テレビとネットの公共性

テレビでやらせが発覚したりするたび、公共性が問題になります。

実は、日本の番組規制は海外に比べてとってもユルいんです。アメリカやフランスでは、当局がテレビ局を処分したり番組を打ち切ったりすることがあるけど、日本は放送局や業界の自主性に委ねています。それでも、というか、だからこそ、やらせ番組などがあると「けしからん」という騒ぎになる。政治からも公共性を保つよう何とかしろという声が上がったりするわけです。

一方、インターネットは無法地帯。テレビ番組のような映像も無数にあって、世界中の役立つ 情報が行き交う一方、デマもエロも危険思想もごちゃまぜです。でも放送ではなくて通信だから、麻薬売買や著作権侵害など法に触れる情報を除き、そこは自由 が保障されています。憲法が保障する「通信の秘密」、ネット空間の自由を守ることで社会全体の公共性を保つということでしょう。

衛星には200 を超えるテレビチャンネルがあり、ネットのように多様な情報が流れます。ネットでは選挙前に党首討論会が開かれるなど、テレビのように公益的な番組が組まれます。テレビは公共の電波を使うというが、ケータイのネットだって電波をたくさん使います。とても似ています。しかし制度上は、テレビは規制、ネットは自由。正反対です。

放送と通信の距離が狭まり、「公共性」なるぼんやりした言葉の意味が改めて問われます。放送法は、「公共」放送局であるNHKに対し、豊かで良い番組が全国で受信できるようにすることを求めています。それはわかります。きちんと基本を守ってくれということです。

同時に、放送の「進歩」に必要な業務や「国際」放送も求めています。うむ、新しい世界を切り開くのも公共なのですね。それなら、ネットにもネットなりの公共性があるということです。公共は放送の独占物じゃない。

いい番組を増やすこと、イヤな情報を減らすこと、新しい技術を開発すること、海外に日本を発信すること。

いいじゃないですか。この際、「公共性」を広く取って、放送にも通信にも、それをどんどん広げていってもらったらいいですよね。

テレビが「一億総白痴化」をもたらすと言われたのは56年も前のこと。半世紀以上たって、ぼくらはバカになったのでしょうか。多少、そうかもしれません。でも、そうばかりでもないんじゃないかな?昔は、ぼくらの周りは、もっと下品で乱暴じゃなかったですか?

かつて小説は、不良の読むものでした。かつて映画は、不良の観るものでした。かつてギターは、不良の持ち物でした。ぼくは後ろ指を指されつつギターを弾いていました。今どき街頭でギターをむさぼり弾く青年は、目的意識がある学生の鑑であります。

数年前、ある首相は「青少年がケータイを持つのは百害あって一利なし」とうそぶきました。百利あって一害あり、とすべきところ、言い損ねたのでしょう。大人は判ってくれない。子どもたちは安全で楽しくなりたいと思ってデジタル技術を使っているのですが、大人はデジタルで子どもが危険でダメになると思っていました。

結局それから数年もたたず、全ての小中学生がデジタル端末、つまりケータイ的なもので勉強するよう学校を情報化することを政府が決定しました。逆に、もっと使わないと、バカになると思うようになったわけですな。

韓国でCMを見て驚きました。このスマホを使うと頭がよくなる。このテレビを買うと成績が上がる。教育のためにスマホや新型テレビを、というのです。そうだよね。コンテンツを作る側には、それくらいの自信をもって作ってもらいたいものです。