帰還後の福島:「おかえりなさい浪江町」ではない、「さようなら浪江町」だ

人影がない帰還後の浪江町

人影のない町での「おかえりなさい」

私は富岡町に一人でずっと残っている松村直登(まつむら・なおと)さんの案内で、富岡町と同じく今年3月31日に帰還宣言をした浪江町を訪れた。松村直登さんは、原発事故後もずっと避難せずに富岡町に残り、動物たちと暮らしてきた男性で、その暮らしを私はドキュメンタリー映画「ナオトひとりっきり」という作品にし、この4年間、取材を続けてきた。

浪江町は富岡町の3倍以上の面積があるが、帰還が許された地域は、わずかその3分の1程度。富岡町と同じく、全体の人口の約1割が帰還しているというが、町の中心には、ほとんど人影がない。富岡町より早く4月に鉄道が再開し、駅もオープンしているが、ほとんど無人のままだ。商店街もほとんどシャッター通りのままで、富岡町よりさらに荒涼とした雰囲気がある。町役場の前に掲げられた「おかえりなさい浪江町」という看板が、むなしく見える。

帰還後の富岡町の様子については、先に公開した私のレポート「帰還後の福島:富岡町ーみんな帰ってこない、でも大地とともに生きる」を見ていただきたい。https://news.yahoo.co.jp/byline/nakamuramayu/20170728-00073661/

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後5年、牛たちが生きている間に原発を終わらせる

松村さんの友人で、浪江町に原発事故後も残り続けている吉澤正巳(よしざわ・まさみ)さんの牧場を訪ねる。吉澤さんは震災前から、原発から20キロ圏内にあるこの場所で、牧場を営んできた。原発事故後、政府の殺処分命令と避難勧告を拒否し、ずっとここに牛たちと残り続けてきた。現在も300頭近い牛たちと暮らしている。「経済動物ではなくなった牛たちを生かしておくということは、牛飼いから見たら馬鹿げたことかもしれない。でもこの牛たちを生かしておく意味があるんだ」と語る吉澤さん。原発事故から6年間、寄付金や無料提供の飼料と、ボランティアの手助けで、なんとか牛たちを生かしてきた。牧場の名前を「希望の牧場」と改め、牛たちを「原発事故の生き証人」として生かしてきた。吉澤さんには、さらに目指していることがある。「この牛たちは後4、5年ほどで、ほとんどが死に絶えるだろう。原発事故から10年経って、この牛たちが生きている間に、なんとか原発をなくしたい」と熱く語る吉澤さん。しかし吉澤さんの顔には、松村さんと同じく疲労の影が滲み出ている。いつ終わるのか先が見えない戦いの中、生き生かしていくことの重圧を二人の姿に感じた。

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「おかえりなさい浪江町」ではなく、「さようなら浪江町」

浪江町で活動するだけでなく、渋谷にも月に一度は訪れ、反原発を訴えてきた吉澤さん。その歯に衣着せぬ物言いで、町の人たちとも何度も対立してきた。富岡町と同じく、年寄りしかほとんど帰還していない浪江町の状況に、「町の未来はない」とずばり語る吉澤さん。「元の町に戻るなんてことありえない。ここでもう一度、農業や酪農ができますか?年寄りが死んで、人口が減り、財政が成り立たなくなり、やがて浪江町は、双葉や大熊町と合併させられて、『ふたばみらい市』みたいな名前になるでしょう」と町の未来を語る吉澤さん。「町の人たちに怒られるけど、私ははっきり本当のことを言うんだ。これは『おかえりなさい浪江町』ではなく、『さようなら浪江町』でしょう。私たちは、表向きの復興にごまかされるんじゃなく、現実を直視しなくてはならない」吉澤さんの言葉には、この双葉郡の人たちが晒されてきた様々な不条理に対する怒りがこめられていた。

「原発事故が終息していないのに、帰還が本当に可能なのか?」その疑問を抱えて、今回、私は富岡町と浪江町を訪れた。4年間、この地域に通い続けて、どこよりもこの地域が急速に変化してきた様子を見つめてきた。表向きには町は再建しているように見える。しかし、人々が置かれている状況は何も変わっていないという印象を受けた。松村さんが数年前に予測したように、戻ってきているのはやはり年寄りたちばかりだった。原発事故前のように、年寄りたちは自分たちの田畑を耕し、その恵をいつくしみながら、しあわせに生きている。若い人たちは帰ってこないが、他所からきて住みついた若い作業員たちはいる。吉澤さんが言うように、この地域が元に戻るということはありえないだろう。私たちは「復興」という言葉の現実をしっかりと理解しながら、別のかたちで歩み始めたこの地域を見守っていくしかないのかと思う。

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【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】