リメイクより創作を

2010年、三池崇史監督、役所広司主演「十三人の刺客」は、1968年に工藤栄一監督、片岡知恵蔵主演で撮られた同名の作品のリメイクです。2011年、同じく三池監督、市川海老蔵主演「一命」は、1962年、小林正樹監督、仲代達也主演「切腹」のリメイクです。

その前には、2007年森田芳光監督、織田裕二主演「椿三十郎」もありました。1962年黒澤明監督、三船敏郎主演の脚本を一切変えることなく再映画化したものです。

2005年、三池監督「妖怪大戦争」は1968年公開の大映作品と同名ですが、これは時代設定・登場人物・筋立て等が旧作と全く異なっていて、リメイクというのとは違いますね。1990年と2008年に同じ中原俊監督が撮りながら、内容が違う、「櫻の園」という例もあります。

こうしたリメイク、特に最近の、世界に名が轟く作家がリメイクに打ち込む意味って何なんでしょう。アニメでもゲームでも、一発ヒットを当てて、vol.2、vol3、とシリーズが作られていく、その後続は、ビジネスの事情ってことで割り切れるし、それもあくまで創作です。対してリメイクは創作を否定する制作なので、そこに作家が何を見出しているのか、気になります。

技術を立証したい、という動機はあるでしょう。古い先行作品を新技術で作り直す。モノクロをカラーにする。スタンダードサイズをワイドにする。特撮にCGを導入する。過去の作品に新技術を適用することで、技術の良さを見せる。技術者はやってみたいでしょう。でも、創作者の動機にはなりにくい。

ビジネスの要請もありましょう。評価が定着した先行作品であれば、役者を変えれば当たる、という色気。椿三十郎がその例でしょう。興行収入60億円を見込んでいたそうです。実際には11億円だったそうです。

何なんだろう、リメイクって。名作を前にして、自分だったらこう作ったのに、という、制作者としての鑑賞行為が高じて、制作欲にまで高まることがあるってことなのかな。それが純粋な自作を創ることを上回る場合があるということなんでしょうか。

あるい は、「演奏」に近い? それはありますよね。バッハやワーグナーを名だたる指揮者・演奏家たちがそれぞれの解釈で演じ続ける。歌舞伎でも、「東海道四谷怪談」を音羽屋が伝え続け、「義経千本櫻」を猿之助や勘三郎や海老蔵が演じる。落語の「代書」は桂米團治、春團治、枝雀、小米朝、小南へと継がれる。

元の作品があって、それをそれぞれの解釈と技法によって表現する。それぞれに創意があり、工夫があり、創造があります。映像作家のリメイクは、それに近いんで しょうか。だとすれば、わかります。レシピがあって、そこに自分の作家スパイスを振って、さし出す。オレ風の麻婆豆腐とか、我が家のオムライス、みたいなものですかね。

気になっているのは、そこなんです。映画は、伝統芸能になりたいのか、と。周りは、それを加速したいのか、と。

クラシック音楽にしろ古典落語にしろ、できあがった伝統を維持し、できれば発展させる、だからこそ古典であるわけで、そこに価値もあります。現代性と流行に立脚する、変化を信条とするポップカルチャーと対立するものです。

コピーバンドがロックから一線を画されるのは、ロックが伝統芸能になりたくないから。解釈や演奏より、創作を旨とするから。

ぼくはNPO「CANVAS」 を11年前に設立して、子どもの創造力と表現力を高める活動に関与してきました。それは、絵や音楽をコピーしたり演奏したりする技法を身につける、ナントカ 教室とは太い一線を画し、とにかく創る、ことを広めようとするものです。一発ギャグでも戦いものでもオゲレツでもいいから、創り出すことに力を込めてきま した。

立派なリメイクより、くだらねー創作。名曲の熟達した演奏より、稚拙なオリジナル曲。よどみない寿限無より、意味不明の創作どつき漫才。

したがって、きちんとした美術教育や音楽教育のかたがたからは太い一線を画されてしまうのだと思います。でもそれでいいのです。

デジタル技術は、コピー技術です。全てをそっくり複写し、永遠に反復します。修正を施して、素敵なリメイクをわけもなく達成します。同時に、デジタル技術は、創作技術です。誰もが新しいものを生みだし、誰もがクリエイターになれます。ぼくは後者に着目して、「創る」ことに気合いを入れているのであって、もちろん 前者の価値も高く評価しています。

でも、現時点で、本来ポップカルチャーであっていいトップ創作者のかたが、リメイクやコピーに注力するのって、どうなんだろうね、と思うわけです。森田監督が椿三十郎を撮ったのは亡くなる4年前で、もったいないな、と思うわけです。