「自分のことがわからない」ときに「自分ひとりで考えこむ」と「胃液」しか出てこない理由!?

(写真:アフロ)

 自分のことがわからなくなったら、「他人から感謝されること」をしてみたらいかがでしょうか?

   

 これは、僕が、普段から、学生のみなさんに、アドバイスを差し上げていることです。

 僕の専門は「人材開発」です。心理カウンセラーでも何でもないのですが、これまで15年強の教員経験から、そんなことを思います。

 先日も、授業の最後で同じことを申し上げました。

  

 ここで「他人から感謝されること」といっても、何も「大それたこと」ではありません。「ほんの少しの背伸び」でいい。誰かを手助けしてみる。誰かの役に立ってみる。「自分のことがわからない」ときには、ひとつ、そんなことを試みてみたら、どうだろう、と僕は思います。理由はあとで述べます。

  

 逆に、個人的にあまりおすすめしないのは、

   

 自分のことがわからなくなって、自分一人で考えこんでしまうこと

   

 です。

  

 考えこむのは「個人の勝手」なので、好きになさっていただければとも思うのですが、経験上、自分の内面やインサイドを、自分ひとりで、えぐったり、まさぐってみたりしても、行き詰まってしまう人の方が多いように思います。僕の経験上。

 といいますのは・・・たいてい「自分がわからないとき」というのは「自分が弱っているとき」だからです。

 ただでさえ「自分が弱っているところ」に、ぐりぐりと、内面をまさぐり、えぐってみても、余計に「もうだめですけんのー」という状態になることが予想されます(泣)。

 これにゆるく関連するお話として、哲学者の鷲田清一先生がこんなことをおっしゃっています。

  

 胃の存在はふだんは「意識」しない。その存在は「故障」してはじめて意識する。同じように「わたしは誰?」という問いは、たぶん「わたし」の存在が衰弱したときにはじめて際立ってくる。

出典:(鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」より引用)

    

 要するに「自分のことがわからない」という状態は、自分が「衰弱」してしまっている状況において起こりうるということですね。鷲田さんは、これを「胃の存在を意識すること」のメタファでご説明なさいました。まことに慧眼です。

 ここで我々が認識したいことは、「いま、わたしを問うあなたは、少し疲れちゃっているのかもしれない」ということです。そして、だとするならば、自分が「衰弱」してしまっている状況において、自分一人で内面をまさぐっても、でてくるものは「胃液」くらいなものである、というのが、あまり育ちがよくなく、品のない僕の意見です。

  

 おえっ「胃液」は、いやだよねぇ。

 あまりお逢いしたくないわ(笑)

  

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 それでは、自分のことがわからなくなったら、「ほんの少しでも他人から感謝されることを試みる」とどうなるでしょうか。

  

 まず、'''自分は「他人から感謝されること」をなすのですから、貢献した第三者や周囲から感謝されたり、認められたりします。''

 '僕は、自分が弱っているときには、こうした「ポジティブな他者からの言葉」で、まずは「衰弱した自己」を快復させることが重要かと思います。

 まずは自分を快復しよう。そして、その上で、「関係を築けた他人」から、「様々なフィードバック」をもらえばよいのかと思います。

  

 自分は、相手からみてどのように見えるのか?

 何をやっているときに、いきいきと見えたのか?

 自分のどんな行動に感謝してくれたのか?

 

 など、自分に関する情報を、様々に他人からフィードバックしていただけるとうれしいことですね。

 

 要するに、わたしが申し上げたいのは、

  

 「他人という鏡」を通して、自分を見つめること

  

 です。「自分の内面」を見ようとして、自分を見つめるのではなく、「他人という鏡」を通して、自分を見つめることが重要かと思うのです。

  

 鷲田先生は、同著において、

  

 わたしというものは「他者の他者」としてはじめて確認できる

  

 とおっしゃっておりました。恐れながら、わたしもまったく同意見です。「他者という鏡」をとおして見た他者こそが「自己」を構成する要素はまことに大きいのだと、思います。かつて、精神医学者のR.D.レインは、「自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自己に語って聞かせるストーリーである」といったといいます。

 「自分が何者であるか」というストーリーを組み立てるには「他者という鏡」を必要とするのではないかと思うというのが、まったく門外漢の僕の意見です。

  

  ▼

  

 今日は、なんだか朝っぱらから、小難しいことを書きました。

 やや複雑でしたが、でも言いたいことはシンプルです。

  

 自分のことがわからなくなったら、「他人から感謝されること」をしてみればいいのではないだろうか?

 そしたら、「他人という鏡」を通して、自分がわかるかもよ。

 「他者にとっての他者」として、「自分を認識」できるかもよ

 ということです。

  

 ちなみに、40歳をゆうにこえても、小生も、いまだに「自分」がわかりません(笑)

 時折、本当に、このままでいいのかな、と思います。

 青い・・・青すぎる・・・蒙古斑的に青い(笑)。

    

 嗚呼、学生の皆さん・・・やや絶望的になるかもしれませんが、40超えても、そんなものなのです(笑)

 本当のことをいいましょう。

 自分のことがわかっていそうな、あの人も、その人も、実は、「自分がわからない」のです。

 しかし「自分のことがわからない」ことは、自分が弱っているときにしか「前景化」しません。

 ただ、それだけのことだと僕は思います。

 だから、自分のことがわからなくても、大丈夫だよ。

 みんな、たいした変わらないから(笑)。

 みなで、他人に感謝されることを為していきたいものですね。

 自戒をこめて

  

 そして人生はつづく