細川たかしさんの「北酒場」、ちあきなおみさんの「喝采」で日本レコード大賞を受賞した作曲家・作詞家の中村泰士さんが、12月20日に肝臓がんで旅立ちました。先月16日に病名を公表した直後に、関係者を通じて中村さんからのメッセージを受け取っていました。「中西君のYahoo!の連載で、今の話を聞いてもらえないだろうか」。12月4日、大阪市内のホテルで約1時間インタビューをしました。そこで明かしていた病気への思い。そして「これからやりたいこと」。意欲と馬力に満ちた言葉をここに記します。

“まさか”という坂

 なんかね、演歌みたいな言い方やけど、“まさか”という坂を上ることになりました。

 今まで病気知らずで好きなようにやってきたこと。お酒をたくさん飲んできたこと。そのツケも当然あるとは思うんですけど、10月に入った頃に「ちょっとおかしいな…」となったんです。

 体がだるい。背中が痛い。お酒が美味しくない。これは明らかに普通とは違うと。

 近くの病院に行ったら、すぐに「大きな病院を紹介しますので」となって、10月12日に診察を受けました。

 検査の結果、がんだと。お医者さんとの話の中で「相当悪いな…」という感じはあったんですが、11月に入ったらレコーディングをやらないといけない。11月14日にはビルボード大阪でライブをやることも決まってました。

 だから、お医者さんに「やらないといけないことがあるんです。これは絶対にやらないと」と伝えました。歳も歳だし、全面的にストップすることを求められるのかなとも思ったんですけど「やりましょう」と。そこから抗がん剤治療を受けつつ、レコーディングをし、ライブも何とかやりきりました。

 お客さんに純粋に楽しんでいただくために、ビルボードが終わるまで病気のことは発表せずにいようと。なので、それが終わって11月16日に病名を公表したんです。

 正直、病気のことを聞いた時はショックでした。なぜかというと、これこそが「僕の仕事の完成形だ」と言えることに、まさに取り掛かったところだったんで。

 というのはね、僕が新しい音楽の在りようとして考えた“G POP(ジーポップ)”というものを打ち出していこう。そう思って動き出したところだったんです。

 ま、身構えてもらうような、そんな大層なことではないんですけど(笑)、音楽的にGENTLEで、GREATで、心の中のGOLDと言えるもの。そういう曲を“G POP”と名付けて、一つのジャンルとして確立しようと。

 演歌歌手の方でも、ポップス歌手の方でも、自分のオリジナル曲が絶えた時というのはどれだけしんどいか。そして、アイドルの人たちも、アイドル活動を終えたら、その後の道というのが難しくなる。

 それを僕は見てきたので、そういった人たちも“G POP”というジャンルが確立されれば、長く歌うものを手にすることができるんじゃないか。

 今は歌手が若くなった分、歌手生命がどんどん短くなっている。昔は歌手生命が長かった。一曲をずっと歌っていた。歴史にのっとった楽曲で、優れた楽曲。それこそが日本のクラシックになると思うし、そこを目指せればと思ったんです。

 これをやるのは、いろいろな蓄積がある人間がやった方がいいだろうし、その“旗振り”をするには、今きちんと自分が走ってないといけない。昔の名前で出ている古い作家であってはいけない。

 そう思って、ギターをもう一回きちんと勉強して、11月のレコーディングで11曲の新曲をYouTubeにアップしました。

 “G POP”を広めていく流れを作ったところでのことだったので、余計に思うところはありました。「これだけはやりたい」と考えていただけに、ショックでもありました。

寝るのが怖い

 実際、11月のレコーディングもしんどかった。ライブも、いつもならビルボードのステージにバーッと走って行けるのにステージ前の階段を見ただけで怖かった。

 足が上がらないんです。外に出てないので、筋肉が急速に衰えている。階段をタンタンタンと駆け上がることができなくなっている。

 一応、食事は三食、ちょこちょこちょことは食べてます。これまでに比べたら、食べられないけど食べてはいます。常に体はだるい。階段の話じゃないけど、足腰が弱ってますから、寝て起きてという動作の一つ一つがつらくもあります。

 そんな状態ではあるんですけど、本当に、音楽をやってて良かったと思います。コロナ禍で時間があったから、春ごろから、歌をさらにせっせと書くようになっていた。それが僕の中のルーティンみたいになっていました。

 それをね、体が病んだとしても変えてはいけない。そう思ったんです。それを変えると、本当にくたばるというか。そこは気力で。病気ですからね、弱気になったらダメで。

 時々、寝るのが怖いんです。これはね、このまま目が覚めなかったらどうしようという肉体なことではなく、ふと、自分の中に「このまま歌が作れなくなるんじゃないか」という思いがよぎるんです。

 そんな風に不安になった時にはギターを持って来て、コードをボローンと弾いてみる。そのコードにまつわるメロディーが湧いてきたら、ホッと安心する。もし、これが出てこなくなったら、もう、作曲家を辞めなアカン。そう思っています。

 ただ、時々、メロディーが湧いてくるまで調子が悪い日もあります。そうなると、考えが沈みかける。「…言うても、体の具合が悪いもんな」という方に、気持ちを落ち着かせようとする。

 でも、そうなったら、そこで気持ちの針が止まってしまう。そして、そこから全てが止まっていくというのは分かるんです。

 だから、そこを止めない気力はなんとしても残しておきたい。止まりかけても絶対に止めない。そこの力だけはね、グッ!と持っておかないとね。

 ま、年齢的に言ったらね、いつ死んでもおかしくないんやけど(笑)。そら「ホンマですねぇ」とは言いにくいやろうけど(笑)、ホンマにそうやから。

命は輝くもの

 コロナ禍で時間もあった。今回、病気にもなった。自分の作曲家人生を振り返って考えると、いろいろ思うこともあります。

 僕は書きたい時に、書きたいものを書いてきた。若い時からずっと。本当に好きなようにやってきました。それが偶然ヒットした。

 そして、ヒットするしないじゃなく、自分の中での創作意欲との向き合い方。それを考えてこれまでやってきました。その中で、音楽哲学みたいなものも、曲がりなりにもできてきました。だからこそ、それがなくなっていくのが怖い。

 先日、お亡くなりになった筒美京平さんが、もう辞めよう、メロディーが出てこないとおっしゃった時に、僕は本当に正直な話、内心「ズルい」と思ったんです。あんなに才能を持ってる人が、なんでペンを折るんやと。

 その前に、なかにし礼さんが作詞を辞めるとおっしゃった時も思いましたし、小室(哲哉)の時も思いました。

 病気になってね、ホンマに思うんです。世の中にこんなにたくさん、僕のことを心配してくれる人がいたんだと。

 朝起きた時とか、ご飯食べる時とか、何かするたびに毎日「ありがたいなぁ…」と思っています。メールもそうやし、SNSもそうやし、今はいろいろな人からそういう声が届きやすい時代になった。ありがたいことです。

 まだ治療半ばですし、完璧に克服できるかどうか分からへんけど、81歳で元気によみがえったという奇跡を信じてます。

 皆さんの気持ちに応えて、感謝を伝える術は、命を永らえること。そう思っています。1年、2年と経って「中村さん、元気でんなぁ!」と言われる(笑)。それが夢です。病気になったがゆえに、新しい生きがいが生まれました。

 「命は輝くもの」。こんな言葉は今まで使ったことないんです。でも、今は本当にそう思います。

 “G POP”の曲もYouTubeにアップしないといけないし、ギターも練習しないといけないし、まだまだやることがたくさんあります。

 これからも、ことあるごとに取材に来てもらわなアカンしね。毎年、毎年来てもらって「もう、さすがにしゃべることなくなったわ…」となるまで(笑)。また、来てね。

(撮影・中西正男)

■中村泰士(なかむら・たいじ)

1939年5月21日生まれ。奈良県出身。高校在学中から音楽活動を始め、57年に美川鯛二として歌手デビュー。68年、佐川満男の「今は幸せかい」で作曲家に転身する。72年、ちあきなおみの「喝采」で、82年には細川たかしの「北酒場」で日本レコード大賞を受賞するなど、ヒットメーカーとしての地位を築く。2016年には喜寿の記念に77曲を7時間かけてコンサートを開催。18年には大阪観光大使に任命される。YouTubeチャンネル「中村泰士G POPチャンネル」で自身の思いを込めた新曲11曲をアップしている。

■あとがき

 「先生が、中西君のYahoo!の連載で話を聞いてほしいって言ってるんやけど」。

 昨秋にもYahoo!拙連載でインタビューさせてもらい、その時の印象がおありだったようで、中村さんに近い方からその電話をいただいたのが11月21日でした。

 そして、12月4日。大阪市内にあるホテルで、約1時間、お話をうかがいました。

 80代とは思えない、以前のガッチリした体格よりは、細身になってらっしゃいました。歩き方も、かなりゆっくりした足取りになっていました。

 ただ、病気になって思うこと。今の生活。そして、これからやりたいこと。あらゆるお話を、それはそれはエネルギッシュに話されていました。

 インタビューが終わった後、いつものように軽口をぶつけてみました。

 「髪の毛、フサフサというか、ボーボーですもんね!日本の全人口の中でも、上位2%に入るくらい、髪形決まってますよ」

 こちらの言葉に、顔をくしゃくしゃにして笑ってらした姿が目に焼き付いています。

 何度もお酒を飲ませていただきましたが、こんなにカッコよくて、面白くて、色気がある80代を見たことがない。そう断言できるほど、凄まじいエナジーに溢れていました。

 取材メモというか、取材の段取りを進める備忘録を見返してみると、自分にしては珍しく、しっかりとキレイな文字で以下のように書いていました。

 「多くの人に読んでもらうべき。絶対に。記者の勘」

 自分が見るためのメモに“記者の勘”なんていう浮ついた言葉を記す。そんなことはありえませんし、普通に考えると、我が文字ながら「キショクわるっ…」と思います。ただ、なぜかこの時はそう書きました。

 中村泰士さんの言葉は広く届けるべきものである。

 そう確信した、思いのくさびとして。ただ、そこに自分へのジョークと照れ隠しをまぶした結果、そんな言葉遣いをしたのだと思います。

 ただ、僕は勘が悪かったです。まさか、こんなことになろうとは思いもしなかった。

 何の迷いもなく、取材後すぐ、前後の出稿スケジュールだけ勘案して、出稿予定表に「12月25日、中村泰士さん」と書き込んでいました。

 書き直したくもない書き直しをしました。そして、僕の想定より、はるかに強い出力で、広く届くことになると思います。そんな出力アップ、せんでもよかったのに。

 せめて、いつか僕も向こうに行った時に、酒のアテにしたいと思います。「なんちゅう、タイミングやったんですか!」と。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】