「宮川大助・花子」が決めた“誕生日のルール”

会見で笑顔を見せる「宮川大助・花子」(筆者撮影)

 1999年、デイリースポーツに入社して演芸担当記者になり、そこから20年以上、それこそ数えきれないほど、夫婦漫才コンビ「宮川大助・花子」を取材してきた。

 10日午後に吉本興業で行われた会見にも行ったが、会見中、そして、会見後の写真撮影でも、花子と幾度となく目が合った。

 会見中はさすがにその真意を尋ねることはできなかったが、会見場を出る時、花子から声をかけられた。

 「ごめんな。でも、むっちゃ元気やから、心配せんといてや!」。そう言って、こちらに向けてガッツポーズを作り、この日一番とも思える満面の笑みで会見場を後にした。

 故横山やすしさんの薫陶を受け、常に“芸人とは”という強いプロ意識を持つ花子。その自分がまだ完全復活には程遠い状態で登場し、舞台ではないとはいえ、ベストパフォーマンスではない姿を見せている。そして、大きな病気の話ゆえ当然と言えば当然なのだが、しんみりした空気も作ってしまった。

 花子が考える“芸人とは”からかけ離れた場が生まれてしまったことへの忸怩たる思い。胸の詰まり。そんなものが「ごめんな」に集約されていた。

 2017年11月、二人に紫綬褒章が授与された。受章会見の冒頭、花子は「こんなこと、今日、初めて言います。…漫才に誘ってくれて、ありがとうございます」と大助を見つめた。

 厳密に言うと「こんなこと、今日、初めて…」あたりまで花子が言った段階で、大助が“食い気味”に号泣。すぐさま花子が「言う前から泣いて、どうすんねん!!」というツッコミを入れ、会見場は大きな笑いに包まれた。

 当時で結婚生活41年。大助には、花子が今から話す内容が瞬時に分かったのだろう。まさに以心伝心と言うべき瞬間で、とても感慨深い場面だった。ただ、長く取材をしてきた者としては、また違う感慨もあった。

 取材をする中、大助は何度も次のような話をしていた。

 「漫才をせず、普通の夫婦でいたら、ウチは今まで一回もケンカせずにやってきたと思う。ケンカは全部、漫才から。僕が誘ったばかりにヨメさんには苦労をかけてきました」

 漫才を始めたのは結婚3年目。お笑いへの夢があきらめきれなかった大助が結婚に続き2回目の猛アタックをして、花子を妻から相方にもした。

 舞台上の姿からは想像もつかないが、夫婦の主導権を握っているのは完全に大助。コンビにおける頭脳も、完全に大助。大助のスパルタ指導で、夫婦漫才の第一人者になった。

 しかし、その道中、88年には花子が胃がん。そして、07年には大助が脳出血という大病も患った。

 話は前後するが、16年、結婚40周年記念イベントを大阪・なんばグランド花月で開催することになり、そこに向けて拙連載用にインタビューした。当時の取材メモを見返すと、そこにはこの上なくストレートな花子の思いが表れていた。

 「漫才をしていたからこそ、何回も離婚を考えました。漫才をしてなかったら、娘にももっと時間をかけてあげられたと思います。夫婦それぞれもっと健康にも気遣えたかもしれません。40周年記念のイベント日、(16年)4月9日になったんです。劇場(なんばグランド花月)の都合もあってこの日になったんですけど“死(4)ぬまで苦(9)しむ”。ようできた話ですわ(笑)。ただね、40年かけて、少しずつ分かってきた気もするんです。漫才があったから、人に喜んでもらえる夫婦になれたんやと」

 その言葉からの「漫才に誘ってくれてありがとう」。この言葉の重みは、こちらの胸にも深く突き刺さった。

 過去、夫婦ともに大きな病気を経験してきただけに、病気についても、大助は思いを度々語っていた。

 「これまで僕が自分で『ようやった!』と思えるのは、たった一つです。胃がんはヨメさんに行ったけど、脳出血は僕が引き受けることができた。それだけです」

 今回の会見、何回か涙を見せつつも、いつも以上に明るく、コミカルに振る舞っていた大助。幾度となく会見場には笑いが起こったが、その度に、この言葉が頭をよぎり、個人的には何とも言えぬ気持ちにもなった。

 二人には誕生日に関するルールがある。大助の誕生日には、大助の欲しいものではなく、花子の欲しいものを大助が買う。花子の喜ぶ姿が、大助にとって何よりのプレゼントなのだという。

 大助の誕生日は10月3日。来年のその頃には、もっと明るく、もっと強い笑顔で、買い物に出かけている二人がいる。かたく、そう信じている。