100年前に創業した松下幸之助氏~1918年はどんな年だったのか

大阪・通天閣の配電工事には松下幸之助氏も参加したという。(写真:MeijiShowa/アフロ)

・脱サラして起業したが

 松下幸之助氏は、約6年間務めた大阪電灯会社を1917年(大正6年)に退職。「これから電気の時代が来る」という考えの下、脱サラして起業する。電灯会社勤務時代から暖めてきた独自アイデアによるソケットの製造販売に取り組んだのである。退職金と積立金だけでは足りず、知人から借金もし、設備を整え、妻と義弟とそして二人の同僚たちと一緒に製造に乗り出すが、全く売れなかった。同僚二人は他に職を見つけ、離れていった。資金は底を尽き、家族の着物まで質に入れて凌ぐありさまだった。

・「頑迷であってはならない」

 経営危機を救ったのは、やはり電気製品だった。当時、国産化され、普及が進んできていた扇風機を製造していた川北電機が出した碍盤(絶縁部品)の仕事が問屋経由で松下氏の元に舞い込んだのである。

 

 この受注で、利益を確保し、ソケットの失敗から回復することができた。そして、1918年(大正7年)に松下電器器具製作所を創立する。

 松下氏は、この頃のことについて、「ものに強い執着心をもって、決して軽々しく諦めるようなことをしてはならないと思う。しかし、また頑迷であってはならない」と述べている。

 

 本業としようとしたこととは少し離れていたが、やはり「電気」に関わる仕事によって、次の挑戦へと駒を進めることができたのである。このエピソードは、松下電器産業創業期の話として、つとに有名である。しかし、1918年(大正7年)という年の出来事を調べてみると、また違った感慨を持つ。

・ちょうど100年前の1918年(大正7年)とは

 松下幸之助氏が松下電気器具製作所を創設。なので、パナソニックは、今年創業100周年になる。記念の行事やPRなども行われることだろう。

 日本的経営の変遷をもう一度考えるという観点からも、この100年を振り返ることが意義深い。そこでまず、松下電気器具製作所が創設された1918年(大正7年)についてみてみよう。

 欧州戦線(第一次世界大戦)は1914年(大正3年)のドイツ軍によるベルギー・フランス侵攻に端を発し、ヨーロッパ全域に拡大していった。イギリスの同盟国として日本も艦隊を、1914年(大正3年)にはアメリカ西海岸地域に、さらに1917年(大正6年)にはインド洋から地中海に派遣している。地中海では、ドイツの攻撃を受けるなどし、日本人合計78名が戦死している。

 この第一次世界大戦は、日本に大きな変化のきっかけをもたらすことになる。

・「米騒動」と「民謡の流行」

 この戦争によって、日本は戦場から遠く離れた工業国として特需景気に沸いた。しかし、国内では激しいインフレが引き起こり、貧富の格差が拡大することで国内情勢は悪化する。その悪化した状況が頂点に達したのが、大正7年であり、あちこちで米騒動が起きた。富山県滑川で、女性たちが米の輸送船を襲撃したのに端を発し、全国で暴動が連続し、ついには軍隊の出動で鎮圧する騒ぎとなった。

 この同じ年、特需好景気で経済界はうるおい、全国で「民謡の流行」が始まった。米騒動と民謡の流行。どうにもチグハグにみえるが、これが当時を象徴するのだ。

 国としては貿易黒字が拡大し、債務国から債権国へと転換するなど発展を遂げ、財閥をはじめとする富裕層は多くの利益を得た。しかし、貧富の格差、農村と都市の格差は拡大する一方であった。

 第一次世界大戦は日本を世界的な工業国として成長させるきっかけとなった。輸出輸入合計した貿易額は、1914年(大正3年)から1919年(大正8年)にかけて4倍近くも増加した。工場労働者が急増し、それらは農村部から大都市部に移住し、多くの人たちが給与所得者として生活を始めた。こうした給与所得者たちにとっては、給与の増加率よりもインフレ率が高く、生活は苦しくなっていったのである。

 企業経営者にとっても、商品投機がブームとなり、激しいインフレに苦しめられた。特に新規参入者は、設備や資源の高騰によって利益の確保が困難となり、財閥系などの企業に比較して経営の困難さに直面していた。つまり、松下幸之助氏は、世間が騒然とし、起業するには困難な時期に敢えて創業の道を選んだのである。

・電気の時代が始まる

 松下幸之助氏が、創業の道を選択したのは、「電気の時代が来る」という確信と、「自分は運が良い」という前向きな発想である。特に前者は、確実に進展していった。

 それまで日本では蒸気機関が主流だった工場の動力は急速に電化されていった。第一次世界大戦の終わる頃には、工場用動力の60%超が電化された。

 電気は、大工場だけではなく、人力だけに頼っていた中小企業や個人事業者でも機械化を進めるきっかけとなった。街には電車が走り、電信電話線が張り巡らされるようになった。さらに、電気は家庭での使用も拡がった。都市部だけではなく、農村部にも電気は急速に普及し、多くの人々にとって身近なものとなったのだ。この大きな変化の潮流を松下幸之助氏は、信念に近い形で持ち続けたのである。

 

 電気は日本全国に普及し、電気機械製品の需要は爆発的に伸びたが、第一次世界大戦によってヨーロッパからの輸入が途絶えた。そのために、国産化が急成長したのである。松下氏の読みは当たり、その後、松下電器器具製作所が急成長したのは、周知の通りである。

・社会の要望があって初めて事業の存在

 松下幸之助氏は、当時を振り返って、後に「社会の要望があって初めて事業の存在があり、発展が許される」と述べている。100年後のいま、日本を代表してきた企業の多くが経営不振や経営悪化に苦しんでいるのは、すでに社会の要望が失われた分野に「頑迷に」執着心を持ち過ぎたたためではないか。

 松下電器器具製作所が創業して、2年。1920年(大正9年)3月には、戦後恐慌が起き、株式相場、商品相場は大暴落し、多くの企業が倒産した。こうした社会不安の中で、松下幸之助氏は、従業員を信頼すること、できないことは人に任せること、そして、福利厚生を充実し、一致団結することを徹底させた。その後の「日本型経営」の基礎は、困難の中から生み出されたものだったのだ。

 100年後の現在、取り巻く状況は大きく異なっている。しかし、時代背景を調べてみると全く異なっているとも言い難い。100年前の偉大な経営者の経験から、現代の経営を考えるために参考にできる部分も多いのではないだろうか。

 

(参考文献 ・松下電器産業株式会社、「松下電器五十年の略史」1968年。 松下 幸之助

・松下幸之助、「 経営語録」、PHP研究所、1993年。