「2丁拳銃」をどん底からすくい上げた「M-1」

25周年を迎えた「2丁拳銃」の小堀裕之(左)と川谷修士

 子どもが4人いながら妻に渡す生活費は月5万円、帰宅するのは月に数日。日本テレビ系「人生が変わる1分間の深イイ話」で、あまりのダメさ加減から“ヘドロパパ”という呼び名がついたお笑いコンビ「2丁拳銃」の小堀裕之さん(44)。ツッコミの川谷修士さん(44)の妻で放送作家の野々村友紀子さんがビシバシと叱責していく流れも話題になっていますが、コンビとしては結成25周年を迎えました。100分間ノンストップで漫才を披露する毎年恒例のライブ「百式2018」も名古屋、大阪、東京で今月開催。多角的に活動していますが、その礎になっているのがどん底の3年間だったと言います。

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25年の重み

川谷:25周年ということは、それだけ年を取ったということでもありますよね(笑)。今、44歳。台本の覚えが悪くなったり、スッと言えなくなったり。ま、それは仕方ないんでしょうけど「衰えるの、もうちょっと遅くなって!」という思いです。

小堀:ま、着実に老いは来てますもんね。

川谷:確かにね。普段からよくやっている漫才のネタでも、その時によってツッコミを変えたりするんです。言葉だけでツッコんだり、叩いてみたり。ある時、普段、あんまり叩かないボケのところで、小堀の胸をパーンと叩いてツッコんだんです。そうしたら、その瞬間、小堀がそのツッコミのダメージで崩れ落ちるように尻もちをつきよったんです。ここまで弱っているのかと。もしかしたら、それもボケなのかなと少し希望的観測もしたんですけど、特に何もなく…。普通にもう一回立ち上がって、こちらをただただ悲しそうに見るという(笑)。

小堀:あれは、純粋な足の筋肉の衰えです…。少しは耐えようとしたんですけど、立ってられませんでした。

川谷:あとね、僕らの漫才は小堀がお題を振って進んでいく展開が多いんです。小堀が「最近、●●したいなぁって思ってんねん」と話し出して、僕が「それってどういうこと?」と尋ねて話が前に行く。そのお題をいうタイミングで、小堀が「…え~っと…」と明らかに言葉に詰まるようにもなってきまして…。そこも「今日はあえて違う言いまわしをして、新たなバリエーションを模索してくれてるんかな」と希望的観測を持ち込もうとしたりもするんですけど、あからさまに目が泳いでるんです。完全に忘れてるやん!と。

小堀:ただね、これが25年の積み重ねでしょうね。もし、昔、そうやって言葉が出てこなくなったらもっと焦っていたと思うんですけど、今は焦らなくなりました。ドーンと構えて。これが25年の重みです(笑)。

どん底の3年

川谷:ま、正味の話、もっと、もっと、成長しないといけないというのは常にあって、そのエネルギーはいつまでも衰えずにいようとは強く思っています。25年を振り返ったら、思い出されるのは2000年、東京に来た時ですね。ここからの3年間はどん底でした。壁にぶち当たったというか。大阪でやってきたことが甘いと思い知らされました。

小堀:鼻を折られたと言いますか…。ちょうど、当時はバラエティー番組で“ひな壇”という概念が盛んになりだした頃でして。手を挙げて、大きな声で面白いことを言わなアカンねんやと。そこに対する恥ずかしさというか「…オレ、それはエエわ」といった引く思いがありまして。となると、番組に出ていても、結果、映らないまま終わるような形になっていく。考えを変えてでも“ひな壇”をやるのか。ただ、それをやると漫才が変わってしまうんじゃないか。でも、やらないとテレビの仕事はなくなる。その葛藤と、どんどんポツンとなっていく焦り。ホームシックにもなりましたし。ただ、その中で、唯一の救いが漫才でした。漫才は大阪と東京でネタを変えることもなかったし、迷いと不安の渦の中で、より一層、漫才を強く握りしめることにもなったと思います。それは今に至るまでずっとなんですけど。

川谷:ただ、そこもすんなりとはいかないというか。2001年から「M-1グランプリ」が始まって、気持ち的には「よっしゃ、ココや!今こそ、漫才でもう一回見てもらうぞ!」となったんです。ただ、ただ、決勝に行けない。01年もダメ、02年もダメ。東京でメディア露出が減って、そして「M-1」という漫才のバトルでも出られないんだと。そこが一番気持ちが落ち込んだところでしたね。ただ、その時期があったから、とことん漫才に向き合えた。そこで100分間漫才をするイベント「百式」も生まれてきた。そして、何とか出場資格ラストイヤーにあたる結成10年目の03年に決勝に進むことができました。ここで「M-1」に出られてやっと光が見えましたし、その光があったからこそ、今があると思っています。

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ヘドロパパ

小堀:やっぱり、基本的にはネタばっかりやってきた道のりだったと思います。ま、最近ね、日本テレビの「深イイ話」でウチの家に密着していただいて、そこから僕が“ヘドロパパ”と呼ばれる流れなんかも生まれているんですけど、この展開は本当に予想外でした。これまで“ひな壇”とも距離を置き、ネタ以外でテレビに出る時のキャラクターというか、出方を作らずにきたしわよせというか、いきなり“ヘドロパパ”でテレビに出るというのは、テレビの出方をサボってきたバチでしょうね(笑)。ま、それにびくともしないメンタルでいられるのも、25年の重みでしょうけど。

川谷:いやいや、テレビに映ってる姿、これぞ最低というものばかりですよ。そもそも「芸人の嫁特集」的な企画で小堀の奥さんに密着するはずだったのが、あまりにも小堀の父親ぶりがひどいんで、スタッフさんが「この人、いったい何なの…?」となって。そこから小堀がフィーチャーされるようになったんやから。ホンマモンというか、筋金入りのダメおやじですよ。

小堀:最初に「深イイ話」に出してもらったのは2年ほど前になると思うんですけど、収録でスタジオにいた「博多華丸・大吉」の大吉さんから「スタジオで君のVTRが流れた瞬間、とんでもない空気になっていた。これから放送日まで、せめて、好きなことをして生きなさい」と言われまして(笑)。

川谷:もう、放送されたら、小堀の人生が終わりやと…。

小堀:ただ、実際にはむしろ良いことの方が多くて。人としてのハードルが下がりまくっているんで、ちょっと「ありがとう」と言っただけで「え、そんなこと言うんですか!?」となりますし。基準点がゼロ以下から始まりますからね。一つ懸念していたのが、お客さんが漫才を見にくくなるというか、僕のイメージが先行して漫才がやりにくくなるのではと心配していたんですけど、そこも、なんなら、ちょっとやりやすくなったくらいで。あ、大丈夫やと。それやったら、もう、心おきなくこのままダメ人間でいようと心に決めました。

川谷:こんなん、オレが言うのもナニやけど、あれ、ウチの嫁がだいぶ頑張ってるから!仲間内ではそうなってますから。「修士の嫁のおかげやないか!」と。お前はそこにドンと座ってるだけやで!

親としての思い

小堀:好きにしてたら、野々村さんがエエ感じで怒ってくれはるんで(笑)。ま、正味の話、子どもの気持ちは心配でしたけどね。長男が中学生の時にあの企画が始まったんですけど、最初はすごく嫌がっていたんです。自分だけテレビに映らずCGにしてくれと言うくらいに。ただ、今は高校に入って周りの子たちも大人になっているというか、変なイジリもないし、本人もああやって家族がテレビに出ることを“おいしい”と思うようになったらしく。そこは一番ホッとしたところです。

川谷:僕も人の親として、小堀家のことが心配だったんです。4人の子どもたちがグレるというか、妙な方向にいってしまうんじゃないかと。ただね、ここの子どもたち、ホンマにエエ子なんですよ。ちゃんと育ってるんです。エエ服を着せてなくても、エエご飯を食べさせてなくても、エエところに遊びに連れて行ってあげてなくても、エエ子に育つ。こんな親父でも、みんな明るいし。そこは心底安心したところではあります。

小堀:教育方針は“反面教師”です。

川谷:それ、自分から言うことやないねん!ほんでまた、それはだいぶと受け手側の能力が要る教育方針やし!

小堀:ま、オレはこうやから、周りの皆さん、しっかりしてねと(笑)。そういう人生やなと。これからも、皆さんの反面教師として生きていきます。

川谷:誇らしく宣言すな!

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(撮影・中西正男)

■2丁拳銃(にちょうけんじゅう)

1974年1月9日生まれで奈良県出身の小堀裕之と、1974年5月17日生まれで兵庫県出身の川谷修士が93年にコンビ結成。若手の頃からアイドル的な人気を誇り、音楽活動も展開。2000年に東京進出する。03年には「M-1グランプリ」で決勝進出を果たす(4位)。日本テレビ系「人生が変わる1分間の深イイ話」で小堀が家族を顧みない“ヘドロパパ”として紹介され、修二の嫁・野々村友紀子に説教されるのが定番となっている。ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞、NHK新人演芸大賞(演芸部門)大賞、上方漫才大賞新人奨励賞など受賞多数。100分間ノンストップで漫才をするイベント「百式」を今年も開催。名古屋(12月21日、 伏見JAMMIN)、大阪(同23日、HEP HALL)、東京(同28日、ルミネtheよしもと)で行われる。