いとおしいコルカタの光

コルカタ。かつてのカルカッタ。1911年にデリーに遷都されるまで、長くインドの都でした。インドで最も雑然とし、得体の知れないエネルギーを発散する街。

薄暗い市場に迷い込んだ。肉の臭い。内蔵の臭い。獣の皮の臭い。足下は鮮血が川のように流れている。白や黒のヤギが何頭もつながれている。たくさんのニワトリが網の中で声をたてている。男たちが、無言で、それらを裁いている。この場で殺し、この場で処理し、それを商品にして、この場で売っている。屠殺、解体、精肉、そして小売りの兼業。「フレッシュ、フレッシュ。」肉塊を押しつけてくる。確かに、新鮮であろう。

駅前の群がりは、これもどうやら市のようなのだが、路上の暮らしと一体化していて、商売なのか、消費なのか、生活なのかが余所者には判然とせぬ。うずくまるように横になっているが目だけギラギラとこちらに向けている男。下半身ハダカの子。裸足だ。脇を通り抜ける犬、犬、犬。カレーのようなものを火にくべている女。もうもうと湯気が立ちこめる。そこに手を突っ込んで喰っている子。姉妹だろうか、しゃがんで互いのシラミとりをしている。ぼくに手を伸ばし物乞いをする老女。

「ハッ。」かけ声とともに、頭が落ちる。毎朝20頭のヤギがいけにえとして捧げられる。押すな押すなのヒンズー信者がありがたく見守る。脇には、それまでに斬られた黒い子ヤギの頭が5つ転がっている。体はきちんといただくらしい。このカーリー寺院には、沐浴のための池があり、その縁にシヴァ神の像がたたずむ。寺院の担当者が手招きする。なんでしょう。「お前は何人家族か」4人ですが。「では4000ルピー出しなさい ナマステー」なんでやねん。

巨大な拡声器を積んだクルマと、怖ろしい形相の女たち。それを取り巻く野次馬たち。道路を占領し、クラクションが一段と激しい。デリーで集団レイプがあったとかで、抗議行動が市街地を占拠している。マザーテレサはこの街のスラムから活動を始めた。情熱が似合う街だ。だが、一歩、喧噪を離れると、泥沼があり、その縁では男どもがうずくまっている。休んでいるのではなく、動くことの消耗を避けているのだろう。静、が日々の大半と思われる。じっとしている、が人生の大半と思われる。いや、動く人影も数名。粗末な道具で釣りをしている。周りの静たちが、じっと、見ている。

夜中。天空にはぽっこりと黄色い満月。窓の下が騒がしい。黄色とピンクのサリーをまとった女性がとっくみあいをしている。全く気にとめず、人力車引きがヘトヘトに座り込んでいる。タクシーに仕事を奪われ、やるせない。明日の露天を開く商売道具か、骨と皮だけの男が、体よりも大きな袋を頭のてっぺんに担いで歩いている。脇を通り抜ける犬、犬、犬。それよりもけたたましく人をかき分けるバイクと自転車。日中、レバーをぐるぐる回してトウキビを潰し、ジュースをふるまっていたおやじが店じまいだ。この夜更けに何が始まるんだろう、激しいリズムで太鼓をかき鳴らす隊列がやってきた。いつまでも騒然としていて、眠れない。

ぼくの知る日本の街は、どこも清潔で平穏になりました。物乞いも疫病も失せ、怒声や乱闘は減り、悪臭は去り、クラクションだってそう聞きません。コルカタも、そうなるんでしょうか。そうかもしれません。でも、この街を上回るカオスはもう地上にないんじゃないかと感じます。500万人もの人がいて、古くからの文明があって、すさまじい貧困と、成長への希望がどくどくと渦巻いています。このぎらつきが、清潔で平穏で、笑顔に変わっていくことは、コルカタにとって、インドにとって、いや、インドにエネルギー源になってもらいたい日本にとっても、うるわしいことでありましょう。

でも、ぼくにはこのぎらつきが、この異界が、声には出せないけど、かけがえのない、いとおしい光に映ります。二度と来たくなくなるか、何度も来たいと思うか、どちらかになる、と言われる都市。ぼくが何度も来るとすれば、それは闇を抱える蛾の見出した光という憧れが、まもなく消えゆくはかなさを訴えているからでしょう。