中卒の官房長官、野中広務さん。

厳しい出自、国鉄から叩き上げ、町議から共産党・蜷川知事と対決、副知事へ。

国政に出たのは58歳と遅咲き、それでもずっと政治の真ん中におられました。

ぼくが京都から郵政省に就職するのと同じ頃、1983年に京都から国政に出られて以来、郵政族のドンとなっていく野中さんを眺めておりました。

ハト派の国士。

憧れの生きざまでした。

御厨貴/牧原出著「野中広務回顧録」にそのすさまじくダイナミックな政治姿勢が語られています。

1993年、議員10年で既にドンとなっていた野中さんが、自民党の野党転落後に役所とのつきあいに気を遣った話が登場します。

「役人のうまい生き方を見せられたのは、郵政だったな。」多くの役所・役人が与党になびく中での郵政省幹部の振る舞いはぼくにとってもまだ生々しい。

確かに、新しい与党にも野党にもそれなりにつきあった郵政省は、全国の郵便局をバックにしたぶ厚い政治対応という点で、他の役所とは肌合いが違っていました。霞ヶ関でドンパチやり合ってた通産省は、当時は内紛で大変でしたし。

古いタイプの政治家と、古いタイプの官庁の肌合いが合ったということでしょう。片や世を去り、片や解体され、平成も終わろうとする中、昭和がますます遠ざかりました。

1997年、橋本行革の省庁再編。通信・放送行政は、独立委員会プランが官邸から打ち出されたのに対し、運輸通信省や産業通信省などの構想が巻き返しを図る中、総務省に落ち着いた。

「回顧録」ではこれを総務庁が決めたように書かれていますが、違いますよね、野中先生ですよね。橋本総理と話すときに江田憲司秘書官を部屋から追い出した話も書かれています。これは野中先生から直接聞いたことがあります。最後の談判で、独立委員会は回避され、総務省の内局に落ち着いた。

通信・放送の行政が総務省入りで決着したのは、日本メディア政策史の重要局面です。ぼくは裏方で運輸通信省を求める自民党議員たちの声を集めつつ、最終的に総務省入りにならないものかと祈っていたので、最終的な政治裁定が出たときには永田町に向かって頭を下げました。ありがとうございました。

同時にそれは時の首相に逆らった結論を出してもらったことでもあり、ぼくは担当としてクビだなと覚悟した瞬間でもあります。それでぼくは役所を辞して渡米し、今日に至りますが、人生を転換するきっかけも野中さんにあったということです。

2001年自民党総裁選、小泉vs橋本で小泉さんが地方票で圧勝し首相になる直前、橋本陣営を仕切っていた野中さんと、ちょっとしたきっかけがあって、世田谷の寿司屋のカウンターで2時間、二人きりで話し込んだことがあります。

てっきり橋本さん返り咲きと思い込んでいたら、「それがなぁ、小泉が強いんや。」とつぶやかれていました。

その際「あんた選挙出えへんか?」との誘いがありました。とっさに「先生ぼくイナカ京都なんです」と返したら、「そらあかんわ」で終わりました。ああ京都出身でよかった助かった。胸をなでおろした17年前のお話です。

「回顧録」に登場する、むかし野中さんがマージャンしていたというマンションにぼくはいま住んでいます。

若い世代にメッセージをいただきたく、インタビューをお願いしようと用意していたところでした。

ご冥福をお祈り申し上げます。