大学はデジタルに悩みます。

渓谷の上に切り立つハイデルベルク城を望むネッカー川。河畔のハイデルベルク大学は、1386年創設、ドイツ最古の大学です。旧聖堂は椅子と椅子の間が窮屈な、厳かで光の乏しい空間。背筋が伸びます。

ルールに逆らって暴れる輩もいたんですね。むかしの学生牢が残されています。治外法権の大学自治を体現し、違反したヤツを閉じ込めておいた。その連中が壁の全てのスペースに落書きをし、反抗と学生の矜持とを歴史に刻んでいます。

でも、学外=社会のルールに処分を委ねず、身内に止め置いて飲み食いさせて落とし前をつけさせるなんて、温かい処置ですね。川に放り出して世間の者どもに処置させれば安上がりなのに。大学自治というのは、そういうコストをかけるということなのでしょう。

時に大学のことが頭によぎると、自分と大学との距離を確認することになります。

小学校のころ、近くにあった京都大学はいつも争乱でした。ヘルメットにゲバ棒のお兄さんたちと機動隊とが衝突していて、火炎瓶で火だるまになる人を見物しに行きました。酔っぱらったヤジ馬が「学生がんばれ~」と怒鳴っていました。

それから十年ぐらい経ち、自分がその門をくぐりました。学生運動が終焉していたとはいえ、「四畳半神話体系」の舞台となった大学の時計台には「竹本処分粉砕」との落書きが往時をとどめ、少ないながらもヘルメットとマスクはうろついていて、自分は西部講堂という第一勧銀7千万円強奪犯が逃げ込んでもわからなかったという実に治外法権の場所で過ごしていたため、フツーの感覚とは違います。それがいま教壇に立つという恐れ多いことをしているので、しばしば距離感を確かめてみるのです。

ぼくは、学生に「教える」気はありません。ぼくの役割は、知識を伝えることではない。その能力もない。だいいち大学院は教師が教える場所ではなく、学生が学ぶ場所。そしてデジタル化が自ら学ぶ可能性を格段に広げます。ぼくにできるのは、こうやって学べばよいというヒントと場を提供することです。ぼくは産学プロジェクトを回しながら、その機会を与えようと思っています。

しかし、デジタルは厄介なこともしでかします。2011年、震災の少し前に発覚した京都大学入試事件。ケータイでYahoo!知恵袋に答えを求めたソーシャルな受験生は、警察に逮捕されました。処分は即刻、外部に委ねられました。大学自治という葛藤や逡巡は見られませんでした。イカンことはイカン。でも、昔ならタテカンが建ってビラが舞うぐらいの問いかけがあったんじゃ?

それよりも。ケータイからYahoo!知恵袋への発信というのは、文部科学省が推奨する「教え合い・学び合い」のデジタル版ではないか?これからの社会に必要な能力はそーゆーことではないか?そーゆー能力を育て、発掘することを考える前に、タイホせざるを得ない大学や社会や大人にこそ問題があるのでは?

高等教育のあり方ってやつは、何十年、いや何百年もかかって積み上げられ今日に至ります。一方、授業をネットで無料公開する有名大学も増え、知と社会との関わりも急速に変わります。大学は、悩みどころ。ぼくも悩もうと思います。