…。そういったものを超えて一つになれる。柔道でもラグビーでも、言葉が通じなくてもルールを理解していればやることができる。

 そして、負ければ悔しい。勝てば自信になる。自分の成長にもつながるし、相手をたたえることにもつながっていく。

 この感覚というのは改めて言うまでもないくらい言われてきたことですけど、今の世の中ではさらに重要になっている気がします。

 自分がいつリタイアするのか。これは分かりませんけど、その頃に柔道をやっている人が増えていて、子供たちが「柔道って面白いね」と言ってくれている。

 もちろん他のスポーツでもいいんですけど、自分がやってきたのは柔道なので、柔道に多くの人が触れていただき、心身を磨いている。そんな状況が作れていたら本当にうれしいですし、そうなれば、自分が生きてきた意味を少しでも感じられるのかなと思っているんです。

■井上康生(いのうえ・こうせい)

1978年5月15日生まれ。宮崎県出身。東海大学体育学部武道学科卒業、同大学院体育学研究科修士課程修了。東海大学体育学部武道学科教授。5歳から柔道を始め、切れ味するどい内股を武器に世界選手権3連覇。シドニーオリンピックでは金メダルを獲得した。08年に第一線を退き、2年間の英国留学を経て11年から全日本強化コーチ。12年に全日本男子監督に就任する。16年のリオデジャネイロオリンピック、男子は金メダル2個を含む7階級全てでメダルを獲得。今年の東京オリンピックでは史上最多5個の金メダルに導き、9月末で監督を退任した。現在は全日本柔道連盟の強化委員会副委員長とブランディング戦略推進特別委員会委員長を兼務する。08年にモデルの東原亜希と結婚。4人の子供の父親でもある。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

芸能記者

立命館大学卒業後、デイリースポーツに入社。芸能担当となり、お笑い、宝塚歌劇団などを取材。上方漫才大賞など数々の賞レースで審査員も担当。12年に同社を退社し、KOZOクリエイターズに所属する。読売テレビ・中京テレビ「上沼・高田のクギズケ!」、中京テレビ「キャッチ!」、MBSラジオ「松井愛のすこ~し愛して♡」、ABCラジオ「ウラのウラまで浦川です」などに出演中。「Yahoo!オーサーアワード2019」で特別賞を受賞。また「チャートビート」が発表した「2019年で注目を集めた記事100」で世界8位となる。著書に「なぜ、この芸人は売れ続けるのか?」。

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1999年にデイリースポーツ入社以来、芸能取材一筋。2019年にはYahoo!などの連載で約120組にインタビューし“直接話を聞くこと”にこだわってきた筆者が「この目で見た」「この耳で聞いた」話だけを綴るコラムです。最新ニュースの裏側から、どこを探しても絶対に読むことができない芸人さん直送の“楽屋ニュース”まで。友達に耳打ちするように「ここだけの話やで…」とお伝えします。粉骨砕身、300円以上の値打ちをお届けします。

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