戦争を憎み、平和を愛した作家、山崎豊子さんの『大地の子』秘話

日頃、中国を専門として記事を執筆している私ですが、8月末ごろから、なぜか急に『大地の子』(山崎豊子著、文春文庫、全4巻)を再読したくてたまらなくなり、手に取りました。人生で3回目の通読です。約3週間かけて読み切り、感動の涙を流し、自分の仕事に役立つことがまだまだ多いと実感しました。そして、さらに本書の回想録である『「大地の子」と私』(文春文庫)も手に取りました。おそらく今夜あたりには読み切るだろうというまさにそんなとき、「作家の山崎豊子さん、死去、88歳」という訃報が飛び込んできましたので、その偶然の一致に我ながら驚きました。

メディアのニュースで山崎さんの代表作として挙げられているのは『白い巨塔』や、比較的近年の作品である『沈まぬ太陽』ですが、私にとって、最も思い出深く、最高傑作だと思えるのは、やはり中国を描いた『大地の子』しかありません。

『大地の子』はこちらにくわしい解説がある通り、ある中国残留孤児の人生を描いたストーリーです。満州開拓団にいた男の子が、日本の敗戦後、過酷な体験をして生き残り、中国人養父母のもとで育ちます。「小日本鬼子」(日本の蔑称)といじめられながらもたくましく生き、大学を卒業して鋼鉄公司に就職しますが、文化大革命の嵐に巻き込まれ労働改造所に送られ、筆舌に尽くしがたい苦労をします。

しかし、養父の温かく懸命な救出活動により生還。国家を挙げて取り組む日中合作の製鉄所プロジェクトのメンバーになりますが、そこには実の父がいた……という話です。NHKでドラマ化されたので、記憶に残っている人も多いでしょう。日本の名優・仲代達矢や中国の名優・朱旭を上回るほどの素晴らしい演技をしたのが、当時、無名の俳優だった上川隆也でした。セリフとはいえ、上川隆也の中国語は本当にすばらしかったです。

親子の情愛がテーマだが、悲惨な戦争も描く

この小説で描いている主たるテーマは、主人公である残留孤児・陸一心と養父・陸徳志、実父・松本耕次との親子の情愛、恩愛です。これを中心にして、戦争の悲惨さ、文化大革命の実態、中国人の濃い人間関係と足の引っ張り合い、日中国交正常化、中国国内の政争、日中の経済格差、中国人の日本観、日中の不幸な歴史的関係、といったものも描いています。ドラマでは、1960~80年代の貧しい中国の農村の風景や迷信、人々の服装などディテールもしっかり描かれていて、その時代を研究している人々にはおおいに参考になると思います。しかし、中でも今回、私が本書を再読していてとくに強く印象に残ったのが、日中共同の製鉄プロジェクトで日中の技術者が激しく対立する場面でした。

日本側が輸出したアンカーボルトのコンテナを中国側が開けてチェックし、「アンカーボルトが錆びているじゃないか」と文句をつけるシーンです。日本側は「通常、ボルトは埋め込んでしまうので、多少錆びていても使用できるから大丈夫だ」と説明するのですが、中国側は「信じられない。こちらは貴重な外貨を使っているのだ。こんな製品は絶対に受け入れられない」と突っぱねます。そして、陸一心が「日本人はシミのついたワイシャツを買いますか? ズボンの中に入れてしまうから平気だ、とはいわないでしょう? だから、こういうものは我が国では受け入れられない」と説明するのです。

わかりあえない中国人と日本人を描くシーンに胸がつまる

通常、国際社会では問題にならないようなささいなことについて、平気でイチャモンをつける中国人に唖然とする日本人―。そして、日本側への不信感を募らせ、「バカにされたくない」と思うプライドの高い中国人――。

この対立は、まさに現在の日中の関係悪化にもつながる、日本人と中国人の根本的な「考え方の違い」を現わしていて、深く考えさせられました。当時の中国では「国家」や「党」が表に出てプロジェクトを推し進めているのに対し、日本側は一民間企業(この小説のモデルとなっているのは新日鉄)が、プロジェクトを背負わされ、多くの技術者が、言葉もよくわからない中国で事業に取り組まなければならない。日中国交正常化後、初の大型プロジェクトとして鳴り物入りで始まった事業ですが、当時の日本人関係者が慣れない中国でいかに苦労したか、その一端が山崎豊子さんの綿密な取材で明らかになっています。現在、中国に住み、中国人と丁々発止でビジネスをしなければいけない14万人の在留邦人にとっても、参考になるところが大きいのではないかと思います。

中国を美しく書いてくれなくてもいい

小説の後日談である『「大地の子」と私』の中で、なぜ山崎さんがこの小説を書いたのか、執筆のきっかけや秘話も紹介しています。中国の招待で1983年、84年と続けて訪問され、そのとき、北京の出版社の方から「宋慶齢について書いてくれませんか?」と依頼されました。宋慶齢は孫文の妻となった女性、有名な宋家の3姉妹の二女です。ですが、山崎さんは「私にはとても中国人は書けません」と辞退します。すると、「あなたは『二つの祖国』でアメリカを書いたじゃないですか? アメリカを書けて、中国は書けないんですか?」といわれ、そこで「二つの祖国」で日系アメリカ人を書いたことを思い出し、「中国には戦争孤児がいた。これなら書けるかもしれないとひらめいた」といいます。

しかし、取材には長い年月がかかりました。1984年に取材を始めましたが、中国の取材は役所の厚い壁に阻まれて遅々として進まず、困りぬいた山崎さんは一旦あきらめようとします。そんなとき、救いの手を差し伸べてくれたのが当時の中国共産党・胡耀邦総書記でした。会見に先立って「1人の中国人と、1人の日本人として語ろう」というひと言が伝えられたといいます。当時、“中国の常識”では最高指導者が外国の一作家と会うことなど、考えられないことだったとか。山崎さんはホテルで3日間待機させられ、ついに会見が実現しました。このときの2人の会話のうち、象徴的な場面が、同著の中に収録されています。

'''山崎さん:「小説はスローガンではありません。私は中日友好のために小説を書くと報道されていますが、最初からそれを前提にして書くことはできません。書いたものが結果的に中日友好のためになればと思っています」

胡耀邦総書記:「中国を美しく書いてくれなくてもよい。中国の欠点も、暗い影も書いてくれて結構。ただし、それが真実であるならば」'''

山崎さんの胸に「それが真実であるならば」が重くのしかかってきましたが、胡耀邦総書記との会談のあと、普通では考えられない未開放地区の農村のホームステイなどの許可も下り、東北地方、新疆ウイグル自治区、延安、西安、内蒙古などの取材を行うことができたと書いています。胡耀邦総書記の支援がなかったら、おそらく『大地の子』が日の目を見ることはなかったでしょう。

失脚した胡耀邦氏のお墓に参る

このようにして、ようやく大作『大地の子』は完成しました。しかし、完成を目前にした1989年4月、胡耀邦氏は亡くなってしまいます。天安門事件の2カ月前でした。胡耀邦氏といえば、政治改革に取り組んで保守派の批判にさらされて失脚した人物。民主化を叫ぶ大学生にも理解を示していました。胡氏への学生たちによる追悼デモが天安門事件の引き金になったといわれています。

山崎さんは葬儀の日、北京にいました。中央電視台で放送された葬儀の中継を見たあと、矢もたてもたまらず、自宅を訪問します。古びた質素な四合院、それが胡耀邦氏の私邸でした。警備員との問答の末、ようやく門を開けてもらい、中で李昭夫人と涙の対面を果たします。そして、後日、最終回を書き終えた山崎さんは江西省の共青城(共産主義青年団の町)にあるお墓を訪れ、出来上がった著書を墓前に供えたそうです。

『大地の子』は限りなくノンフィクションに近い小説だといわれており、小説の中に出てくる中国の指導者の名前も、「トウ平化」「趙思央」「夏国鋒」「江卓民」など、明らかに本名が誰かわかる人物も登場します。また、主人公・陸一心のモデルとなる残留孤児がいるわけではありません。山崎さんが取材した何人かの孤児のエピソードをつないで構成しているそうですが、残留孤児の中で、高校以上に進学した人はわずかしかいなかったとか。ほとんどが農村で労働力のひとりとして働き、中には自分の名前くらいしか書けなかった人も多かったそうです。山崎さんは「残留孤児」という言葉は決して使いませんでした。本書によると、「残留」という言葉には「自分の意思で残った」ニュアンスがあるからだそうです。

山崎さんは1924年(大正13年)生まれ。戦時中は学徒動員のために軍需工場で砲弾磨きをしたそうです。戦争の不条理や悲惨さを身をもって経験した最後の世代。私は先日来、山崎さんの本を読み返しながら、「ああ、山崎さんがあと20年若かったら、また中国のリアルな小説を書いてくれないだろうか」と思ったばかりでした。今の厳しい日中関係を、どのような目で見つめていたのでしょうか。